肩に置いた手が意思に反して小刻みに震えた。何とか言葉を発しようとした喉の奥の声もまた、如月の努力を裏切り、引きつる。
 動揺した自分に気付いた彼の伏せた瞼に影が落ちるのを、ただぼんやりと見つめるしかなかった。
「如月、一週間ほど、厄介になるから」
 すまない、と続けられた言葉に、見えないと分かっているのに、ただ無言で頷くことしか出来なかった。




『夏の嵐』




 窓がぎしぎしと鈍い音を立てて軋む。電卓を弾いていた指を其処でようやく止めた。
 帳簿に落としていた視線を上げれば、いつのまにか周囲が暗くなっていて、明かりの無い室内では、些か視界を奪われる。
 風が強くなってきていた。晴れていたはずの空を厚く重たい白い雲が覆い尽くしていて、今にも大粒の雨を降らせそうだった。
 木々がざわめいている。空気が湿り気を含み、コンクリートから照り返す熱によって暖められた熱が肌にまとわり付く。
 夏の嵐が来るのかもしれない。嵐というには表現が大袈裟だが、たたきつけるような雨脚と強い風は、嵐と呼ぶに相応しい。
「緋勇」
 ここ数ヶ月の間で急速に親しくなった友人の名を、気忙しげに如月は呼ぶ。だが、予想を裏切り返事は無い。
 帳簿を閉じ、明かりをつけようとして躊躇った後やめて、如月は少し急ぎ足で廊下に出た。
「また、か」
 苛立ちが声に滲む。庭へと続く掃き出し窓が開いていた。どうやら風はそこから流れ込んでくるらしい。
 確かに夏の陽射しを避けるように張り出した屋根の下は涼しい。風通しもいい如月の家はクーラーという文明の利器は全く必要ではない。
 その代償というべきか、代わりに冬は少しばかり寒さがあちらこちらから忍び込んでくる。とはいえ快適さが損なわれると言うわけでもない。
「緋勇」
 もう一度、名を呼びながら、庭へと降り立つ。目指す姿を見出し、如月はホッと知らず安堵の吐息を吐いた。
 空を見上げていた龍麻は、庭の一角、池の側に立っていた。如月がやってくるのに気付いたのか、視線を下ろし、ひたりと見据えてくる。
「如月、雨が降る。それも強いのが」
 風に煽られた長めの前髪をかきあげれば、普段は隠れている瞳が露になる。
 だがその輝く眼差しを受け止められず、如月は龍麻の顔から視線を外したまま、ゆっくりと近づいた。
「だったら、早く家の中に入ろう」
 声をかけたと同時に一陣の風に煽られたのか、肉の落ちた身体が不意にバランスを崩す。池の縁を歩いていた龍麻の上体がゆらりと傾いだのを見て、如月は慌てて手を伸ばす。
「……すまない」
「いや」
 胸の中に抱き寄せた身体の線の細さに心臓が跳ね、一瞬、燃えるような熱が全身を走った。驚くほどに痩せてしまっている身体に龍麻の苦労を思う。
 如月は心中の動揺を悟られないよう、慌てて身体を引き剥がした。動揺を振り払おうと頭を振り、低く告げた。
「早く家に入ろう。風も強くなってきた。君の言うとおり、少し天気が荒れそうだ」
「そうだな」
 素直に頷いた龍麻が如月の腕を握り締め、身体を起こした。その彼の剥き出しの右腕に巻いた包帯が取れかかっている。また薬を塗って巻きなおさないといけないなと思いつつ、如月はつかまれた左手で、そっと龍麻の身体を気付かれないように支えながら家の中へと入っていった。

 手当てをしている間、如月は無言だった。龍麻もまた、何も言わず、黙って薬を塗り、包帯が巻きなおされるのをじっと待っていた。
 目は大分、見えるようになっていた。あと数日もすれば視力は取り戻せるようになり、居候生活も終わるだろう。正常に戻ることは嬉しかったが、どこか寂しいと思う気持ちがあるのも事実で、治るのが少し遅くなれば良いと何度か思ったりもした。
 完全に失われていた視力は徐々に回復し、今では光が強ければ一人でも歩けるようになった。とはいっても室内の明かりは、まだ少し慣れない目に痛い。半分ほど開けていた瞳を閉ざしても、鋭い光が瞳を刺した。
「眩しいかな」
 不意に、少し光が弱まったのを感じた。風が流れる。恐らく如月が立ち上がったのだろう。涼やかな気配が離れた。
 やがて救急箱を片付けたらしい如月が近づいてきたのが分かった。だいぶ、如月の気配に馴染んでしまった。手を伸ばしてきたのを感じるが、身体は緊張することは無い。
 最初は大変だった。お互いにお互いが居ることになれず、接近するたびにびりびりと電気が走るような緊張が走ったものだ。だが今はもう、その事実すら懐かしい。
「さあ、目を開けてくれないかな」
 顔を上向ければ、目を大きく開かされる。ぼんやりと霞みがかかっている上に、水の中に居るように視界がぐらつき、覚束ない。
 ひやりとした感触が目に伝わる。反射的に右目を閉ざせば、今度は同じように左にも目薬を差される。この作業を誰がやるかという押し問答を最初の2、3日、飽きもせず繰り返した。結局、家主であり、身の回りの面倒を一手に引き受けてくれる如月に押し切られ、しぶしぶ、目薬の投与を甘んじて受けていた。
「まあ、気休めみたいなものだけど」
 毒が入って一時的に視力を失ったと診断された瞳には、治療できる薬など存在しない。龍麻の体力の回復を待つ以外に、本来なら方法は無いのだ。
 だがデリケートな瞳を洗浄する薬は回復の手助けになるかもしれないと言われれば、龍麻の方にも拒絶する理由など無かった。
「もうすぐ、見えるようになるかな」
 顔をタオルで拭きながら、龍麻はぽつりと呟いた。一瞬、息を呑むような気配が伝わったが、聞こえてきたのは穏やかな声だった。
「一人で出歩けるようになったのだから、それほど先の話じゃないだろうね。
 でも無茶はしないでくれよ。君に何かあったら、僕の所為になってしまうからな」
 さきほど、無断で庭に下りたことを咎めているのだろう。刺を含んだ言葉に龍麻は肩を竦めた。
「ところで、箸は持てそうかな。無理ならフォークとナイフで食べられるものにするけど」
「いや、里芋の煮付けとかで無ければ箸でも食事は出来ると思う。
 少しずつ見えるようになってきているから気にするな。早く元の生活に帰りたいから、慣れておかないと」
「……そうだね」
 僅かに彼が言いよどんだのを訝り、問い返そうとしたものの、如月の気配はすぐに部屋の外へと消えていった。


 視力を失ったと聞かされても、如月はにわかには信じることが出来なかった。
 それほどまでに龍麻の歩調は危なげが無く、そして脇に立っていた京一もまた、なんといったら分からぬといいたげに困ったように頭をかくだけだったのだから。
 ただ唯一、龍麻の額に巻かれた包帯が、目が見えないという事実を指し示しているようであった。
 ことは帰り道で起こった。
 美里と小蒔と別れ、京一、醍醐、龍麻の三人で龍麻の自宅への道を辿っていた時、鬼道衆に襲われたのだと言う。たいした怪我もせず撃退はしたものの、龍麻は右手で攻撃を受け止めた瞬間、刀に塗られていた毒を目に受けてしまったのだ。
 幸い、桜ケ丘に急行し、事なきは得たものの、しばらくは視力が戻らないと診断されたのだという。
 一人暮らしの龍麻をこのままにしておくのは不安であると主張した京一の提案で、龍麻が渋るのを押し切り、如月の家へとやってきたのだった。
 説明を受けた如月は笑顔で迎えはしなかったが、かといって特に拒絶の意思も見せず、淡々と言葉を継いだ。
「で、一週間ほどで回復するだろうと診断されたわけだな」
 手早く周囲に並べていた皿やら掛け軸やらを箱におさめていく。壊されてはかなわないというのも理由だが、万が一龍麻が足をひっかけて怪我でもされては困ると言うのもあった。
「手間をかけてすまない、如月」
 口では謝ってはいるが、態度は堂々としていた。はっきり言って彼自身、この状況に戸惑っているのだろう。
 その気持ちは如月にも痛いほど分かった。他人に手を借りるなど、自分とて出来るなら避けたいと思う。
「俺は大丈夫だと言ったんだが……」
「馬鹿言うなよ。俺とか醍醐とかが付きっきりで居てやれれば良いけど、そうはいかねえだろ?万が一、一人で家に居る時に何かあっても、どうしようも無いじゃねえかよ」
「蓬莱寺の言う通りだね」
 すかさす如月は口を挟んだ。援軍の登場に明らかに京一は安堵したように肩の力を抜き、龍麻は珍しく憮然とした表情を見せた。
「一人で居ると何かと不便なものだよ、緋勇。特に火が扱えないのは不自由だろう。
 治るまでここに居るといい。あまりお構いも出来ないが」
「いや……」
 渋る龍麻の反論を遮るように、京一が龍麻の背を何度も叩いた。力が強かったのだろう、龍麻が眉をひそめたが、京一は無視して明るく笑った。
「良かったな、ひーちゃん。やっぱ、如月に頼んでよかっただろ? 他の連中は無理とか言ってたけど、俺は大丈夫だって思ってたんだよな。それにさ、目が見えないと何かと不自由だろーし、ここは素直に如月に世話になっておけって、な」
「君にあれこれ言われる筋合いは無いがね」
 自分の居ないところで勝手に話が進んでいたことに気付き、如月の機嫌も悪くなる。京一は軽く肩を竦めて「不味い」と小さく呟くと、どうやら龍麻の部屋から適当に持ち出してきた着替えの類が入っているだろう鞄を床に置いた。
「じゃあ、ときどき連絡するからさ、ひーちゃんもしっかり身体を治せよ」
 如月の機嫌が悪くなると京一に分が無い。それを察してか、京一はことさらに明るく言い放つと扉の向こうへとすぐに消えた。
 不意に室内が静かになり、表情の無かった龍麻の唇が少しだけ苦笑の形を作り出す。
「すまないな、如月。迷惑なのは知ってるから、やっぱり俺は帰るよ」
 目が見えていないのが嘘のように、危なげなく鞄を拾い上げ肩に担ぎなおした龍麻に向かって、慌てて如月は首を振る。が、それでは否定の意が相手に伝わらないことに気付いて急いで言った。
「そんなことは無い。確かに勝手に決められたのはちょっと心外だが、君の目が治るまでここに居てもらっても良いと言うのは本当だ。
 ただ、あまり君に構っていられないのも事実だけど」
「勿論、構わない。…世話になる。如月」
「困った時は、お互い様だろう」
 軽く頭を下げる龍麻を促し、家の中へと入った。
 いつも使っている部屋へと通し、座るよう促す。包帯をかえようと龍麻の背後に回ったとき、座っていた彼の肩が微かに上下し、緩やかに力がみなぎっていくのを感じた。癖なのかもしれない。仲間といえど、気が抜けないと言うことなのだろう。
 気持ちは理解できるが、それでは気の休まる時間も無いに違いない。
 如月は溜息をそっとつくと、龍麻の前にことさらゆっくりと腰を下ろした。
「緋勇、包帯を取らせてもらう。傷の確認がしたい」
「どうぞ」
 全身が張り詰めた弓のように緊張しているのは変わらない。
 如月は胸の内で失笑しながらも、龍麻の包帯を慎重に外していった。
 途端、包帯の下から現れたのは、夜空を掬い取ったような美しい瞳だった。吸い寄せるような不可思議な深い色をした瞳に、思わず如月は見惚れた。
 確かに視点が定まらないのか、瞳はぼんやりとしている。だが強い意思を表す輝きは微塵も失われておらず、恐ろしいくらいに澄んだ瞳が何も映しては居ないのだとは、にわかには信じられなかった。
 如月はいつも側に置いてある小刀を握り締め、ことさらに慎重に鞘から取り出した。龍麻は身じろぎ一つせず、見えていないだろう瞳で、じっと如月を見つめている。まるで全てを見透かすような瞳に、如月の胸に苦い罪悪感に近い感情が過ぎていく。
 焦点は合っていない。だが如月が身体を傾けると僅かではあったが瞳が動きを追う。如月は刀を握る掌が汗ばむのを覚えた。
 なるべく空気を動かさないようゆっくりと鼻先に刀を突きつける。龍麻は微動だにしない。如月は更に刀を近づけた。
「止めろ」
 如月の手首を突然握り締め、龍麻が制した。
「試すのなら、新しい刀の方が良い。この刀はかなり使っているだろう。腐臭や血の匂いがこびりついている」
 定まらない瞳を向けたままはっきりと宣言する龍麻に、ホッと如月は肩の力を抜く。目が見えないからといって冷静さが全く損なわれていないことを知ったからだ。
「なるほどね、目が見えないというのは本当な訳だ」
 もう片方の手で握り締めていた刀で、龍麻の首筋をそっと撫でる。龍麻の全身が強張った。目を見開き、唖然とした龍麻が刀から距離を取った。龍麻の言った通り、もう片方の手で握っていたのは、さきほど仕入れたばかりの寸の詰まった刀だった。
「何の真似だ」
 鋭く睨みつける視線を流し、如月は立ち上がった。
「別に。確認を取っただけだよ」
 よほど気配に敏感なのだろう。如月の一挙一動に龍麻の身体は警戒を走らせる。目が見えていた時も、龍麻は周囲に気を配ることを怠っては居なかった。見えなくなれば更にその傾向が強くなる。如月は溜息をついた。
「緋勇。ここには少しばかりとはいえ結界が張ってある。余程のものでもなければ入っては来られない。
 目が見えないなら、早くこの状況になれたほうが良い。治るものも遅くなるよ」
「言うほどには、易しくないな」
 自嘲気味に美しいラインを描く口元が歪んだ。
「お前も自宅の癖に気配を押さえ気味だしな」
 習慣ともなっている事実を指摘され、如月もまた同じように苦笑した。
「分かった。少しは僕も君の気配に慣れるようにするよ。だから君も僕の気配に慣れて貰わないとお互いに大変だと思うが」
「……善処するよ」
 僅かなためらい後の返事に振り返る。視線の先の腕を撫でる龍麻の背中がひどく細く、頼りなく見え、思わず如月は慌てて目を逸らした。


 風がますます強くなっていた。がたがたと窓を揺らす音が強くなっていく。
 食事の後、如月はテレビを点けた。普段、うるさいからと如月はテレビをつけない。だが、新聞が読めない龍麻が外のことを知るにはこれしかないからと、如月も咎めることもしない。聞くとも無く低く流れるニュースを聞きながら道具の整理をしていた。
 相変わらず事故や事件の話題が主だ。思いやる心、想像力が失われた人間の引き起こす事件は痛ましい。
 そんな心の闇が都会の事件を引き起こす。陰でそんな人間の負の感情を処理している存在が居なければ、恐らく魔都とも言えるだろう東京は、とっくに魔物の徘徊する恐ろしい世界になっているに違いなかった。
 きっちりと閉めているはずの窓の、何処からか忍び込んできた雨の匂いが周囲を取り巻いている。冷やされた空気が肌をなでる感触は心地良い。
 だが、同じ冷やされた空気でも冷房の作られた風とは異なり、やや温かい湿りを帯びた冷気だった。
 不意にころころと胡桃が転がってきて如月の膝元で止まった。顔を上げれば、龍麻が自分の周囲を手で探っていた。
「緋勇」
 リハビリも兼ねてと、テレビを見ながら胡桃を掌で触れ合わせていたのが、落としてしまい探しているのだろう。やはりまだ、見えていないのだという事実に何故か安堵する。
 如月は胡桃を拾い上げると静かに立ち上がった。
「無理をしないほうがいい。右手の怪我も、それほどには良くなって居ないのだからな」
 龍麻の掌を上向け、もう一つの胡桃も取り上げて握らせてやれば、龍麻が少しだけ俯いた。
「握ってごらん」
 如月の言葉に素直に龍麻の指が動く。だが、たどたどしい動きだ。目が見えないだけなら、多分、龍麻は強引に自宅に帰ったのだろう。しかし、右手の傷もどうやら桜ケ丘の院長が思っていたよりも深かったようだった。
「あせる必要は無い」
 ゆっくりと龍麻の指に自らの指を重ねて胡桃を握らせる。冷たい体温が如月の熱を受けてじわじわと熱を帯びていく。
「感触はあるね」
「ある。大丈夫だ」
 言うなり、龍麻は如月の手を振り払うように右手を自らの左手で握り締めた。唇を強く噛み締め、おぼろげな光を捉える瞳で自らの拳を睨んだ。思い通りにならぬ自らの身体に苛立っているように如月には思えた。
 龍麻はしばらくそのまま唇を噛んでいたが、やがてふっと全身の力を抜き、座椅子の背にもたれると顔を逸らした。如月からは龍麻の顔が見えなくなる。
「……明日、俺は帰るよ」
 如月は声を呑んだ。
「一人では、まだ、無理だ」
 声が掠れた。いつかこのときを迎えると思っていた。だが目の前に突きつけられれば、心臓を握られるような苦しさで息が詰まる。
 他人を自分の家に招きいれ、こんなに長く滞在を許しているのは初めてだった。それが不快ではなく心地良くすら感じていた。龍麻もそう思ってくれていると思っていた。威嚇するような気配が緩み、穏やかな息遣いを隣で聞いているのが当たり前のようになっていたというのに。
「完全に治るまで居てくれて構わないのに」
 決めたことに異を唱える必要など無い。どうせ治癒すれば龍麻はまた普段通りの生活に戻るのだ。それが早いか遅いかの差だけのはずだった。
 なのに、今はその言葉が何よりも如月には痛い。
 龍麻が振り返った。見えていないはずの瞳が、しっかりと如月を映している。
 頬が震えていた。何か言い出そうとして言えない。そんな気がして、如月は思わずその頬に触れた。
「駄目だ、如月」
 搾り出すようなかすれた声が、龍麻の血の気の薄い唇から零れた。
「そんな風に、近づかないでくれ」
 言われた意味を図りかね、如月は首を傾げた。頬を辿っていた手が髪を撫で上げると、明らかに龍麻の身体が驚愕に跳ね上がる。
「緋勇」
「如月、駄目なんだ……駄目なんだよ。俺は」
「何が、だい」
 恐れ、というよりは怯えているような龍麻の様子に疑問が湧く。龍麻が綺麗な切れ長の眼差しを、まるで苦痛に耐えるように深く寄せた。
「俺は、俺は、特別を作っては……駄目なんだ」
 喘ぐような龍麻の言葉に、如月は胸の奥が疼くように痛むのを覚えた。
「緋、勇」
「誰かを側に置いて平気でいられるようになったら、俺は……俺は強くいられなくなるじゃないか」
 制御不能の感覚を留めることが出来ないのか、龍麻はまるで堰を切ったように言葉を紡いだ。
 肉体の痛みはいつか治る。痛みに耐えることも出来るだろう。
 だが、特別を作ってしまっては、後で辛くなるだけだ。この痛みは慣れることも直すことも出来ず、ただ、苦しみ、喘ぐほか無くなってしまう。
「緋勇」
 龍麻の言いたいことを察し、如月は唇を噛んだ。
「駄目だよ、緋勇。もう、遅いんだ」
 窓を叩く雨の音が、声を引き裂こうとする。轟く雷鳴が仄かな電灯の光を打ち消さんばかりに輝きを増していた。
 浮かび上がる二つの影が伸びては消える。重なっては形を失い、互いの心を映しているかのようだ。
「もう、遅い」
 動きの鈍い龍麻の右手の甲に口付ける。熱い唇の感触に龍麻の全身が緊張した。
 脆い人の心が零れてくる。微笑みに魅了され、言葉に導かれて、彼の人の強さに憧憬を覚えた。その眼前の人の弱さを見て、どうして冷静になど居られるのだろう。
「如月」
「もう、遅いんだ」
「だけど、だけどな、如月……」
 こわごわと名を呼ぶ唇が震えている。恐れているのだ。この関係が続けば、信頼の絆だけで結ばれていた間は壊れてしまう。その後に生まれるものが一体何であるのかは、誰にも分からない。
「誰かを特別と思ったら、戦いを走り抜けられない。後ろを振り返ったときに誰も居なかったらと、考えるだけで足が竦んでしまう。だから……」
「緋勇。僕はそんなに弱くない」
 きっぱりと如月は宣言する。
「皆、君が思う以上に強い。安心していい。だから、だから、緋勇――」
 如月は深く龍麻を抱き締めた。とっさのことに、龍麻が対応できなかったのか、抱き込まれてから少しだけ抵抗するかのように弱々しくもがいた。
 だがそれを封じ、耳元に唇を寄せた。言葉を吹き込むように囁く。
「拒絶しないでくれ、僕を」
 精一杯、想いを載せて言葉を紡ぐ。返ってこなくても良かったのだ。一方的な想いで良かった。
 京一が龍麻のことを頼んできた時も、冷たい言葉とは裏腹に嬉しかったのも事実だった。
 真神の人間にすら特別を置かない彼が、自分などを頼るはずが無い。そう思ってとうに諦めていたのだ。
 だが予想外の機会はやってきた。誰よりも近づける機会に喜ばなかったはずが無い。しかし努めて冷静に振る舞ってきたつもりだった。
 諦めていた鳥が舞い降りてきたのだ。絶対に自分を見ないと思った遠い人。その本人が今、小さく震えて自らの腕の中に居る。

「違う、違うんだ、如月」
 おずおずと躊躇うように回された腕が頼りなく震えていた。まるで生まれたての雛鳥が親を求めて歩く姿にそれは似ていた。
「怖いのは、今のままお前を無くしてしまったら、俺はきっと立てなくなってしまうだろうと言うことなんだ」
「緋勇……」
「だから俺は言えない。この感情を伝えることは出来ない」
 伝える言葉など、龍麻にも分かっている。だが、言葉に出してしまえば終わりだった。
 硝子の糸よりも脆い関係は、力を入れれば容易く壊れる。それが何よりも恐ろしかった。

「分かっている、緋勇。言わなくていい。言わなくても、僕には十分だ」
 深く抱き込んで、如月はなおも囁く。風はますます強く窓を叩いた。
「だからせめて治るまで、ここに居てくれ、緋勇。君が完全に以前の君に戻るまで、ここに居て欲しいんだ」
 完全に治癒するまであと数日というところだろう。二人だけの時間は余りにも短く、そして早く過ぎ去っていく。
 龍麻を必要とする人は多い。如月だけでなく、いつも不敵に笑い、命の遣り取りすらまるでゲームのように楽しんでいる男。剣聖と呼ばれ、一人でも十分やっていけると思える京一でさえも、龍麻と居なかった時間など考えられないほどに龍麻を信頼し、相棒と呼び、行動を共にしていた。
 故に、自分は特別にはなりえないと確信していた。
 だから、今、もうこれ以上、望む必要など無かった。

「分かった、如月。もう少しだけ、ここに居よう」
 溜息のような答えに、詰めていた息を吐き出し、如月はそっと目を閉じた。
「そうしてくれ。先のことは、またこれから考えていけばいいんだ」
「ああ、そうだ。そうなんだよな」
 何かを確かめるように頷き、龍麻は身体を起こした。それから如月の握らせた胡桃を再び擦り合わせている。こりこりと触れ合う音がさきほどよりも速くなった気がした。
 雨脚がますます強くなっている。雷鳴が近くなり、如月は障子を閉ざそうと立ち上がった。
 龍麻が顔を上げた。強い視線が如月の側を通り抜け、黒い空を貫いている。如月もまた、空を見上げた
「まだ、やみそうに無いな」
 呟いた瞬間、激しい白い光が龍麻の頬を叩き、眩しかったのか彼は目を伏せた。刹那、如月は自分を呼ぶ龍麻の声を聞いたような気がした。
「ああ、まだやみそうも無いな」
 如月は障子を閉ざした。雷光がやや遠くなった。
 二人を掻き乱す嵐はゆっくりと夜を覆いつくし、そして何かを残して通り過ぎていった。

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初心にかえって初々しい二人を目指してみたり。

互いに寄せ付けないタイプだったのに気付いたら側に居るのが当然になっていた、とか、そういうのって結構いいなあと思ってみたりするのです。

もっとホントは長々と書くのがいいのかもしれないなと思ったのですが、

久々にSS書くと書き方を忘れているのですよ。今回はこれで精一杯です。


夏の祭典にて御会いした時に、「差し上げますよ」と
言って頂けたので、早速拉致監禁(違)!!
や、イサミ様の如月×龍麻は本当にツボなのですーーーッ(愛)!!!!!!!
本当に本当に有難うございます!!!!!!