BROTHER SUN BROTHER MOON
「どうしたんだ、前線から今帰ったみたいな顔をして」
開いた扉のあちら側に隠れるようにして立っている男に声をかけた。
彼は無言のまま部屋の主が現れたのがさも意外だとでも言いたげに、本来眉があるべき部分のなめらかな皮膚を引き上げてみせる。
いつまでも黙っているからうながした。「入るなら入れ。寒い」
すると一瞬ためらった後にようやく部屋に足を踏み入れた。
狩人の跳ね罠から命からがら逃げ出して、二度と同じ目に遭うまいと決意した小さな肉食獣を思わせる慎重な足取り。 どこかしら優雅なしぐさ。
「まあ座れ。何か飲むか?ーーブラックティーかグリーンティー。酒はないぞ」
薄い唇を結んだまま本棚に並ぶクロス張りの背表紙を眺めていた彼は、振り返らないまま答えた。
「グリーンティー。濃い目がいい……この本、見ていいか?」
東洋風のアイリスが淡い墨で描かれたティーポットに深緑色の茶葉を入れながらうなずくと、一冊の写真集を取り出して椅子に腰をおろした。
"The prehistoric rock paintings of Tassili
n'Ajjer" (タッシリ・ナジェール先史時代の岩壁画)
兵士としてはあまりにも繊細な指先が、アート紙を一枚一枚、吟味するようにめくっている。
シズオカ産の緑茶が湯気をたてるカップを差し出すと顔を上げ、数千年の昔から呼び戻されたかのような驚いた表情を浮かべてまばたきをしてから、われにかえって本を置き、ダンケ、と短く言って両手を差し出した。
「ああ、これは有名な絵だな。美しいものだ」
わたしは身をかがめると、彼の膝の上で開かれた本を覗きこむ。「この描線のなんという生命力!」
角を振りたて疾走する野牛の群れ。物憂げに立ちつくす犀。
股から後産をぶら下げたまま長い首を折り、生まれたばかりの子供を優しくなめる麒麟。
先端に黒曜石をつけた矢をつがえ、槍を構える狩人たち。
「美術」の観念の萌芽を見るよりはるか昔に生きた画家の手による奇跡的産物。いずれもが魔術的な力強さと近寄りがたい崇高さに満ちて、我々の視線を拒むかのように超然と佇んでいる。
その雰囲気は目の前の奇妙な男にもどこかしら似て。
静かな夜だ。
砂塵で汚れた窓ガラスを通して時折聞こえてくるのは、基地に出入りする車両の音。
そして狼の気配でもするのか途切れ途切れなシェパード犬の吼え声。うおーん わおーん。
わたしたちはしばらく向かい合ったまま無言で砂岩の上に息づく生き物たちを見つめていたが、突然なにかを思い出したかのような低いつぶやき。
「なあポー、あんたは思わないか?」
質問の意味を目で問うと、ふいと視線をそらして吐き捨てるように言った。
「俺はこういうのを見てると時々……なんていうのか、人間はどんどん後退してんじゃねーか?って妙な気分になる」 そう言って上げた顔からは、自己の内部のみに耽溺しているようないつもの無関心さと、皮肉っぽく軽蔑したような態度はなりをひそめ、代わりに親から引き離されたばかりの幼子を思わせるむき出しの不安が浮かんでいた。
珍しいことだ。
彼が人前で不安や憐憫、共感や愛情を表すことはことは滅多にない。
それゆえに世間は彼のことを、銃の無慈悲な美しさの前にひれ伏し、戦場ではハミングせんばかりに嬉々として死とたわむれる人でなし、さしずめそういう風に見ていることだろう。
だがこれまでにもわたしは、途方にくれた子供のように狼狽する彼を幾度か目にしていたから、ことさら驚きもせず、同時に慎重に言葉を選びながら答えた。
「ふむ、後退している、か……そうだな、それは同感だよ。こういうものを見るとわたしもどうしてだか胸が痛くなる」
そして一息、二息おいて続けた。 「……それで?今夜は?」
今度は火山灰を振りかけた翡翠に似た目が質問の意味を問う番だ。
「今夜はどうするんだ?」と繰り返すと、答えの代わりに胸のどこかが破れたようなため息を吐き出したきり、足元の青いイスファハン産絨毯に視線を落としてしまった。
わたしは言った。
「まあ好きなようにしろ。本なら適当に持っていけばいいし、ここで読んでもいい。眠りたければそこのソファーを使え。
なんならドラゴンと魔法使いのお話を聞かせてくれてもいいがな、シェラザート姫。千夜は無理だがどうせ今夜はずっと起きているつもりだったから」
「ああ……そうか……」
彼は色味のほとんどない唇を落ちつかなげに舐めながら、曇ったガラスのような目で開いたままの本のページを眺めている。 緑茶のお代わりを勧めるともう結構と身ぶりで示し、意を決したかのようにぱたんと音をたて本を閉じて言った。
「なあポー」
「……なんだ」
肩をすくめて黙ってしまった。
「さっさと言え」
「その、ガキみたいなんだが……」
「どうした」
「……すこしだけ話していってもいいか?まあ、あれだ。迷惑ならべつにいいんだが」
先をうながすと柄にもない恥じらいを見せながら口ごもった。
「ああ、その……くそっ!なんて説明すればいいのか分からん。しいて言えば圧迫感っていうのか……。
ここんとこえらく嫌なイメージが回りから離れなくて……あんま眠れねえんだ」
「……そうか」
わたしはすっかりふくれあがった茶葉に熱い湯を注ぎ、自分のカップに継ぎ足した。
彼は戦場での経験を口にはしない。
なにか聞かれてもぷいっと立ち上がってどこかへ行ってしまうか、もしくは銃を愛撫しながら不愉快きわまりない薄ら笑いを浮かべるのみ。
そもそも腹に抱えたものをぜんぶ披露して神に情けを請うたからといって、晴れ晴れと天国の門をくぐる権利を賦与される望みのないことは彼のみならずわたしだって、魚が泳ぎ方を知っているくらいには承知している。
とはいえ、不眠の原因を自分だけの胸に留めおいて無為に苦しむ必要もないだろう。
「ふむ、嫌なイメージか……まあ眠くなるまで話してみろよ、睡眠薬代わりに。
いや、羊かな、一匹、二匹、柵をぴょこぴょこ飛び越える羊たち。今夜は特別にわたしが牧童役を請け負ってやろう」
そううながすと少しためらった末に、ぽつりぽつりと話しはじめた。
アフリカ、中東、ヨーロッパ。幼少時から今に至るまで目にしてきた紛争地の、記憶にこびりついて彼を苛む光景を。
血まみれの両手と自分の体にあいた穴を交互に見比べて、驚いた顔で何か言おうとしたままこと切れた上官の不自然にゆがんだ口の形。
輪姦され木に吊るされた娘のヒューヒューいういまわの呼吸音。絶望を焼き付けて見開かれたままのうつろな瞳。
草むらの中で青空を見上げながら転がっていた下半身のない男の、まるでピクニックを楽しみにする子供みたいに嬉しそうな顔。
もうすぐ帰国して嫁さんの手料理を食べるんだと話していた陽気な同輩が、そのたった数分後にIEDで跡形もなく吹き飛んだ時の肉の焦げる匂い。
おかあちゃんがいないよお!と叫びながら泥道を裸足で走っていたと思ったら、唐突にぱたりと倒れたきり二度と動かなくなったちいさな女の子の、はらわたを抉られそうに悲痛な泣き声。
そして、テロ現場の爆風に巻き込まれ瓦礫に押し潰されてなお、幼い自分の身を案じながらとても、とても静かに死んでいった祖母の薄紫の目の色、黒煙の合間を縫って飛ぶヘリの不吉なローター音。
彼はうめいた。
俺は戦場を第二の故郷と決め、銃を連れあいに選んだ。
頭を自動操縦に切り替えて思考のノイズを極限まで排除するのにも慣れている、と。
戦闘こそ俺に出来る唯一のこと。狂気の飼い慣らし方は知っている。
愛も怒りもクソくらえだ。強い感情はなんの役にも立たない、自分も回りもすり減らしちまう。
ポー、あんたも思うだろう?
忌々しい記憶と折り合いを付けられないタイプは、死ぬか戦場を去るかしかないって。
なのに今になって奴らがどっと押し寄せてきて、恨みがましくまぶたの奥で一席ぶつってどういうことだ?
そう、そうだなハーネマン。
おまえの言うとおり。
戦場では愛も怒りも役には立たない。フラットでいることが肝心だ。
それに酸鼻を極めた光景なんぞ、程度の差こそあれ兵士ならば誰でも目にするもの。人間の罪深さを見せつけられるのに耐えられないなら死ぬか戦場を去るしかない。
だが、その時頭の中で何かがかちんと音を立てたのだ。 そしておぼろげではあるが垣間見たのだ。
彼の胸の奥でうごめき、増殖し、すべてを覆いつくさんと両手を開いて待ちかまえている漆黒を。
同時にわたしは理解した。
彼の恐怖の源流は戦場の恐るべき景色、鼓膜に粘りつく悲鳴、血と火薬の臭いのみにあるわけではなく、なにかもっと……始原的な位相から彼の魂をいざない闇に沈めようとしていることを。
しかしそんな掴みどころのないイメージは、口にすると同時に霧と失せそうだったから代わりに言った。
「そうか、それは災難だったなハーネマン。人間とは忘れたいことに限って覚えているものだ。
今度そいつらが出てきたら言ってやれ。『悪いな。人間死ぬときは死ぬもんだ』ってな」
彼は目を見開いて泣き笑いを浮かべた。
そしてわたしには聞こえない誰かからの合図に耳をすますかのように目を閉じると、何か言おうとして唇を開いたまましばらく顔をしかめ、「ああ」と悲嘆の声を上げた。
パナミント山脈を超えてきた砂まじりの風が窓わくを揺らしている。
彼はしばらく美しい死体さながらに物思いにふけっていたが、灰緑色の虹彩をまぶたの奥からふたたび現して、けだるげに立ち上がると無言でわたしを見おろした。
それと同時に自分を痛めつけたいという衝動が突如として降ってきたのだろうか。
息も絶え絶えにつぶやいた。「なあ、慰めてくれよ」
なにを突拍子もないことを、と無性に腹が立った。
同時に心のどこか片隅ではこうなることを待ち望んでいたのかもしれない。返すべき言葉が見当たらなかったから。
彼はソファーに座ったままのわたしにまたがり、ゆっくりと首に両腕を巻きつけた。
色素欠乏症の女郎蜘蛛のような指先が伸びてきて顎鬚に軽く触れる。
膝に感じる鍛え上げ、使い込まれた肉体の重み。
なめらかな手の動き。官能的な口づけ。
「天国見せてやるよ」
特徴的なしゃがれ声が耳元に甘く響いて、痺れるような期待と畏れに体が震えた。
だが、焼き尽くされそうな高揚を覚える一方で、肉体はといえば凍りついたままだ。
メデューサの哀れな犠牲者のように身動きひとつできないわたしの長い沈黙を、拒否のあらわれと受け取ったのだろう。
ひどく傷ついたような苦しげな微笑を浮かべて身体を離すと殴りつけそうな勢いで言った。
「誤解するなよ、愛なんぞ欲しくない」
いつも遥かかなたを眺めているようなまなざしが燐光を放つ獣の目に変わる。
「あんたが欲しいだけだ。あんたの体が」
放蕩の記憶を深く刻んだ表情を浮かべて彼は私を凝視した。
ああ、ミッヒ・ハーネマン!
自分を罰する誘惑にかられて一夜の相手と繰り返す一瞬のまじわり。
惨めな肉体を持て余す石の心の漂泊者。
危険な偶像に手を触れることは主義に反するが、わたしはおまえを抱き締めずにはいられない。
わたしは肩にかけられた彼の手をやんわりと取った。
「おまえはわたしの愛なんぞべつだん欲しくないかもしれないが」
静脈が淡く大理石模様を描いている手の甲に口付けながら言った。
「わたしはおまえを愛しているよ。おまえの御しがたい精神、おまえの総てを」
そして抱擁。身動きすらできないほど強く。
意表を突かれ関節の自由を奪われた彼は、人に懐かない猫のように腕の中で体をこわばらせていたが、うぶ毛一本ない頭を胸に強く押し当てて頭頂に口付けすると強情が崩れて落ちた。 「……ポー。ああ、俺は」
「いいからもう眠れ。今夜はなにも考えなくていい」
静かに涙を流す彼をベッドに導き、湿ったまぶたを指でなぞると、不安が溶解していくかのような深呼吸をひとつした。
それからこちらに背を向けて横になり、毛布をたぐり寄せて丸くなった。
やがて火花がぱちぱちとはぜるような緊張が消えたのを確かめてわたしは、規則的に上下する骨ばった背中のそばに腰をおろし、ノミで掘り出したような横顔を見つめた。
その時ふと胸をよぎったのは、タッシリ・ナジェールの力強く美しく、幾千年の年月に晒されてどこかしら哀調をたたえた住民たちの姿だった。
ミッヒ・ハーネマン。自分の骨を集め、埃を食べ続けた人生。
大理石の鎧に覆われた風変わりな男。
生というものがいかにもろくはかないものかを痛切に知るがゆえに、彼は無意識に人とかかわることを恐れてきたのかもしれない。
それでもわたしは祈るのだ。人は愛するに足るものであることを彼が見出す日がいつか訪れることを。
彼が一瞬でもいい、風と雨の間を歩けたらきっと素晴らしいだろう。(※)
わたしは立ち上がると窓をすこし開けて冷たい空気に頬をさらした。
かすかに朝もやの湿り気を含んだ空気は暁の匂いがした。
<TO BE CONTINUED>
※自分の骨を集める……自分を犠牲にする意味
※「人間は一瞬でもいい、風と雨の間を歩けたら素晴らしいと思った」──このフレーズはイラン映画「柳と風」その他の名作の監督である、モハマド・アリ・タレビ監督のインタビューでのコメントより拝借しました。
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