OUT THE BLUE



額に冷たい手を押しあてられてハーネマンは目覚めた。熱で潤んだ目に映ったのはサイドテーブルの上の白い陶器の水差しと水で満たされたコップ。
カーテンの隙間から漏れ落ちた陽の光がコップの水を通してテーブルの上に作っている模様をぼんやり眺めていると、頭上からしわがれた声が降ってきてハーネマンはいいしれぬ安堵を感じた。あら、起きたのねミヒャエル。気分はどう?お水のむ?
心配そうに自分を見おろしているのはとっくの昔に世を去った祖母で、胸を締め付けられるような懐かしさを覚えながらハーネマンはもう一度夢から目覚めて、自分の額に冷たい手を押し当てている青年を薄灰緑の瞳でじっと見つめた。

あ、すみません、と青年はばつの悪そうな顔をした。喉は熱と乾きに腫れあがって言葉は出なかったが、クーパーどうしてお前がこんなところにという声にならない声を聞いたのだろう。青年は地雷を除去する人のようにそろそろとハーネマンの額から手を浮きあがらせながら口ごもった。
キャサリン伍長に医務室じゃなくて自室で寝てるって聞いたもんだからその、俺……差し出がましいとは思ったんですけど心配で。

ハーネマンは頭を枕に預けたまま白い天井を見つめて記憶をたどった。そうだ、風邪をこじらせたらしく高熱が出て倒れそうだったから医務室で注射を一本打って自室によろめき戻り、そのまま気を失うように眠りに落ちたらしい。
今何時だ?と聞こうとして唇を開くと同時に青年が答えた。19時46分です、23日の。そして心配するなとばかりに付け加える。とりあえず明日までは休みってことになってますから。でもよかったです、やっと熱が下がって本当によかった。

そうか、俺は丸一日寝てたんだなと思いながらハーネマンは、汗でぐっしょりと湿ったパジャマを胸元までめくり上げると、奥ではまだおき火が赤く燃えているかのように熱い胸から腹にかけてゆるゆると手を這わせてみた。ここ数日間というものほとんど何も食べていないせいで、腹はそこから活力というものが抜け落ちてしまったようにへこんで打ち捨てられた孤児のそれのように心もとない。

ぺしゃんこの腹に手を置いたまま再び目を閉じようとすると慌てたように青年が言った。駄目ですよサージャント、そんな湿った服のままじゃ。着替えはどこにあるんです?
立ちあがる力がなかったので部屋の隅に置いてある木箱を顎で示した。中には全てのボタンをきちんと掛けて几帳面に折りたたまれた着替えが入っている。
広い背中を丸めてしばらく箱を探っていた青年は、立ちあがると青いストライプの入ったフランネルのパジャマを差し出した。大丈夫ですか?その…自分で着替えられます?

相手の言葉には答えずに満身の力を振り絞って体を起こすと、ベッドのへりに座り直して震える指先で胸のボタンを外そうとした。ひとつ、ふたつ、みっつ…だが三つめのボタンで胸がむかむかしてうなだれてしまう。
ああ、無理しないで。何もしなくていいですから。そうだ、何か食べられそうですか?なんでも言ってください、好きなもの持ってきますから。

青白い顔をますます白くして石のように固まったままのハーネマンにさりげない風に話しかけながら、傷ついた同輩の肉体から鉄片に引き裂かれ血に染まった装備品を取り除く手際の良さで青年は汗で重く湿った布地をはぎ取った。そして少しためらいながらハーネマンの体に触れると新しいパジャマに腕を通させる。
ひとつ、ふたつ、みっつ…清潔で乾いたパジャマのボタンを掛ける金色のうぶ毛を生やした指先を焦点の合わない目で眺めていたハーネマンは、青年の体から体臭に混じってかすかな煙の匂い──コルダイト爆弾の匂いがするのを嗅ぎ取って唐突な欲情が沸き上がるのを感じていた。

湿ったパジャマをランドリーバッグに押し込みながら青年は尋ねた。ねえ、なにかいりませんか──いらん──でもちょっとくらいは食べた方がいいですよ、スープでももらってきましょうか。
無言でかぶりを振るばかりのハーネマンに困った顔をしていた青年は、突然思い出したように果物なら大丈夫でしょう?持ってきてあるんです、と言うと素早い動作で立ちあがってデスクの上の紙袋から艶々と光る真っ赤な果実を取り出した。

素っ気のない鈍色をしたアルマイトの皿に丸々と太った苺をいくつか乗せて差し出しながら、青年は疲れて心なしか頬の肉がこけたハーネマンを見つめた。どうぞ、食べてください。そんなげっそりした顔じゃいけません。そして小首をかしげるとわずかに口の端を上げてふざけたように言い添えた。なんなら食べさせてあげますけど、そんなの嫌でしょう?
それでもなおハーネマンが無言なのを見て取ると青年はすこしためらってから一番綺麗で大きな苺を慎重に選んでつまみ上げ、熱に乾いて無惨にひび割れた唇へゆっくりと運んだ。ちょうど何かの儀式で信者の口に聖餅を運ぶ司祭を思わせる厳粛なおももちをして。

青年に差し出されるままに口に含んだ果実を噛みしめると甘みと酸味が入り混じった果汁が口内一杯に溢れて、ハーネマンは生まれて初めて出会った味に驚いた赤ん坊のように顔をしかめた。
唇の端からしたたり落ちる真っ赤な果汁。無雑作に手の甲でぬぐうと恍惚とした表情で自分の口元を凝視している青年と目が合った。それと同時にハーネマンの身中には高熱に疲弊しきった自分の肉体をもっと罰したいという激しい衝動が駆け巡る。

ああ…と青年は何か言いかけた。ああ…。だがすぐに思い直したように口を固く閉ざして床に視線を落としてしまった目の前に、ハーネマンは無言のまま右手を差し出した。青年はどうすべきか一瞬迷っているようだったが、何度かぱちぱちとまばたきをしてから赤い聖痕が印された白い手を取って、愛おしむように唇を触れた。
あとは沈黙、それから短いささやき。

──なあ、抱いてくれよ──そんな、熱があるのに──構うな──でも俺、途中で止まれないから──いいんだ。
両腕を伸ばして逞しい背中に巻きつけると熱で火照った体を押し当ててベッドへと誘った。体を震わせてのしかかってきた青年はフランネルに包まれた痩せぎすの腰を強く抱きしめ、筋ばった首におずおずと唇を押し当てながらうわごとのように繰り返す。
ああ、愛してる。どうしてか分からないけどすごく愛してるんだ。

いつもなら愛しているとささやかれても無性に虚しくなるばかりだから許せなかった。だが今はそんなことはすっかり忘れて、ハーネマンはさっき着たばかりのパジャマをはぎ取られながら短く刈り込んだ青年の頭に頬を寄せると深く息を吸った。日なたと汗と煙の入り混じったどこかしら懐かしい匂い。金色の穂を風に揺らして収穫を待つ豊かな小麦の髪。

青年の熱い手のひらは胸を、腹を、首筋をまさぐっていたがやがてもっと下へと伸びてきて大きく割られた太股を抱え上げられた。固く勃ち上がった男根が身体に押し当てられた時にはかすかな後悔が胸をよぎったが、耳たぶを軽く噛みながらささやきかけられてハーネマンは諦めたように全身の力を抜くと身をゆだねた。
いい?本当に大丈夫?──返事の代わりに大英博物館のガラスケースの中から人々を見つめている彫刻を思わせる顔を両手で引き寄せ唇を貪った途端、一気に押し入られてハーネマンはかすれた悲鳴を上げた。

強すぎる快感に気が遠くなるたびに最奥を突き上げられては引き戻される。 狂ったように体を揺らしながら青年は反りかえった白い背中を抱いて高熱に浮かされた人のようにつぶやいた、愛してる、愛してるんだ、と。
そしてハーネマンは青年の動きに合わせて小さく腰を振りながら頭の隅で自分が漏らす嬌声を聞いていた。
ああ、いい。もっと犯してくれ、もっと激しく。
到底自分のものとは思えないほど艶めかしく熱を含んだ懇願にハーネマンはうろたえたが、間もなくその声は絶頂を迎えた青年の呻きと入り混じって夜の闇に吸い込まれていった。




ハーネマンは隣で眠る青年の小麦色の頭を、どうしても撫でつけられない側頭部のくせ毛をある種の感動をもって眺めた。それから静かに上下している胸にそっと耳をあてると規則正しいリズムを刻んでいる心臓の音を聞いた。ゆっくりと開かれたまぶたから現れた青空の瞳にはかすかにもの問いたげな色が浮かんでいたが、ハーネマンは構うことなくどこか遙か彼方から自分に呼びかけている秘密の信号にじっと耳を澄ませた。

それは生命が生まれて終わりを迎える瞬間まで寄せては返す波のように、機械的に無自覚的に、無頓着にひとときたりとも休むことなく律動する器官の音。数十年という短い一生のあいだ人は誰もみなこの音を胸の奥で響かせながら、未踏の地をたった独りで旅しているのだ。

青年の心臓が奏でる静かだが力強い響きと肌の温もりを頬に感じているうちに、ハーネマンは胸の奥底から湧きだした名状しがたい波に揺さぶられて体を起こすとかすんだ目で虚空を眺めた。
そして不意になにか遠い記憶が甦ったような気がして指先で眉間をなんどか押さえてから、両手で顔を覆ってすこし泣いた。

「どうしたんですか?ミッヒ、目が赤い」
驚いて肩を揺さぶった青年に向かって無感情にくそったれ、と言ったきりハーネマンは再びゆっくり目を閉じた。


<THE END>