2012年9月29日(土)

整体のおかげで気分が良かったのもたったの一日。今朝はまたしてもうつの海で溺死寸前。一日限りの元気玉に病院代1800円とは、コストパフォーマンス悪くて泣けてくる。とほー。

朝6時、父の夢で目が覚めて、起きなきゃと思うのに体が動かない。それから8時半までベッドの上で後悔の念にのたうち回り、生きるってどうしてこんなにしんどいんだ?とだんだん腹が立ってきた。

ものすごくしんどい時、このきつさをどうやって表現しよう?と妄想すると、いつも頭に浮かぶのは、『ターミネーター2』のワンシーン。サラ・コナー達がサイバーダイン社に乗り込んだ時、死んでしまうスカイネット開発者の最後のシーンだ。

銃弾に倒れ血を流しながら、爆破装置のスイッチを握りしめる男。手の力が抜けると爆発してしまうから、サラたちのために必死に押さえているのだが、やがてどんどん呼吸が荒くなってきて、「もう駄目だ」と手の力が抜けてドカーン!と。
私はあらゆる映画の中で、あれが一番苦しそうなシーンだと思っており、今の呼吸がうまく出来ない苦しさは、あのぜいぜいする感じに似ている。

うつ病で服薬してる人たちって、どういう時点で心療内科の扉を叩くんだろう。私の苦悶レベルで薬に頼ってる人は多いのかな?
このまますべての記憶を失いたいと思うくらい辛いけど、うつ病の薬を飲んでる他の人々の苦しさと比べると、自分はまだ甘いかもしれない……。
……とこう思うゆとりがかろうじて残っているあたり、まだもうちょっといけるかねえ。

そんなことを考えながら、母の見舞いに行く準備をしている。ホームまで往復4時間の道のりは肉体的にきついけど、体をとことん疲れさせて、うじうじ悩む元気をなくしてしまおうという算段なのだ。

そういうわけで、これからちょっくら行ってきます。
お母さん、できれば笑顔を見せてよね。でないと私ますますブルーになっちゃうから
(´・ω:;.:...

2012年9月28日(金)

昨夜は久しぶりに夜中に目覚めずに6時間眠れた。いつもの整骨院で「体を引き締めて」もらったお陰だろう。朝起きて、「お父さん、お母さん、今日もがんばるからねっ!」と中空に話しかけ、自分のクサさにはにかむ程度には調子がいい。

今、私の体は、父の急逝という大きなショックを受けて極度に緊張していた状態から、徐々にゆるんで異常が出ている段階である。

左半身のあちこちに、あせもみたいな吹き出物が出て視力は低下。口内炎ももれなくついてくる。
顔は締まりなく垂れ下がり、当社比1.3倍くらいに巨顔化。ストレスのあまり、すっかり人相が変わってしまった。鏡をのぞくとどす黒い顔のおばさんが、うつろな目でこっちを見ていてゾッとする。

ブス化に加えておびえているのは、シャレにならないくらい髪の毛が抜けること!この2週間で額から頭頂にかけてすっかり薄くなり、フォンテーヌ行き必至である。
おおおお……まるでお岩さんになった気分だよ……誰かがこっそり毒盛ってんじゃねえか?(被害妄想)

イメージ的にはギュッと絞ったギョーザのタネ(柔らかめ)が常温でほったらかされて、徐々にでれんとしてきちゃない液体が出てきている感じだろうか。
で、そのゆるみを引き締めて体のゆがみを取り、丹田に力が入ってちゃんと呼吸できるように導いてくれるのがN整骨院なのだ。

家から自転車を必死でこいで、40分ほどかかるN整骨院。広告のたぐいは一切していないのに、口コミでやって来る患者が夜の10時までひきもきらないのを見ると、「効果がある」というのは私の勘違いではないんだと思う。

そして、アルツハイマーをくい止めようとかつて通わせていた母によれば「次元大介に似てるv」先生は、もうとんでもなくウホウホに儲けてるだろうが、お世話になってるせいで妬みはない。本当にない(笑)

12、3年前に交通事故に遭ってから、ずっとお世話になっているN整骨院。それでも通院がめんどくさいのに加えて、保険適用でも一回1800円と微妙に高くつくせいで、これまでは月に2,3度行くのが限界だった。

しかしこれほどまでにちゃんと眠れて翌朝しゃきっとするのなら、ゼニのことは忘れて週に二回は行くべきだな……。

父の葬儀が一段落して駆け込んだ時に、「これからもっとゆるんでくるので覚悟して」と釘を刺されたのを思い出して、いつまで通わなきゃならないんだ?とうんざりするけど、自分の肉体は自分にしか管理できない。

限りある人生を無駄にしないためにも、一日でも早く楽しく生きることを思い出せるようにしっかりしなきゃな。

そういうわけで、今夜はドス黒くむくんだ顔にファンデーションを塗りたくり、バリッとしたスーツでスペイン料理でも食らってきます。(いまはこんなに元気でも、明日にはきっとまた鬱日記……)

きゅうにすずしくなったから、みんなもおなかをひやさないようにね!ばいばーい。

2012年9月27日(木)

「父にもっと優しくしてやれば良かった」という後悔に苦しむ私に、妹ヘボピーが貸してくれた伊集院静の人生相談本『悩むが花』。
その一文を読んだ時、自分はいい育て方をしてもらったんだなあ!と胸が痛くなった。

「私は後輩に子供ができると、“子供の躾は、自分以外の人の、生きてるものの痛みが分かる子供にすれば、教育の半分はできたと考えなさい”と言っとるんだよ」

放任主義の面もあって、我が家の教育方針は理想的だったとは言い切れないとは思う。だが、少なくとも“他者の痛み”だけは十二分に分かる人間に育ててくれた。だから教育の半分はちゃんとしてくれたということになる。

思いやり、同情心、他者の立場への想像力、小さいものへの憐れみ。こういった気持ちは、世知辛い世の中で生きていく上ではややもすると足を引っ張るものかもしれない。
それでも情が深いあまり情で失敗しがちな自分のことを、私はそれほど嫌いじゃない。それどころか、幾度かの失敗を経て今なおこんな甘ちゃんのままでいさせてくれた、幸運と親に感謝する。

父の死をきっかけに振り返ってみれば、私たちは本当にいい親に恵まれたんだ、と今になって痛感している。

絶対的に自分を愛し、守ろうとしてくれる存在。何があろうと味方でいてくれる人。
私にとって“両親”とはそういうものである。だが、世の中を見回すと、必ずしもそういう親ばかりではないことに気付く。
だからこそ、世間ずれしたこの年になってなお、両親が世界中の何にも代え難く娘たちを愛してくれている、とひとかけらの疑いもなく言えること、これはもうすごい幸せだったんだなとしみじみ思うのだ。

だからこそ今の離別の苦しみが大きいのだ。気づくのが遅すぎた。これほどまでに自分を愛してくれた存在に、ちっとも恩返ししなかったという後悔で苦しくてたまらない。

昨日の日中は気分がよくて、気晴らしに友人のいる東京か静岡に旅行に行こうかな、と思うくらいポジティブな気持ちだった。
だが、眠りにつくと2時間おきに目が覚めて、その度に「あの時こうすれば良かった」「どうしてあれができなかったのか」という思いが脳味噌の中でうずを巻き始める。済んだことを後悔しても無駄だと分かっていても、ネガティブな感情を振り払えない。

この眠りの浅さ、実家で妹やマヤがいる時にはましなので、今夜は実家に戻るつもりだ。交通費がもったいない、通勤が遠くてめんどいとか言ってられない。
少しでも立ち直るきっかけが欲しくて、ガラガラ崩れてくる岩壁に張り付いて、必死であがいている真っ最中。

2012年9月25日(火)

さっき夢に母が出てきた。すでにアルツハイマーにかかってはいるが、会話は何とかなり立って、介助すると歩けるくらいの段階で、小花模様のワンピースを着ている綺麗な頃の母だ。

私たちは住宅街の中を流れている幅3メーターくらいの川を眺めている。雨上がりで水かさが増し、青緑色の水がごうごうと音を立て、白い水しぶきを上げている。

川には橋がかかっているが、かなり上流で歩いてゆくにはちょっと遠い。
「お母さん、橋はあんなに遠いから、こっちの道から回って駅に行こうか」と私。
だがはじめは「うん」とうなずいた母だったが、ちょっと川を見つめると「やっぱりあっちがいい」と橋を指さした。

「ならあっちに行こうね」
私は母の手を引いてアスファルトの道から大きな岩だらけの河原に降りた。「ゆっくり行こうよ。時間はいくらでもあるんだから」

「お母さん」母が足を踏み外さないように気を遣いながら話しかけた。
「お父さんの代わりにしっかり生きてね。でないと私寂しいわ」

「うん」とうなずく母。でも次に聞こえた言葉は「でも、もうしんどいわ」
その声はまるで耳元に直接話しかけられたようで、これは夢だと分かっている私は眠りながら思った。
(ああ、やっぱりしんどいんだ。一日中指一本動かせずにベッドに上にいるんだから当たり前だ)

そして母はこう続けた。「これも人間に与えられた○○」。
その○○がどこかで聞いたことがあるような、でも日本語の熟語ではない言葉だったから、この言葉は一体なんなんだろう?母は何を言おうとしているのか?と必死に考えるところで目が覚めた。

いつものおだやかさとはうって代わって恐ろしい流れを見せる川。不思議と青い水の色。
北側には六甲山が見えていたから、小さい頃に住んでいた岡本と、近所を流れていた川の記憶かもしれない。いずれにせよ、目覚めてなんとも言いしれず寂しくなる夢だった。


メールやお便りをくださるみなさま、どうもありがとうございます。また、連絡がなくとも「今はそっとしておこう」と黙って見守ってくださっているみなさまにも心からの感謝を。

まだまだ精神的に辛すぎて、個々にお返事をする元気がちょっと出ないのですが、し心からの温かい言葉には本当に励まされております。悲しみを共有できる生き物は少ないけれど、人間はそういう数少ない種の一つなのだなあ、と妙に感心したりしています。

父との別れのこと、悶絶するほどの私の後悔など、ここで吐き出したいことがたくさんありますので、薄暗くて申し訳ないですが、そのあたりぼちぼち書かせてください。

2012年9月23日(日)

父がいなくなってから23日が過ぎた。何ヶ月も前の出来事のようだ。
でもまだたったの23日。胸の痛みはちっとも消えない。それどころか極度の肉体的緊張が解けてきたせいか、父の不在を現実のものと認識しつつある今、昼も夜も悪夢の中であっぷあっぷしている感じである。

食欲はあって眠れるのがせめてもの救いとはいえ、目覚めている時は片時たりとも父のことが頭から離れない。
あの時どうして会いに行かなかったんだろう?あれを食べたがってたのに、どうして作ってやらなかったんだろう?と悔やむあまり、息をするのも辛い。髪の毛がばっさり抜けてニキビが出てきて、足の爪はぶつけてもないのに紫になっていて、ストレスが人体に及ぼす害を身をもって証明している感じだ。

老いた親を失うのは自然のことわりである。ましてや父は日本人男性の平均寿命よりも長生きして、ほぼ苦しまずに最期を迎えた。
そこに後悔が滑り込む余地ははほとんどない。第三者の視点で眺めるとそう思う。だのにどうして自分はなぜこんなに強大なダメージを食らっているのだろう?

それは多分、父が私にとって守るべき唯一無二の存在だったから。
老いていても自分で自由に出歩けていれば、いや、せめて目がちゃんと見えてさえいれば、なんでも自分一人でやってきた父のこと。「好き勝手生きてそこそこいい人生だったよね」と納得できて、ここまで苦しむことはなかったと思う。

しかし最後の一年はほとんど歩けず目も見えず、大好きな本も読めなくて、いつも「画面が見えないから音を聞くしかないねん」と言いながら、つまんない番組を垂れ流すテレビの画面を一日中眺めてた。
そのテレビだって「もっとボリューム小さくしてよ!」としょっちゅう私たちに叱られて、すごすご小さくしていた。
食べ物だってお店に食べに行くのは無理なのは言うまでもなく、スーパーの棚にさえ何が並んでいるか分からないから、好きなものを買うことはできなかった。


5月にパキスタンの何もない国境の町スストで3日間足止めされた時、停電して真っ暗な部屋のベッドで横になりながら、いつ日本に帰れるんだろう?と不安に押しつぶされそうだった時に気がついた。

お金も、恋愛も、仕事も、趣味もどうだっていい。
自分にとって究極に大切なものは、父と、母と、マヤなんだと。そして無事に日本に帰れたら、この三人に誠心誠意尽くそうと。

そう決意した時には、真理を見いだしたとまで言うとおおげさだが、溜まっていた胸のつかえがすうっと取れたような、うたかたの夢から覚めてようやく現実がくっきり見えたような、実に爽快な気分だった。

だというのに、日本に戻ると年期障害のしんどさと夏の酷暑を言い訳にして、父のことをちゃんとケアしてやらなかった。
病状が悪化しつつある母を優先した面はあったとはいえ、それは言い訳にすぎなくて、暑さとだるさに負けて自分のことしか考えていなかった。もっとちゃんとする余地は十二分にあったっていうのに!

だから、せっかく見いだした一番大事なものに優しくしないままに対象を永遠に失った今、喪失感にただ呆然とするばかりなのだ。


父はこの世を去った。それだけは信じたくなくても動かしがたい事実ではある、とようやく認識しつつある。
今は極端な悲しみと平常心の間を、振り子のように行ったり来たりしている精神状態だ。

そのうち、徐々に振り子の振幅が狭くなって、やがて父のことは懐かしい記憶に変わるのだろうか?
起きている時間の9割は憂鬱で1割が平静な今の状態から見ると、このまま西洋医学の薬に頼らざるを得ない状態になるか、それとも徐々に心が癒えていくのか、自分が危険な分水点にあるのが分かる。

それでも友人たちがくれた言葉で、少しづつ気持ちが癒えてきている気がしないでもない。
これから母の顔を見に行くので、そのあたりについては帰宅してから改めて書かせて頂きたい。

しばらくはこんな感じで、胸のうちを書き殴るだけのダウナー日記が続きますが、ご容赦いただけると幸いです。

2012年9月18日(火)

通夜の会場から抜け出して見上げた空。ブルームーンが見られた8月31日はあいにくの曇天〜土砂降り。でも、厚い雲の間からほんの一瞬だけ満月がのぞいてくれた。


去る8月31日、父が急逝しました。

お盆に母を一時帰宅させた時、一緒にうちに来るはずだったのに、具合が悪いから行かないと急に言いだして、その翌日には自分で救急車を呼んでそのまま入院。

当初は一週間か10日で退院できるとのことだったし、亡くなる前日にも「リハビリがんばるわ」と言うくらい快方に向かっていて、私とヘボピーはすっかり安心していました。

それどころか、介護が大変になるなぁと一抹の憂鬱すら覚えながら、退院後に歩けなくなることを見越して、要介護レベルをランクアップさせるべく、ケアマネと相談してあれこれ準備を始めていたくらいでした。

でもその矢先、夜明け前に突然かかってきた病院からの電話。4時20分に突然容態が急変して、駆けつけた娘たちを待つことなく、父はあっという間に逝ってしまいました。心臓の鼓動を示すグラフを見せてもらうと、たった2分少々のことでした。

医師の説明によれば、睡眠中にのどが詰まって全身に血液が回らなくなり、不整脈を引き起こした結果なので、本人は眠っている間のこと、苦しみは少なかったであろう、という点がせめてもの救いです。

しかしあまりに突然なことなので、私はまだ全く父の死が受け入れられません。
そして、喪主として葬儀を手配して走り回った際の極度の緊張の反動なのか、何もすることがなくなった今、亡くなった直後よりもはるかに辛く厳しい毎日です。

世の中にはもっと酷い苦しみを抱いている人たちがいるんだとか、親を失った悲しみは誰もが経験するものだと思ってみても、それは頭で考えるだけの話。
50年近く一緒に生きてきて、唯一自分の生い立ちを詳しく知る人がいなくなるということは、まるで自分の根っこが消え去ってしまったようで。辛くて辛くて心と体の両方が軋んで耳障りな音を立てて、それがうるさくてちっとも安らげません。

わがままで自意識過剰で空気読めなくて、天の邪鬼の変わり者だった父。生きている時はイラッときたけれど、今はひたすらあの変人ぶりが懐かしい。振り返ってみれば本当に可愛がってくれて、夢いっぱいないい育て方をしてくれました。

父が去った今、私のすべきことはこれまでに受けた愛に感謝しながらしっかり生きて、親にもらった恩を世の中に返すことだと分かっています。

でも、悲しみで息が出来なくて、二度と朝が来なければいいのにと思うほど苦しい今は、ひたすらこらえて時が経ち、後悔が感謝と懐かしさに変わるのを待つしかないのでしょう。

そういった事情ですので、無理に元気にならないことにします。

しばらくはここの更新もゆっくりになるでしょうが、そのうちだんだん悲しみが癒えて戻ってくると思いますので、みなさまには気長に眺めていただければ嬉しいです。


遺骨を持って帰った日の夕方。ベランダに椅子を出して泣きながら眺めた空は、金色の雲におおわれていた。あの雲の向こうに父がいるような気がして涙が止まらなかった。

2012年9月6日(木)

バタバタしてます。落ち着いたらちゃんと更新しますので、取りあえず生存報告ってことで。

数年前、東京メトロで見かけたポスター。犬猫の写真を遣ってマナー向上を呼びかけている。
私はこのシリーズが大好きで、駅で見かけるたびになんとなく楽しい気分になったものだ。

だが、感性って人によって異なるもの。
ちょっと前に某エッセイストが「なにが言いたいのかワケが分からない。くだらない広告の代表例」と書いているのを発見、自分の悪口言われたみたいでちょっとへこんだ。

東京駅地下にある、巨大コインロッカースペースのポスター。『いぬさん』なんてガキじゃあるまいし……と一瞬思ったものの、番号より覚えやすいのは確実だよね。

他にも「うさぎさん」や「かめさん」ロッカーがあるのだろうか?確認に回るだけの体力は残ってなかったが。

大阪・通天閣のジャンジャン横町で見つけたポスター。

ゾウとライオンとシロクマの隣に、キウイにそっくりだからと命名されたちんまい鳥をもってくる強引なコラージュに、下請けデザイナーの投げやりっぷりを見た。

海上自衛隊の特殊部隊のおにいさん。ライダーシリーズの俳優さんばりにカッチョいい。
当然ながら頬を紅潮させた女性軍に、ひっきりなしに記念撮影を頼まれていた。

鶏むね肉にそっくりなワンちゃん。
左のおにいさんくらいにスマートになるのはもう無理です。