abyss



-----可愛がってやる。……理性のひとかけらも残らぬほどにな-----

 意識を失う直前、低く耳朶に囁かれたその言葉が頭の中、幾度となく
繰り返される。射抜く赤い瞳が、心臓を鷲掴みにしたような。
 苦しい。
 酷く息苦しくて、それを自覚した途端、ゆっくりと意識が浮上した。
 やけに、辺りが騒がしい。
 ここは------どこだ。
 横たえられたベッドの上、重苦しいような倦怠感に身を起こすことも
出来ず、どうにか僅かに頭を動かし、視線を周囲に走らせる。
 ここは。
 トシマではない。
 せわしなく行き来する武装した男達に、もうすぐ内戦が始まるという
事と、気付いたのはここはどうやら軍に関係する施設であり、そして。
 ここが、日興連なのだということを、俺はゆっくりと理解し始めて
いた。
 どうして、自分がこんなところにいて、ベッドに寝かされていたのか
判らない-----全く。その間の事は、すっぽり記憶から抜け落ちていた
から。
 そう。
 シキが俺の腹に拳を捩じ込み、そのままそこからの記憶が。
 そうだ。
 シキ、は。
 ハッとしたように起き上がろうとするけれども、変わらぬ身体の重さ
に加え、酷く頭が痛くて。
 それでも何とか動かせる視線で、もう一度辺りの様子を伺えば、ベッド
のすぐ脇にある窓の横。
 佇む、黒い影。
 逆光であっても、それが誰なのかは考えるより先に理解している。
 シキ、だ。
 シキ、なのに。
 腕を組んで、窓の外を見つめるその様子に、何故だか。
 酷く、違和感を感じてしまったのは、おそらくその瞳だ。
 そこに。
 ブラックアウトする寸前に瞳に焼き付いてしまった、あの赤い狂気は
見当たらない。
 そんなはずはない。
 あれが。
 夢だとは、到底思えない。
 震えるほどに鮮やかに染め上げられた、あの。
 色は。
 ああ、もしかしたら全てが夢で。
 俺は、今ようやくその長い夢から目覚めてここにいるのかもしれない。
 それならば良いのに、と願う自分がいる。
 だが、そう思う自分ですら、また夢であるのかもしれない。
 今はまだ、何もかも覚束なくて、それこそ夢見心地で。
 シキ、と。
 呼んで、あの赤い瞳が振り返れば。
 覚める、のだろうか。
 夢の中で眠りに落ちるというのも不思議な感覚だけれど、ただとにかく
眠くて、眠ってしまいたくて。何かに操られるように、瞼が閉じていく。
 そして再び目を開ければ、そこには。
 一体どんな世界が広がっているのだろう。


 それから、どれだけ眠っていたのかは判らない。
 目が覚めた時、辺りは薄暗くなっていて、周りの喧噪も先程よりは落ち
着いてきているように感じた。
「おお、目が覚めたかね」
 ぼんやりと天井を眺めていれば、不意に傍らで聞き馴れない声がした。
 まだ重い頭をどうにか巡らせば、そこにはやはり見覚えのない初老の男
の顔。白衣を身につけていることからすると、医者か何かだろうか。
「死んだように眠り続けて、なかなか目覚めないものだから心配しとった
のが・・・ふむ、顔色は幾分良くなってきているようだ」
 遠慮もなしに伸ばされた手が顎を捕らえ、手にしたペンライトをかざし
ながら、様子を観察するのに思わず眉を顰めてしまえば、ふと。
 白衣の男の背後に、黒い影が揺れるのが見えた。
「触るな」
 硬質の。
 響く声に、部屋の空気が一瞬その温度を下げたような感覚。
 薄闇の中、それでも鮮やかに射竦める赤い瞳。
 だが俺を診ていた医師と思しき男は、その冴えた気配にも動じなかった
のか、あるいは気付きもしなかったのか。
 何事もなかったようにのんびりとした所作で振り返ると、細い目を一層
細くしてニッと笑った。
「アンタの大事な人は、このとおり。疲労はたまっているようだが、数日
休めば元気になるだろうよ」
 その言葉に、俺は白衣の男に不審なものでも見るような目を向け。
 シキはといえば。
 表情も顔色も変えぬまま、ただ射るような視線を俺に向けていた。
「この黒づくめの男前はなあ、どうやらトシマ辺りからお前さんを連れて
ここまで歩いてやってきたらしいが、それはもうどこのお姫さまを抱えて
きたのかと思うくらい、何というか・・・なあ」
 ニヤニヤと。
 笑う男の表情から、何を言おうとしているのか理解したくはなかったが
酷く誤解をされているのだけは確かだと思った。
 そうだ、シキは俺を。
「眠っている間も、片時も傍を離れずに・・・・・」
 含むような物言いの、その声がどこか遠くに聞こえる。
 そうじゃない。
 シキは。
 シキは、俺を。
「っ、・・・・・」
 呻きながら、男に背を向けるようにして引き上げた毛布に包まれば、
やや狼狽したような気配がして。
「ああ、済まんな・・・まだあまり具合は良くないようなのにな。今夜も
ゆっくり休みたまえ。心配はいらない、我々は君達を歓迎しているよ」
 労るような声も、遠くて。
 耳鳴りが。
 止まない。
 あの声が。
 また。
「では、私はこれで。可愛い恋人を大事にな・・・ああ、私が言うまでも
なかったか・・・はは、じゃあな」
 何を言っている。
 コイツは。
 遠ざかっていく脳天気な笑い声に、吐き気すら覚える。
 気持ちが悪い。
 誰か。
 止めてくれ。
 頭の奥で繰り返される、あの映像を。
 言葉を。
 どうか。

 コツ、と。
 背後で聞こえる、良く知った足音。
 気配。
 革手袋に包まれた指先が、ツと。
 耳の後ろに触れた。
 ゾクリ、と。
 身体中を駆け巡ったものは、恐怖なのか。
 それとも。

「・・・・・忘れるな」

 忘れられるものなら。
 忘れてしまえるものであったなら。

 幾度となく繰り返し、繰り返し。
 囁かれる、言葉。
 少しずつ、俺を壊していく狂気。
 麻痺していく、感情。
 刻み込まれていく、身体中に。
 魂まで。

 首筋に触れた吐息に、俺は掠れた声を上げて。
 濡れた瞼を、ゆっくりと閉ざした。





お姫さま抱っこで連れてったんだと、脳内予想。力持ち。