遠景


シャダはおおきな息をひとつした。
ひんやりと青く冷たい山頂の空気が両の肺腑に満ちる。

シャダは王家の谷の上にそびえ立つ西方の山ー沈黙を愛する崖の女神の聖地ーデヘネト(※1)の頂から遙か彼方を見渡した。
世界はすっかり老いてしまった、とシャダは思う。

眼下に広がるのはセヘト・アーアト(大平原)、美しき西方の階段。
銀の帯のようなナイルももうじき川面のさざ波を朱に染めるのだろう。

ほの暗い水の底に沈んだような世界を目前に、彼はふと考える。
最後にカリムとこの頂に登ったのはいったいいつの事だったろうか。一年前?二年前?それとも幼い子供の頃だったろうか。

カリムはここに来るといつも一言も話さずに果てなく広がる遠景を見つめ続けて・・・シャダはカリムのそのくっきりした横顔の描く稜線を見つめていた。
それは遠い遠い昔のことのようでありながら、つい昨日のようにも思えて彼の胸はひどく痛んだ。


カリムの魂が鳥になって飛び去ってからひとつきが経った。今ではこの谷のどこかで眠っているカリム。
彼がいなくなってからの事をシャダはよく覚えていない。このひとつきは砂の城のように崩れ落ちんとするこの世界に、夢中でつっかい棒をして回る毎日だったから。

だがもうそれも限界に達していた。闇は貪欲に光を喰らい尽くそうとしていた。

間もなく大神殿の至聖所ではファラオー世界の調和を取り戻すことの出来る神と人との間の唯一の仲介者ーによって歴史が始まって以来最初にして最後の秘儀が執り行われるであろう。
それは生きとし行けるもの全てにとっての最後の賭けであった。

そしてシャダはセヘト・アーアトから東岸に至る一帯に結界を張るべく、こうしてデヘネトの頂までやって来たのである。

自分の命はここで終わりになるであろうことをもちろん彼は知っていた。
だが頭は不思議と冴え冴えとして恐怖もない。いや、むしろ幼い頃、両親と水鳥猟に向かった時の浮き立つような気分すら感じるのである。

ただ・・・
シャダは呟く。
西方の地平線の門のあちら側で、私はまた君と逢えるんだろうか?


彼は懐から象牙の指輪を取り出すと月光にかざしてみた。
月光に浸されてまろやかな乳色の深みを増すそれは、カリムが最期まで身に付けていた自分と揃いの指輪。裏側にはお互いの名前が彫ってある。

しばらく指輪を見つめていたシャダはやがて、自分の右手からもう一つの指輪をそっと抜き取る。
指輪の裏に彫られているのはー神に祈る両腕(=カ、カー)、口、二本の葦の花穂、そしてフクロウ・・・シャダの愛した人の名前。

「俺の本当の名前は「籠」(※2)から始まるんじゃないんだよ、シャダ。
お前には俺の名前の本当の綴りを教えてあげる」
そう言って腕と口と葦の穂で構成されるー「聖域」(※3)に似たヒエログリフを綴って見せたカリム。

人間の本質を表す「カ」を名前に持った男。世界の深淵を凝視していたあの、美しい瞳。


テーベの西方にて何百万年続く偉大かつ荘厳なる墓地ーセヘト・アーアト、その茶色い岩山とはくっきりと袂を分かちナイルの回りに広がる命溢れる緑の田園。
西岸と東岸、彼方とこなた、来世と現世ー結局の所は地続きの世界。

象牙の指輪からこの眼下の風景へと視線を移した瞬間、シャダにはやっと分かったような気がした。
カリムが見つめていたものが何だったのかが。


「カリム・・・」胸を締め付けられる思いがしてその名を呼んだ時、背後に微かな気配を感じてシャダは振り返る。

しかしそこにはただ、何千年何万年も風に晒されて剥き出しの姿をした灰色の峻厳な山々が広がるのみ。

「カリム・・・」シャダは振り返って谷を渡る風にもう一度低く呼びかけると、カリムの指輪を左手の薬指にはめた。
それは彼の細い指には余りにも大きすぎたけれどもそんな事はもうどうでもいいことだった。

今や微かに金色を帯びている東岸の山々の稜線。
大神殿の塔門の中心線からは、もう間もなく朝日の最初の一矢が差し込むであろう。

シャダはすこしのあいだ、目をすがめて太陽の昇るあたりを見つめていたが、やがて目を閉じるとおおきな息をもう一つ吸った。

そして彼はデヘネト山の頂上、原初の海にはじめて現れた丘にすっくと立つベヌウ鳥を思わせる姿で、最後の呪文の最初の一節を唱え始めるのであった。


※1・・・現代はエル・クルンと呼ばれる王家の谷にあるピラミッド型の山。
※2・・・現代エジプト学における便宜的ヒエログリフ・アルファベット表では「か」は取っ手付きの籠+エジプトハゲワシで表される。
※3・・・カー、口、葦の穂x2+家屋のヒエログリフで「カリ」と発音し、「聖域」「神殿」を表す。

なお、カリムの隠された名前の綴りについては、人名にこういう表現を使うのが可能なのか否か、ヒエログリフに詳しくない私には良く分かりませんので、余り深くは追求しないでくださいね(笑)


晶山嵐子さんから頂いた指輪物語の設定(指輪の素材、裏の刻印など)をベースにさせていただき、私も書いてみました。
超越した男カリム、俗世の男シャダ。相反するものだからこそ惹かれ合うのよv(笑)