『そして満たされていく』
まだあまり耳馴れない異国の怒声と複数の足跡が、次第に遠ざかって
いく。奥まった路地、冷たい壁に背を預け、ふと漏らした安堵の溜息は
冴えた空気を白く染めた。まだ油断はならないのは分かってはいるが、
一先ずここを離れ幾つかある隠れ家に身を潜めれば、少なくとも今夜は
落ち着いて休むことが出来るだろう。
「・・・・・行こう」
傍らで同じように壁に凭れる男に声を掛ける。少なからず息を乱した
アキラとは対称的に、男には追っ手から逃れて散々走り回ったというの
を伺わせる様子は微塵もない。
アキラの言葉に小さく頷くのを目の端で捕らえながら、何とはなしに
男の手を取り、触れる低い体温と共鳴するような微かな痺れに少しだけ
ホッとしたような気持ちになって、繋いだ手を軽く引くようにして歩き
出す。
一歩。
踏み出そうとして、しかし逆に掴んでいた手を引く力に不意をつかれ
そのままバランスを崩した身体はすぐ後ろに佇む長身の胸に抱きとめ
られた。
「っ、・・・・・な、・・・」
いきなり何するんだとばかりに肩ごし非難の目を向ければ、それに
特に動じたような様子もなく、ぽつりと。
それでも以前よりは、ずっとはっきりとした口調で。
「・・・・・キスをしたい」
まだどこか頼りなげに、それでも確かな意思を滲ませて。
そう、告げるのに。
「・・・・・何を言ってる・・・」
こんな時に。
こんなところで。
どこか縋るような瞳で、囁くような言葉ではないだろう。
「・・・したい」
今すぐ、と。
請うように、いつしか胸元に引き寄せられた手にアキラは観念すると
少し伸びをするようにしてそっと唇を触れ合わせた。
押し宛てただけの、キス。
ほんの数秒にも満たないそれに、ほらこれで良いんだろと上目遣いに
見遣れば、あまり感情を見せない貌にやや不満げな色を見付けてしまう。
「・・・・・アキラ」
「・・・・・、っ」
名を呼ばれて。
今度は男の方から仕掛けてきた口付けに、アキラは一瞬小さく肩を
震わせただけで、おとなしくそれに従った。
薄く開いた唇が、何度か啄むように触れて、離れて。
そして、互いの熱を分け合うように次第に深く、密度を増していくのに。
「お、い・・・・・っ」
マズい。
躊躇うことなく忍び込んできた舌が、歯列を割って柔らかく濡れた
粘膜を辿るのに、いつの間にか抱き込まれていた腕の中から逃れようと
するけれど、腕を突っぱねても男の身体はビクともせず、それどころか
より一層アキラの身体に添うように、重なる熱が。
鼓動が、近い。
「ん、っ・・・・・ふ・・・」
このままでは。
こんなところでは。
「ま、待て・・・って・・・なあ、ここじゃ・・・・・」
押し寄せてくる快楽の波をどうにかやり過ごそうと、努めて明るい声
で。長く長い口付けの合間に、この状況の回避を試みる。
「ここじゃ、イヤだ・・・あそこ・・・町外れの教会。あの地下の隠し
部屋なら、ベッドも・・・・・」
すっかり昂ってしまっている男を納得させようと提案したそれは、
それこそこの行為の続きを誘っているような響きを伴って口から滑り
落ちたのだけれど、アキラ自身どこかでもっと触れ合いたいという欲求
があったというのは、否めない事実であって。
それでもその欲を口にしてしまった羞恥に頬を染めてしまえば、男の
笑んだような吐息がそっと濡れた唇を撫でた。
「・・・・・急ごう」
「え、・・・」
性急に腕を引かれ、駆け出すままにアキラも従えば。
「我慢、・・・出来ないだろう」
「な、っ・・・そんなこと、言わなくても」
「・・・アキラも」
「・・・・・っ、・・・・・」
繋いだ手は、さっきよりもずっと熱い。
それは、相手からそして自分から溢れてくる熱情に他ならなくて。
しっかりと内に孕んだものを自覚してしまえば、苦笑しながらも認め
てしまうしかないのだ。
自分も。
どうしようもなく、この男を欲しているのだということを。
町外れの古びた教会は、ほぼ廃虚と化して打ち捨てられてしまって
いる。その祭壇の奥、張られた床の下にある隠し部屋を見付けたのは、
ほんの偶然だったのだけれど。
必要最低限の家具、壁際に備え付けられたベッドは先日逃走に疲れ
果てた身体を休めるのに使った時のまま。
その僅かに寝乱れたシーツの上、互いに縺れ合うように身を投げ出す
と、重なった身体がまた新たな熱を生み出す。
触れたくて、触れていたくて。
急くように着ていたものを脱ぎ去って、肌を合わせる。
ピリピリと、触れる部分から伝わってくる感覚は、2人だけのもの。
対となる血を持つ、自分たちしか知らないもの。
「・・・・・アキラ」
吐息が、唇が、舌が、手の平が、指先がアキラの色付き始めた素肌を
這う。その度に感じる痺れと、沸き起こる快感。
それは、自分たちだけのもの。
「あ、・・・っ・・・ん、く・・・・・」
胸の突起を舐め上げられ、声が上がる。
鼓動が、跳ね上がる。
「・・・・・聞こえる・・・」
トクトク、と。
胸の奥で脈打つ、アキラの鼓動が。
それを感じるたび、男の中の空虚が満たされていく。
アキラに触れるたび、色のない世界が見たこともない彩りで染まる。
「お前は・・・暖かくて・・・濡れていて。とても・・・気持ちが良い」
「ん、ぅ・・・・・、っ・・・・・」
溜息のように漏らされた言葉に、肌がふわりと朱を帯びて、下腹部で
震えていたものが、やおら勃ちあがっていく。
慈しむように手で包み込むと、その先端から溢れた先走りが指を濡ら
した。
「アキラ」
もう、何度その名を呼んだだろう。
口にするたび込み上げてくる、もどかしささえ伴った感情。
そして身体を繋げれば、もう言葉では言い表せない感覚に包まれて、
何もかもが彼で満ち満ちていくのだ。
それは。
歓喜というものなのか、それすら確信は持てなくて、それでも。
この腕の中で息づく存在は、かけがえのないもの。
それは、きっと自分の中で唯一確かなもの。
揺るぎなく。
「・・・・・は、やく・・・・・・・っ」
強請る声に、緩く口元に笑みを乗せて、誘う肌に唇を寄せる。
触れて、重ねて、繋げて。
満たされていくのだ。
互いを。