『Don't you know ?』



「・・・・・あれ?」
 ついさっきも、この場所を通ったような気がする。
 とはいえ、校舎内の廊下なんて、どこも似たような造りになって
いるから、ましてつい先日入学してきたばかりの身には、うっかり
迷ってしまっても仕方のないことで。
 そう、迷ったのだ。
 職員室にプリントを渡しに行くまでは、幼馴染みの伽月が付いて
きていた。その時は、結構ぼんやり歩いていたというのに、不思議
と自然に目的地まで辿り着いた。プリントを担任に渡し終えると、
すぐ後ろにいたはずの伽月の姿がいつの間にか消えていて。担任が
苦笑するのに、何やら説教されるようなことに身に覚えでもあった
のか、早々に自分を置き去りにして行ってしまった幼馴染みの少女
に、伊波は溜息を付きつつも、肩を竦める担任に一礼して職員室を
後にしようとすれば、ふと呼び止められ、言づてを頼まれた。
 図書室にいる司書に取り寄せて貰うよう言ってあった資料が届い
たので、後で取りに行くようにと、執行部にいる者に伝えて欲しい
と。
 手が離せなくて済みませんね、と頭を掻く担任の申し訳なさそう
な顔に、いいえと微笑みながら頷いて、伊波は執行部室へと向かう。
 確か、入学時に貰った書類に、校内案内図を見た気がする。その
朧げな記憶を頼りに歩き出したものの、実際には一度も立ち寄った
ことのない、というか立ち寄るような機会も用もない場所であった
から、曖昧な記憶はやはり頼りにはならなくて。
「・・・・・うーん」
 もう一度しっかり教室の位置関係を把握し直さなければならない
な…と、取り敢えず来た道を戻ろうと、やや小走りに突き当たりの
手前の角を曲がれば。
「っ、・・・・・」
「おっと」
 突然視界に飛び込んで来たのは、制服の胸元。
 そこに鈍く輝く役職の証に鼻先をぶつける寸前で、肩を抱き留めた
手に救われる。
「廊下は走らないように」
 苦笑混じりに。
 告げる声に顔を上げれば、フレーム越しの柔らかな瞳にぶつかる。
「す、済みません・・・でした」
 廊下を走ろうとしていたこと、そして危うくぶつかってしまいそう
になったことを詫びつつ、身を退こうとすれば、しかし両方の肩を
掴んだままの手は、何故だか離してくれる気配はなくて。
 もしかして、まだ何か失礼なことをしてしまっているのでは、と
伊波は懸命に思考を巡らせる。だって、相手は先輩で、しかも。
 胸元から肩に掛けられた、それは。
 この学校の、総代職である証し。
 とても偉い人なんだと思うと、それだけで何だか畏縮してしまうと
いうのに、やはり相手の離れる様子はなくて。
「あ、の・・・」
 どうしたら良いのか分からなくて。
 俯きかけていた顔をどうにか上げて、おずおずと声を掛ければ。
「そう怯えることはない。だが、困ったような顔も可愛いね」
「・・・・・は?」
 微笑みながら、目の前の端麗な貌が告げた言葉に、何だか一気に
気が抜ける。
 今のは。
 聞き間違いではないのだろうか。
「綺麗な瞳をしている・・・ああ、私が映っているね」
 可愛い、だなんて。
 聞き間違えたのでなければ、きっと冗談だ。もしかしたら緊張して
いる自分に、気を遣ってのことだったのかもしれない。
「ずっと、・・・私だけを映させてみたいものだね」
 ぐるぐると考え込んでしまっていたから、ゆっくりと顔を近付けて
きた男が囁く甘ったるい言葉も、言葉として耳に入ってはいない。
 だから。
「・・・・・可愛いナミ」
「ひ、ゃ・・・っ」
 唇が、耳元。
 熱っぽい吐息と共に、触れて。
 咄嗟に押し出した手が、ドンッと突くようにして、殆ど抱き寄せる
ように近付いていた身体をよろめかせる。
「あ、・・・・・っ」
 今のも。
 もしかしたら、失礼な行為だったのかもしれなくて、それでも突然
耳元に、あんなこと。
「な、に・・・・・っナミ、って・・・・・」
「伊波飛鳥、だろう?飛鳥と呼ぶのも良いのだけれど、私は私だけの
呼び方で、君に想いを伝えたいのでね」
「想い、って・・・な、名前・・・っどうして・・・・・」
「総代職というのは、なかなか使えるものだね。入学式の時、壇上で
歓迎の挨拶をしていたら、君を見つけた。吸い寄せられるように、目
が君を見つめていた・・・これが、一目惚れというものかと感動した
ね。すぐに君の名前を調べて、アタックの機会を狙っていたんだが、
まさか君の方から私の腕の中に飛び込んできてくれるとは」
 語る口調は、あくまでも穏やかで、それでいて甘く熱を帯びていて。
 これが他人事ならば、熱烈な愛の告白だな…と感心したのかもしれ
ないけれど、図らずも当事者。
「一目惚れ・・・アタック・・・何、何・・・・・、っ」
 相手のことなんて、総代で偉い人だということぐらいしか知らない。
名前だって、入学式の時に聞いたかもしれないけれど、思い出せない。
 いっそ、出合い頭に告白されているようなもので。
「というわけで、私のものになりなさい、ナミ」
 にっこりと。
 笑顔で告げられた言葉は、あまりにも唐突で。
「な、っ・・・何、バカなこと・・・っ人をからかうのも、いい加減に
して下さい ! 」
「からかってなどいないよ。私は、至って真面目に君を口説いているの
だよ、私の可愛いナミ」
 相変わらず笑みをたたえたその貌は、伊波を真直ぐに見つめる眼差し
は、確かに真摯なもので、だから。振り切って、逃げてしまうことすら
出来ずに立ち尽くせば。
「言葉では信じられないというなのら、もっと分かりやすい方法で見せ
てあげようかな・・・私の本気、というものを」
 気押されたように一歩後ずされば、トンと壁に背が当たる。
 追い詰められている、というのは気のせいではないのだろう。
「そ、総代・・・」
「私には、鷹取祥悟という名があるのだけれどね」
 役職名で呼んで欲しくはないのだと、言外に伝えられる。
 けれど。
「あ、なたは・・・っ総代で、偉い人で・・・・・だから」
 きっと。
 家柄も何もかも高い位置にあるのだろう、この人に。
「だからって、そんな・・・勝手なこと、っ・・・・・」
 搦め取られてしまうのは。
 嫌だ。
「・・・・・私の背景にあるものなど、どうだっていいことだ」
 ややあって。低くなった声に、思わず口走った言葉でこの人を怒らせ
てしまったのではないかと、肩が震える。
 両脇、壁との間に閉じ込めるように付かれていた手が、震えた肩を
包み込むように掴む。
 ふと、翳る視界に。
 ゆっくりと距離を縮めてくる身体が怖くて、だけど逃れられずに、
反射的に目を固く閉じてしまえば。
「ただ、君が・・・愛おしいだけなのに」
 キスされてしまうのではないかという、不安にも似た恐れがあった。
 激情をぶつけられるのではないかと、そう怯えてさえいた、けれど。
 ふわりと覆い被さるように重なる身体、そこにはどこか強張った体温
があって、伊波の肩口、壁に頭を押し付けるようにして。
 耳朶を掠めるように洩らされた声は、酷く切なげで。
 きっと、自分が想っているよりも、深く彼を。
 傷付けてしまったことを、知った。
「・・・・・ごめんなさい」
 彼の地位を彼の後ろに見ていた。
 それを使って迫られたら、自分は屈してしまうしかないような気さえ
していた、けれど。
 つまり、それは。
 彼、を。
 彼自身を、見てはいなかったということだ。
「どうして謝るんだい」
「・・・・・僕が、あなたを・・・」
 傷付けた、と。
 そう言ってしまうのは、傲慢な気がしたから。
「知らなかった、から。何も・・・今やっと、名前を聞いて・・・まだ
僕は、あなたの何も、知ってはいない・・・から」
「・・・・・そうだね」
 何も。
 伝えたのは、自分の名前と想いだけ。
「私も、謝らなければならないね」
 済まなかった、と。
 静かに告げられて、胸の奥が微かに痛む。
 確かに、唐突な告白で、だけど。
 それ以外、何も知ろうとしなかったのも、事実で。
「・・・総代」
 肩口に顔を埋めたまま、動こうとしない人に、そろりと声を掛ける。
 ちゃんと、もう一度顔を見て。向き合って、話さなければならないこと
が、あるはずで。
 なのに。
「・・・・・総代?」
 呼び掛けている、のに。
 いらえのないのに、戸惑う。
「そ、・・・・・」
 総代、と。
 もう一度呼ぼうとして、不意に。
 すとんと頭の中に降りて来た、それは。
「・・・・・鷹取、さん」
 名前。
 この人の。
「・・・・・ナミ」
 どこか。
 ホッとしたように、嬉しそうに。
 ゆっくりと身を離した鷹取が、伊波の前に立つ。
 やや見上げるような形で、それでも真直ぐに。
 ちゃんと、見なくてはいけない。
 この人自身を。
「あなたのものになるかどうか、それは分かりませんけれど」
 前置けば、フレームの奥の瞳が微かに細められる。
 優しい目をしている、と思った。
 そのずっと奥にあるものも、多分もしかしたら。
「・・・・・もっと僕に、あなたのことを教えて下さい」
 まだ分からない、けれど。
 まだ、知らないことの方が多いけれど、だからこそ。
「あなたを、もっと・・・知りたい、です」
 教えて欲しい。
 知りたいと思う、それがもしかしたら。
 もう既に、何かの始まりなんじゃないかって、思ったりもするけれど。
「私も、ね。君のことを、もっとずっと知りたいんだ」
 お互いに。
 知りたいことが、きっと沢山ある。
 その先にあるものは、まだ見えなくて。
 朧げでさえないけれど、いつか。
 それが分かる日が来るまで、少しずつ。
「そう、例えば・・・この唇は、どんなに甘いのだろうか・・・とかね」

 …少し、ずつ?




報われてるーーーーー(驚愕)!?
今までのお話とは、あまり関連のナイ方向でございます。
前総代こと、鷹取祥悟御名前判明記念(笑)v