『恋唄』



 ともすれば、風に攫われて消えてしまいそうな旋律。
 彼の口ずさむ、それを聴いた瞬間。
 込み上げてきたもの。
 溢れ出す思い、その名前を知っている。



「・・・・・鎌治?」
 いつの間にか、振り返ってこちらを見つめていた瞳、それは
驚きと戸惑いの色をしていて。
 どうしたのかと問えば、それはこっちのセリフだよと返される。
「どうしたんだ・・・鎌治」
 ゆっくりと近付いて来る彼を、僕はただ静かに佇んで待つ。
 どうしたんだ、と聞かれて咄嗟に答えられずに。
 だけど、やや躊躇いがちに伸ばされた彼の手が、そっと僕の頬
に触れた時、その問いの意味がようやく理解出来た。
「何故、・・・・・泣いてるんだ?」
 そう、僕はいつの間にか。
 涙を流してしまっていたんだ。
「どうした、何か・・・あったのか?」
 心配そうに問うてくる声に、ゆるゆると首を振る。
 何も。
 何か、あったとすれば。
「歌、が」
「・・・・・歌?」
 こくり、と頷く。
 聴こえたんだ、それが。
 本当に、本当に小さな歌声だったけれど。
「君の、歌う声が・・・・・」
 ぼそぼそと呟くような僕の言葉に、伝った涙を拭うように頬を
撫でていた彼の手が、小さく震える。
 見上げて来る彼の濃い色の瞳は、どこか。
 小さな痛みを堪えるように。
「・・・・・そう」
 それでも、僕に微笑んで。
「俺も、よく知らないんだ・・・あの歌は」
 ぽつりぽつりと語ってくれたのは、彼が以前仕事で訪れたという
北欧の小さな村の話。そこで出会った少女が口ずさんでいたという
その歌を、今の今までずっと忘れていたんだと。
「ふと、思い出したんだ・・・歌っていたなんて、気付かなかった」
 そう言って、はにかむ彼の隣、屋上の柵に凭れるように腰掛けて。
 揺れる長い睫毛を、そっと盗み見るように。
「綺麗な歌、・・・だね」
 告げれば、困ったような笑顔が僕を仰ぎ見る。
「だけど、歌詞も知らなくて・・・音だけが記憶に残っていた」
 そう。
 彼が口ずさんでいたのは、歌詞のないメロディー。
 題名さえも、聞かなかったのだという。
「だから、何の歌なのかも分からないんだ」
「そう、なのかい・・・?」
 そこに。
 その旋律に乗る言葉が、どんなものであったのか。
 そこに。
 何が詠われていたのか。
「・・・・・分かる、よ」
 それを。
 多分、僕は。
「え、・・・・・」
 知っている。
 きっと。
「恋・・・の唄、だよ」
 淡く。
 萌える。
 密やかに、でも。
 熱く燃える。
 恋情の唄。
「・・・・・どうして?」
 どうしてって。
 だって。
「だから、僕は・・・泣いたの・・・かな」
 その歌が。
 音が。
 僕の心を震わせたのは。
「同じ・・・ものが、僕の中にも・・・あった、から」
 僕の中に宿る、その想いのせい。
「鎌治、の」
「うん、・・・・・僕の」
 恋の唄を歌う、君が。
 そこに、いた。
「好き、だよ・・・はっちゃん、君が」
 耳に届いたその切ない旋律に誘われて辿り着いた、そこに。
 君の姿を見付けた瞬間、僕は理解した。
 これは、恋の唄で。
 僕の中に、これと同じものが流れていて。
 それは、君へと。
 向かっているんだって。
「・・・・・うん」
 僕の告白に、君はふわりと微笑って。
 冷たいコンクリートの床についていた僕の手に、幾回りか小さな
彼のそれが、そっと重なる。
「だから・・・鎌治が聴かせてくれる曲は、とても愛おしいんだな」
「・・・・・はっちゃん」
 ことり、と。
 腕に凭れるように。
 身を寄せながら、そう囁くから。
「また、・・・・・聴いてくれる、かな」
 揺れる白い吐息ごと、抱きしめて暖めてあげたい衝動。
「・・・・・聴きたい」
 僕の弾くピアノを。
 君への恋心を。
 君だけに捧ぐ。

 恋の。





五線譜に恋が溢れてるんでしょうなあ・・・くぅ!!