『spark』



 …どうして僕は、こんなところにいるんだろう
 それは、ここ1ヶ月の間に幾度も頭を過った疑問符付きの言葉。
 成りゆきとはいえ、流されるままにいつの間にか裏執行部員として
輪に加わる自分がいた。魂神を発動させるような力を持ってしまって
いたことからして、それは仕方のないことなのかもしれない。望む
望まざるに関わらず、だがその自分でも掴みどころのないような未だ
理解し難い力であっても、同じようにそれを使う者たちがいて、その
中にいて自分の力がほんの僅かであっても役に立っているというの
なら。
 少しでも、あの人に有益であるのなら。
 それならば、いい。
 山積みの書類を丁寧に分別ファイリングしながら、伊波はチラリと
執務机の向こうにある端正な貌に視線を滑らせ。
「っ、・・・・・」
 その双眸が、やや俯き加減ながら自分へと向けられていたことに、
酷く狼狽した。
「あ、・・・・・」
 目が合った、ただそれだけのことじゃないか。
 こんなに動揺する方がおかしい、と自分に言い聞かせながら、伊波
は不自然にはならないよう努めながら、そっと自分に注がれる視線
から逃れるように目を伏せ俯く。
 ふ、と。
 微笑ったような、そんな溜息が聞こえたような気がして。
「綾人様?」
 傍らで九条の仕事を見守っていた補佐である紫上が、やや咎める
ような色を含ませながら、声をかけるのに。
「喉が渇いたな」
 独り言のように呟かれた言葉に、紫上がハッとしたように手にした
書類を執務机に置く。
「申し訳ございません、すぐに」
 御茶を、と言いかけた紫上の軽く上げた右手で制し、九条はやおら
立ち上がり、そのやりとりをファイリングの手を動かしながらも聞く
とはなしに聞いていた伊波に向けて、明るく言い放った。
「行くぞ、飛鳥」
「え・・・・・?」
 名を呼ばれ、慌てて顔をあげればすぐ横に九条が歩み寄っていて、
何の用かと問う暇すら与えられず、その腕を取られ半ば引き摺られる
ようにしてドアへと向かうのに。
「綾人様 ! 」
 今度こそ、その表情にも咎める意図をしっかりと浮かび上がらせ
ながら紫上がかけた言葉を、九条は振り向いた肩ごしゆるりと口の端
を吊り上げて。
「たまには冷たくてキリリとするものを飲みたいんでな」
 外出する旨を滲ませつつ、まだ呆然としたままの伊波の腕を引いて
九条はスッとドアを引く。
「半時もかからん」
 そう告げ、怒ったような呆れたような紫上を残し、九条は伊波を
伴って校舎を出て、そのまま門の外へと歩き出した。

 な、何・・・?

 腕を引かれるまま、九条と学校を抜け出して。
 何がどうなっているのか分からず、相変わらず淀みない足取りで
朱雀大路を真直ぐに南下する九条の、その貌を仰ぎ見れば。
 伊波の疑問に応えるように、口元に浮かべた笑みをそのままに、
九条は訝しげに自分を見上げる視線を受けとめた。
「訳が分からん、という顔をしているな」
 目を細め、困惑の眼差しに笑いかける。
 その間も歩く脚は止まることはなく、やがて目的地であったのだ
ろう、通りに面した古びた造りの店の前で九条はようやく掴んだまま
であった伊波の腕を、そっと解放した。
「店主、冷えたラムネはあるか」
 それほど強い力で掴まれていた訳ではない。
 だけど、制服越しに伝わる九条の手の熱が、まだそこからじわりと
伝わってくるようで、伊波はそっと僅かに皺のよったその部分に触れ
九条がかけた声に慌てて店の奥から飛び出してきた店の主が九条の
顔を見て酷く畏まった様子で頭を下げるのを見つめながら、気付かれ
ないよう、小さく溜息を漏らした。
 これはこれは九条家の坊ちゃん、と。
 やたらと腰の低い主の、だけどその態度もやはり当たり前のこと
なのだと思うと、伊波は傍らに立つ九条が、その存在が今更のように
遠いもののように感じる。
 そう、遠いのだ。
 例えこうして肩を並べ、その袖先が触れ合っていたとしても。
 九条宗家跡取りであり、神子との呼び声も高い、天照館総代・九条
綾人と自分とでは、あまりにも色々なものが違い過ぎる。
 つい今し方まで九条に引かれていた腕、まだ残る温もりに触れた
手が、僅かに強張る。
 何故。
 どうして。
 だけどそれは問いにはならず、伊波は自分の爪先をじっと見つめる。
 視界の端に、九条の靴がある。
 並んで立っていても、この人は遥か遠い。
 分かっていたことなのに、それを自覚してしまえば、伊波はここに
こうして佇んでいることすら現実ではないように感じて、震える瞼を
そっと伏せた。
 と。
「ひ、ゃ・・・・・、っ」
 不意に。
 頬に触れた冷たい感触に、思わず声を上げてしまえば。
 振り仰いだ先、九条のやや驚いたような、それでいてどこか熱っぽい
ような不思議な視線に、知らず身を震わせた。
「な、・・・・・」
「・・・そんなに驚くとは思わなかった」
 済まんな、と。
 苦笑混じりに呟きながら差し出されたものを、反射的に両手が受け
取ってしまえば、手の平にもじわじわとさっきの冷たい感触が染み
渡ってくる。
「おごりだ」
 手の中、汗をかいた濃いグリーンのガラスの瓶をまじまじと見つめ
ていた伊波にかけられた声に視線を上げれば、腰に手を宛て瓶を掲げて
ゴクゴクとラムネを飲む九条の横顔が飛び込んできた。
 上下する喉のラインが、やけに目に焼き付いて。
 妙に気恥ずかしくなって、それを紛らわせるように、伊波もおそる
おそるといった様子で瓶に口を近付けた。
「い、頂きます・・・」
 冷たい瓶の口に触れ、そっと仰ぐように傾ければ口腔に甘くそして
冷たいラムネが染み渡るように広がっていく。
 もっとと訴える喉に促されるままに瓶を傾ければ、中に転がっていた
ガラス玉が、その流れを塞き止めようとするのに。
 本来は、瓶に故意に付けられた凹凸にガラス玉を引っ掛けるように
して飲めば、こんな風に塞き止められて困ることはないのだけれど、
まだどこか落ち着かない鼓動がそれに気付かせないまま、伊波は邪魔
なガラス玉を除けようとして、舌先でそれをそっと押し退けた。
「っ、・・・・・」
 ふと。
 もう既にラムネを飲み終えたらしい九条が、息を飲んだような気配が
して。どうしたのだろうと瓶から口を外して、すぐ前に立つ九条の様子
を伺えば。
「え、・・・・・」
 交わされる視線。
 自分を見つめる瞳のその奥、ゆらめいたものの熱と彩に、伊波は身体
にゾクリとした何かが走るのを感じた。
 恐れ、とは違う。
 不安、でもない。
 自分に注がれる九条の視線と、そして身を震わせたものの正体を知り
たくて、でも知ってはいけないような気がして。
 問い掛けそうになって1度開いた唇を、また閉じて。
 やがて、ぽつりと。
 伊波が呟いたのは。
「お、・・・・・美味しい、です」
 …何、言ってるんだろう。
 伝えたかったことの1つではあるけれど、今自分の胸の内を賜杯して
いるモノとは、全く違うことのようでもあり。
 それでも、九条は伊波のその言葉を聞くと、幾度か瞬きをして。
「・・・・・そうか」
 そして、ふわりと嬉しそうに微笑んだ。
 その優しい笑顔に、伊波の鼓動がまた小さく跳ねたのには、気付いた
だろうか、気付かれやしなかっただろうか。
 それを誤魔化すようにして、伊波はまたラムネを口に含んだ。
 九条は、まだこちらを見ている。
 ただ見られている、それだけのことなのに。
 伊波は酷く緊張してしまって、だけど喉を潤すラムネの爽やかな感覚
に、凪いだ心が鎮められていくような気がしていた。

 ラムネを飲み干し、瓶を店主に返すと、2人はまた並んで来た道を
歩き出す。
 人通りこそそれほど多くはなかったものの、それでも通り過ぎる人は
皆、九条に気付くと大袈裟ではないにしろ畏敬の眼差しを向け、会釈を
する。
 傍らの伊波は、その度に落ち着かなくなったのだけれど、その人たち
が見ているのは九条であり、自分のことなど殆ど視界に入ってはいない
のだと思えば、幾分気は楽になった。
 だけど、その分また九条の存在は遠く離れていく。
 当たり前のことなのに、それが何だか寂しいだなんて感じてしまう。
 こうして側にいられることだけでも恐れ多いというのに、そんな風に
思ってしまう自分に、伊波はこっそりと溜息をついた。
「どうした」
「っ・・・・・」
 それに、九条は気付いてしまったようで。
 立ち止まり、心配げに覗き込んでくる瞳に、胸の奥に小さな痛みにも
似たものが走る。それは気取られないようにと、伊波はブンブンと勢い
よく首を振って、どうにか笑顔さえ向けて。
「な、何でもありません・・・っあ、早く戻らないと、紫上さんが」
 待ってますよ、と。
 伊波の心を覗き込むような深い視線から逃れるように、駆け出そうと
すれば。
「あ、・・・」
「飛鳥、っ・・・・・ ! 」
 不意に視界が傾く。
 爪先に感じた小さな感覚に、ああ何かに躓いたんだなと意外にも冷静
に判断する自分に可笑しくなりつつも、それでも地面に倒れようとする
身体を止める方法なんて浮かばなくて。
 だけど、転ぶくらいはどうってことはない。
 多少は痛いかもしれないし擦りむいたりするだろうけれど、そんなの
怪我のうちにも入らない。
 ただ、いきなり転んだりしてそれを九条に見られるのは、やっぱり
恥ずかしいな、なんて。
 せめて不様に転がったりはしないようにと、受け身だけは取ろうと
身体を丸めれば。
 地面にぶつかるはずだった身体は、その衝撃は。
 熱くて確かなものに摺り替えられる。
「・・・・・!?」
 それが。
 何であるか、なんて。
 理解する前に、伊波の目に映ったのは、九条の酷く焦ったような顔と
そして引かれ、抱き寄せられる感覚。
 九条の腕、そして胸元。
 抱きしめられているのだと悟るまで、どれくらいの時間が過ぎたの
だろう。長いようで、それは数秒の間のことだったのかもしれない。
「・・・・・飛鳥」
 耳元。
 ホッとしたような、なのにどこか苦しげな。
 触れた吐息の熱さに、また身体が震える。
「・・・大丈夫だ」
 それをどう捕らえたのか、九条は背に回した手で伊波の背をそっと
撫でながらも、尚もきつく抱き寄せようとするのに。
「っ、九条、さ・・・ん」
 息苦しさに、ふと我に返り、伊波は腕の中で身じろいだ。
 こんな。
 往来で。
 人通りは少なくったって。
 そんなの。
「は、なして・・・下さい・・・っ」
 恥ずかしい、ということよりも。
 ダメだ、と。
 まるで禁忌を犯したかのように、伊波の身体を心を苛むのは。
「・・・・・イヤだ」
 なのに。
 耳朶に囁くような言葉は、そんな伊波の内のざわめきを絡め取るかの
ように、静かに。
 確かに。
 伊波を、きつく抱きしめた。
「離さないぞ・・・俺は」
 …例えお前が俺から遠ざかろうとしても。
 密やかに注ぎ込まれる言葉に、ささやかな抵抗が封じられる。
 自覚していた距離を、その隔たりを縮めようと。
 むしろ、それすらなかったことにするかのように、きつく。
 抱きしめてくる腕に、囁かれる言葉に。
 いっそこのまま身を委ねてしまおうかという誘惑に駆られながらも、
それでも。
 力なく垂れていた腕を、どうにか持ち上げるようにして。
 自分を抱く九条の、その背に。
 やや躊躇いがちに腕を回し、震えてしまいそうな声で、どうにかして。
「・・・・・ここじゃ・・・」
「そうだな」
 告げようとすれば、不意に。
 意外なほど呆気無く、その抱擁は解かれた。
 離れていく身体に、体温に、思わず仰いだ瞳はどんな色をしいていた
のだろう。伊波を見下ろす瞳は、そこに切ないようなそんな息苦しさを
覚えさせる光を宿しながら、笑んで。
「場所を変える」
 だから、と。
 促すように首を傾げ、それに釣られるように伊波が頷いてしまえば、
九条はその笑みを濃くして、突っ立ったままの伊波の手を。
 繋いで、引いて。
 そのまま、もと来た道を早足に歩き始めるのに、ホッとしたような
だけど手が繋がれているというのに焦りながら、その長い脚の歩調に
合わせるように小走りに従えば。
「取り敢えずは1度戻らんと、結が後で煩いからな」
 ブツブツと呟くそれは、伊波にというよりも自分に言い聞かせるかの
ようで。
 しっかりと繋がれた手と九条の横顔に交互に視線を泳がせつつ、伊波
は息切れを混じらせながら、訴えてみる。
「あ、あの・・・手・・・・・九条さん」
 手を繋いで帰る、なんて。
 離して欲しいという訴えは、一瞥のものに。
「離さんと言っただろう」
 あっさりと却下された。
 それどころか、握り締めた手の力は増したようにさえ感じる。
 離さない。
 絶対に、と。
 そう告げる、ように。
「手、だけじゃないぞ」
「え、・・・・・」
 校舎の屋根が見えてくる。
 擦れ違う学生が、案の定怪訝な視線を投げかけてくる。
「俺としては、それ以外のところだって繋がりたいんだ」
 なのに。
 九条の瞳は、ただ伊波を。
 伊波だけを、映して。
「誰よりも・・・・・深く」
 深いところで。
 お前と繋がりたい。
「九条、さ・・・ん」
 言葉に、瞳に、熱に。
 抗えない自分がいる。
 自分の中に存在する、戸惑いだとか迷いだとか、九条の言葉を否定
してしまおうとする気持ちも、確かにあって。
 それはおそらく、九条は気付いているはずで。
 けれど。
「飛鳥」
 呼ぶ声が、好きだ。
 見つめる瞳が。
 好きで。
 呼んで欲しい。
 見つめて欲しい。
 そんな想いを、こんなにもあっさりと揺り起こして。
「・・・・・九条さん」
 ぎごちなく、それでも。
 微笑み返せば、愛おしそうに細められる瞳に胸が熱くなる。
「好き、です」
 ふと零れ落ちた言葉に、九条は虚をつかれたように一瞬足を止めて。
 だが、次の瞬間、駆け出す勢いで伊波の手を引く。
「く、くじょ・・・さ・・・・・」
「理性なんぞ、クソくらえだ ! 」
 廊下は走らない、という校則も蹴り倒して。
 息せき切って執行部室に飛び込んで来た2人を呆然と見つめる紫上
に、後は任せたと言いおいて、引き止める声を背にまた駆け出して。
 何をそんなに急いでいるんだろう、とか。
 仕事を放り出して一体どこへ行くんだろう、とか。
 聞けないままに、走る。
 九条に。
 ついていく。
 しっかりと繋がれた手に、安堵さえ感じながら。
 どこ切羽詰まった様子の九条の横顔に、伊波は小さく微笑んだ。




勃ってます。←えー
むふふ思い知ります、飛鳥たん(何)v