『暖かな、その』




「じゃあな」

 そう言って、微笑って。
 あの人は、僕の前から消えてしまった。
 遠い。
 遠い、ところへ。



 呼べば、還って来るような気がしていた。
 だから。
「綾人さん」
 そう呼べと言われていた時には、恥ずかしさもあったり、少し
意固地になっていたりして、殆ど正気の時には呼べなかった名前。
 今、なら。
 いくらだって、何度だって呼べるのに。
 夜の昇竜の滝、僕以外には誰も居ないから、だからという訳
じゃなくて。
 もし、ここに伽月や御神がいて、からかわれたって構わない。
「綾人、さん・・・」
 呼んでいる、のに。
 早く。
 来てよ。

 ガサリ、と。
 不意に茂みが揺れて音を立てるのに、慌てて振り返る。
 そんな僕は、一体どんな表情をしていたんだろう。
 期待、それとも。
「・・・・・」
「・・・・・」
 相手の無表情な様に、それは読み取れなかったけれど。
 だけど、少しだけ。
 その真直ぐに僕を射抜いた瞳が、細められたような気がした。
 しばし、お互い無言のまま見つめ合って。
 目を逸らしたのは、彼が先だった。
「・・・・・飛、河・・・っ」
 そのまま立ち去ろうとする背を、呼び止めてしまったのは何故
だろう。声を掛けられるとは思わなかったのだろうか、その背が
一瞬微かに震えた。
「あ、・・・ごめん・・・えっと、飛河もここに・・・よく来る
のかな、って・・・」
「・・・・・」
 返事はない。
 背を向けたまま、だけど立ち去ろうとはしない背に、僕は自分
でもどうしたんだと思うくらい、饒舌になっていた。
「僕、ここ好きなんだ。・・・滝の流れ落ちる音を聞いていると、
何だか落ち着く気がするし、ゆらゆら揺れて水面に映ってる月を
見るのも、癒されるって言うか。さすがに、夜は水の底は真っ暗
で何も見えないよね・・・昼間でも見えないけど、夜はまた違う
カンジがしない?ちょっと怖いよね・・・こう、引き込まれそう
・・・・・」
「キミ、は」
「・・・・・飛河?」
 振り返って。
 初めて。
 飛河が、声を発した。
「ご、ごめん・・・ひとりで勝手に・・・僕・・・・・」
 サクサク、と。
 草を踏み分けて、彼が近付いて来るのが正視出来なくて、つい
俯いてしまう。
 馴れ合うのは嫌いだと言っていた。
 ひとりで捲し立てていた僕に、怒っているのかもしれなくて。
 俯いた視線の先、飛河が立ち止まったのが見えた。
「死にたいのか」
「・・・・・え?」
 何を。
 聞くんだろう。
 思わず訝しげに顔を上げれば、少し考え込むような貌が月明かり
に浮かぶ。
「言い方を変えよう。・・・・・九条綾人に会いに行きたいのか」
「・・・・・会い、に・・・?」
 九条さんに。
 会いに。
「・・・・・どこ、へ?」
「・・・・・」
「知らないよ、僕・・・あの人が今、どこにいるのか。だから、
僕はここにいるしかないんだ。ここで、待っているしか・・・」
 そうだ。
 ここで、僕は。
「・・・・・いい加減、理解したらどうだ」
「な、に・・・」
「九条綾人は死んだ。・・・・・・キミは、その場にいたはずだ」
「・・・・・何、言って・・・・・」
 死んだ。
 追悼式も執り行った。
 そう、那須乃さんにも言われたじゃないか。
 …僕のせい、だって。
 僕の力が足りなくて、だから。
 九条さん、は。
「忘れろとは言わない。だが、いつまでも囚われるな・・・キミが
辛い、だけ・・・だ」
「・・・・・辛い?」
 そう、なんだろうか。
「辛く、なんてない」
「・・・・・そんな顔をしているのに」
 どんな。
 顔。
「微笑っているのに、・・・・・今にも泣き出しそうだ」
「・・・・・っ」
 泣きたい、んだろうか。
 九条さんが、いなくて。
 僕は。
「・・・・・呼んでも、来てくれないから・・・」
「だから、彼は・・・・・」
「だけど、僕は泣かない・・・九条さんと、約束したから」
 あの人が言ったんだ。
 俺以外の人の前では泣くな、って。
 九条さんが、そう言って。
 僕を。
「僕、を・・・・・っ」
「っ伊、・・・・・」
 抱きしめた、腕は。
「・・・・・違、う」
 驚く程、暖かくて優しいけれど、だけど。
 これは、あの人の腕じゃない。
「・・・・・飛鳥」
 呼ぶ声も。
 違う、のに。
「・・・・・どうして」
 それでも、この温もりにホッとしてしまうんだろう。
 どうして。
 彼は、僕を抱きしめているんだろう。
「理由がいるのか」
「だって・・・飛河、は・・・・・」
「キミが泣くからだ」
 僕が泣いたから、だから抱きしめているんだって。
 それは、理由になっているんだろうか。
「・・・・・ザワザワ・・・?」
「・・・何」
「僕が泣くと、ザワザワするって・・・言ってた」
「・・・・・なるほどな」
 誰が、とは言わなかった。
 誰が、とは聞かなかった。
 だけど、飛河には分かったんだろうと思う。
 耳元、ふと溜息が触れて。
 そして、抱きしめた腕の力が一層強くなる。
「もっと早く・・・・・」
「・・・え?」
「いや、・・・何でもない」
 腕の中、何度か身じろぎしてみたけれど、抱擁は解かれることは
なく。でも、ちっともイヤじゃなかった。ここ、は。とても居心地
が良くて、ふわりと意識が浮いたような感覚に捕われる。
「・・・・・おい」
「ん、・・・・・」
「こんなところで寝るな。・・・・・風邪をひく」
「・・・大丈夫」
 だって、とても暖かい。
 また、泣いてしまいそうなくらいに、心地良くて。
 するりと零れ落ちそうになる涙を知られたくなくて、肩口に顔を
埋めるようにして縋り付けば、背を抱いていた手が一瞬引き攣った
ように震えて。
「確かに、・・・これを遺して逝けるとは思えない、な」
 そんな飛河の呟きも、何だか遠くに聞こえる。
 目を閉じれば、どこかぎごちない仕草で、それでも優しく髪を撫で
てくれている手に、思わず。
 零れそうになった名を心の奥にしまいながら、その暖かな腕に安心
して、僕はそのまま眠りに落ちてしまっていた。
 髪に、そっと。
 口付けられたのも、気付かないままに。





・・・・・ごめん、薙たん(土下座)!!
旦那を待ち続ける新妻・伊波たん&いつの間にやら
フォーリンラヴ・薙たん。
・・・・・罪な男ですな(誰)。