『隠し味は』



 コトリ、と。
 おそらくそれは、隣室から届いた物音。
 深夜の静けさとはいえ、寝入りが深くなろうかという時分にも
関わらず、耳聡くそれを拾ってしまえば、眠気なんて吹っ飛んで
しまうのも仕方ないと思う。
 隣の部屋は、その主は。主であった男は、今はいない。
 そのはず、なのに。
 さっきのようなあからさまな音こそ聞こえないものの、そこに
人の気配を感じて。
 そんな。
 まさか、と。
 鼓動が、トクリと高鳴る。
 身を起こしていたベッドからするりと抜け出し、足音を忍ばせ
ながら向かう先は、侵入者がいると思しき隣室。
 物取りならば、それ相応の対処が出来る。
 だが。
 もしも、そこにいるのが。
「・・・・・ちッ」
 動揺にも似た胸のざわめきを紛らわすように、小さく舌打ちを
すると、どこか逸る気持ちに苛立ちさえ感じながら、部屋を出る。
 静まり返った廊下。
 うっかり裸足のまま出てきたことを後悔するほど、床は冷たい。
 ひたり、と。
 だが足音は立てず、ゆっくりと足を踏み出すと、皆守は目の前の
ドアを一気に開け放した。



「う、わ・・・びっくりした」
 煌々と灯された部屋の明かり。
 テーブルの上、携帯コンロにかけられた大きなカレー鍋の向こう。
味見でもしていたのか、口に含んでいた指を下ろしながら、大きな
瞳をパチパチと瞬かせながら呟かれた言葉に。
「・・・・・こっちの台詞だ」
 一気に。
 力が抜けた。
「さすがだねー、甲ちゃん。カレーの匂いに釣られて来るなんて」
「・・・・・」
 そういう訳ではなかったが、確かにこの部屋いっぱいに漂う旨そう
な香りには、自然心くすぐられる。
「でも、呼びに行く手間が省けたな。もうすぐ出来るから、座って
待ってて」
「おい、・・・・・ちょっと待て。なんでお前がここにいる」
 上がり口に立ち尽くしたままの皆守を促す、この部屋の一応の主
-----葉佩九龍に、皆守はその疑問をぶつける。
 だって、こいつは。
「ここ、俺の部屋だし?」
「・・・・・そりゃ、・・・だが、お前は・・・・・」
 あの日。
 沢山のモノを解き放って、彼は。
 ここから。
「色々本部に報告することもあったし、だけどそれが済んだら次の
仕事を入れるまでは、基本的に自由なんだよ」
 くるり、と。
 鍋の中のカレーを掻き回せば、その香りが一層強くなる。
 思わずコクリと喉を鳴らしてしまえば、湯気の向こうのキレイな
貌が、ふわりと笑んだ。
「で、せっかくだから近代日本の良き風習に法ってみようかな、って」
「・・・・・はァ!?」
 くすくすと。
 笑いながら、小皿に少しだけ乗せられたカレー。
 差し出されたそれを、何とはなしに受け取ってしまえば。
「味見、してみて」
「・・・・・」
「甲ちゃんの舌を唸らせるには、またまだ修行が必要だろうけどね」
「・・・・・ふ、ん」
 そう謙遜してはいるけれども。
 見た目にも、そしてその香りもなかなかのものだと思う。
 問題は、味なのだが。
「・・・・・ど?」
 皆守が小皿に口を付けるのを見届け、感想を聞きたくてうずうずと
している空気が伝わってくるような葉佩の様子に、どうしても口元が
弛んでしまう。
「・・・・・旨い」
「・・・・・ほんと?」
 率直に感想を漏らせば。
 途端、その表情が歓喜に満ちる。
「ね、それでそれで?」
「あ?」
 だが。
 それだけでは、何か足りないのか。
 もっと沢山賛辞を聞きたいとでもいうのか、期待に満ちた瞳で躙り
寄って来るのに、ふと。
 舌の上、微かに残る。
 香りだけでは、気付かなかったそれは。
「・・・・・隠し味か」
「うん」
 それが。
 何か、は。
「そのままの形であげても良かったんだけど、甲ちゃんなら・・・
こっちの方が喜んで貰えそうな気がして」
 視界の片隅、無造作に解かれたパッケージ。
 確か、それなりに値の張る何処かの王室御用達だという、それは。
「なるほど」
 そう、この時期。
 日本中で、恋人への贈り物として甘い香りを放つ。
「そういえば、そういう日だったな・・・今日は」
「そういう訳です」
 ルーの中に溶け込んだ。
 チョコレート。
「そういうことなら、せめて昼飯か晩飯に合わせてくれりゃ・・・」
 時計の針は、しっかり丑三つ時。
 カレーを食べるには、かなり微妙な時間。
「でも、甲ちゃんだし」
「・・・・・どんな理屈だ、そりゃ」
 まあでも、食うけどな。
 呟きつつ、どうやら既に炊きあがっているらしい御飯が入った炊飯
ジャーを開ける。
「えへへ、いっぱい食べてくれよなー。何たって、俺の愛がたーっぷり
入ってるんだから」
「・・・・・鍋いっぱい作りやがって・・・」
 これを全て平らげるには、数日はかかりそうな気がする。
「並々と溢れんばかりの俺の気持ちを表現してみました ! 」
「ああ、充分過ぎるくらい分かった」
「何、その言い方・・・なんか投げやり?」
 軽く唇を尖らせるようにして、背にタックルをかましてきた葉佩の、
その身体を。
 避けずに。
 背で、しっかりと受け止めながら。
「・・・・・分かってる」
 肩にかかる手を引いて。
 ちょっと驚いたような唇を掠めるように。
 キス。
「分かってる、から。食い終わっても逃げるなよ」
「に、げるな・・・って」
「そういう日、なんだろう。今日は」
「ッ、・・・・・」
 口元に付いた米粒を舐め取りつつ、唇の端をつり上げれば。
 極至近距離、葉佩の白い頬が微かに朱に染まる。
「ま、期待してろよ」
「な、ッ・・・何を」
「チョコのお返しだろう」
「そ、それは1ヶ月後のホワイトデーで」
「その時はその時だ。ああ、3倍返しが基本らしいな・・・」
「・・・・・ッ」
 ガツガツと愛情たっぷりチョコの隠し味カレーを平らげつつ、その
後は。

 こちらも美味しく、召し上がれ?





ガツガツと頂かれたそうであります(敬礼)!!