『その腕の中から』



「うん・・・そう。上手だね、はっちゃん・・・とても初めてとは
思えないよ・・・」
「あ、有難う」
 耳元。
 吐息のように囁かれる言葉に、一瞬トクリと鼓動が跳ねる。
 鍵盤に乗せられた手は、震えてやしないだろうか。
 こんな。
 近くで。
 ピアノの前、その椅子に腰掛けた俺の位置は、鎌治の脚の間。
 昼休み、音楽室で鎌治の弾くピアノに耳を傾けていて。
 辛うじて『猫ふんじゃった』が弾ける程度なんだと自分の力量を
漏らせば、じゃあ教えてあげるよ…って。
 こっちに、と誘われるままに。
 気が付けば、こんな体勢。
 そして促されるままに鍵盤に手を添えて、教えられるままにこう
してピアノを弾いている。
 鎌治に。
 背中から抱きしめられるみたいな格好で。
 こんな、近くだから。
 妙に落ち着かない気持ちすら、悟られてしまいそうだ。
「・・・・・はっちゃん?」
「っ、えっと・・・それで・・・どうするんだっけ」
 少しだけ考え事をしていたせいで中途半端なところで手を止めて
しまった俺に、鎌治が訝しげに問う。
 平常心、平常心。
 そう頭の中で唱えながら、指を動かそうとすれば。
「・・・・・っ」
 す、と。
 鍵盤の上に置かれた俺の手に、鎌治のそれが重なる。
 大きな。
 手。
「えっと、俺・・・どこか、おかしかった・・・かな」
「・・・・・おかしいのは、僕の方かも・・・しれない」
 そして。
 手の甲から滑り落ちた手は。
 腕は。
 俺の身体を、しっかりと抱きしめて。
 咄嗟に振り返ろうとして、だけど肩の上。
 コトリ、と。
 鎌治の頭が乗せられる。
「・・・・・鎌治・・・?」
 振り返ることも出来ずに、ただ彷徨わせていた視線は手元へと
落ちて。
 ギュッ、と。
 回された腕は、その力はそれほど強いものではないはずなのに、
それなのに酷く。
 息苦しい、のか。
 それとも。
「もっと・・・大きくなりたい」
「え、・・・・・」
 ぽつり、と。
 呟かれた言葉。
「この腕じゃ・・・まだまだ足りないんじゃないか・・・って、
そう・・・思ったら・・・・・」
 くぐもった声は、泣いてはいなかったけれど、微かに震えて。
「・・・・・鎌治は、もう充分・・・大きいよ」
 背だって。
 腕だって。
 俺より、ずっと。
「あ、違うのかな・・・もしかして、ピアノの技術のこと?」
「・・・・・ううん」
 グ、と。
 少し、腕の力が強くなったような気がした。
「抱きしめたいんだ・・・」
「・・・・・」
「はっちゃん、君を・・・抱きしめたいんだ・・・でも、君は
とても・・・大きな人、だから・・・・・」
「・・・・・タイゾーちゃんほどじゃないと思うけど」
 思わず茶化すような言葉を口にしてしまって、だけど。
 肩口、くすりと微笑った気配にホッとすれば。
「身体は・・・ちゃんと僕の腕の中に・・・収まってくれるんだ
けど・・・ね」
 僅かに。
 触れる熱が、その温度を上げた気がして。
「だけど、君は・・・・・大きくて・・・広くて、僕は・・・・・」
 そして、感じたのは。
 不安。
 漠然とした、きっと鎌治自身もその正体を知らない。
「・・・僕は・・・・・」
 言葉にならない。
 だけど。
 きっと俺は、知っている。
「・・・・・あったかい、な」
 知っていて、だけど。
「はっちゃん・・・」
「鎌治の腕の中、とても・・・居心地が良いから」
 離れたくないな、って。
 そう、思ってしまうくらい。
「はっちゃん、も・・・すごく・・・抱き心地、良い・・・よね」
「・・・・・っ、・・・・・」
 離したくない、って。
 それが、痛いくらいに。
 伝わってくる、のに。
「はっちゃん・・・キス・・・して良い?」
「・・・ん」
 ゆるりと首を巡らせれば、やや躊躇いがちに触れる唇。
 少しだけ。
 震えていたそれは、やがて互いの熱を混ぜて、ゆっくりと。
 深く。
 愛しさと切なさを乗せて、幾度も交わされては離れて。
「好きだよ、・・・・・鎌治」
 それは。
 本当。
 だけど。
 きっと、もうすぐ。

 この暖かな腕を擦り抜けて俺は。





帰って来いよ。←鎌治泣いちゃうからね!!