『ツカマエタラニガサナイ』
「たまには、こういうのも良いんじゃないか」
朝早くから。
天気が良いから、とか何だとか言って、妙に浮かれた調子で。
休日の朝、寝ぼけ眼の僕を誘い、どこかへ出掛けようとする九条さんが
肩に掲げているのは、長い筒のようなもの。その中身を気にしていれば、
そんなソワソワする様子さえ楽しくて仕方ない、といったように。
手を。
引かれて。
恥ずかしいから止めて下さいと言いたくて、でも言えなくて。
だって、九条さんがやたらと上機嫌だし、それに。
イヤな訳じゃないから。
手を。
繋いで、朝の清々しい空気の中、向かった先は昇竜の滝に程近い小川。
そこで、ようやく離された手に、ホッとした気持ちと僅かな寂しさも
感じてしまいながら、肩から降ろした筒のその中身を九条さんが取り出す
のを眺めていれば。
「・・・・・っえ・・・それって」
「見てのとおり、釣り竿だ」
「・・・・・はあ」
細く撓る竿を、九条さんが得意げに振りかざすのに、僕はまさかという
思いで、小川に視線を移す。
「ここで、釣るんですか?」
「そうだ。飛鳥は釣りは初めてか?」
「・・・・・はい」
「そうか、また飛鳥の初めては俺が頂きだな」
「・・・・・・・っ」
にっこり笑った顔は、爽やかそのもので。
発言の内容に思わず絶句してしまったのを見て、九条さんがアハハと
声を上げて笑う。
本当に、御機嫌そのものといった感じで。
笑われてしまったのは不本意というか、多少なりとも不満ではあった
けれど、九条さんの笑顔は。
好き、だから。
「そ、それはそうと・・・ここ、何が釣れるんですか?」
仕掛けの準備をする九条さんの手元を覗き込みつつ、そう問えば。
「さあな」
「さあな、・・・って」
「ここで釣りをするのは初めてだ。まあ、何とかなるだろう」
「・・・・・いい加減な」
用意周到なのか行き当たりばったりなのか。
こっそり溜息をついていれば、どうやら仕掛けの準備が出来たらしい
釣り竿が、目の前に差し出された。
「難しいことはない。ただ、糸を垂らして魚が食い付くのを待つだけだ」
「・・・・・分かりました」
本当に、簡単なんだ。
それだけで魚が釣れるなんて、お手軽過ぎるような気もするけれど。
でも。
釣りは、そんな甘いものではなかった。
「・・・・・」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・・・釣れんな」
「・・・・・・・・・・・そうですね」
糸を垂らしてから、小1時間経過。
ただ小川の流れに漂い、ピクリとも反応しない仕掛けを眺めながら、
僕はここに来てもう何度目かしれない欠伸をした。
「眠そうだな」
「・・・・・早起きしましたから」
誰かさんのせいで、と付け加えれば。
「夜更かしもしたしな」
なんて。
ゆるりと唇の端を吊り上げてみせるのに、思いっきり名指し指差しで
訴えたくなるのを、どうにか堪えつつ。
「九条さんは、眠くならないんですか」
そんなことを聞いてしまえば。
「ん、ああ。俺は学校で寝ているからな」
総代だとか希代の神子だとか呼ばれている人が、そんなことで良いの
だろうか。
「だから、心配しなくていいぞ飛鳥。明け方まで可愛がってやれる」
「・・・・・そんな心配していません」
こんな調子で。
本当に。
「あ」
「ん、・・・おお」
ふと。
視線を泳がせた先、ぷかりと水面に浮かんでいた仕掛けが、ククッと
引き攣ったようにして水中に引き込まれる。
「よし、掛かったな ! 逃がすなよ、飛鳥・・・そうだ、落ち着いて」
「え、え・・・うわ・・・」
「一気に引くな。ゆっくり、だ・・・そう、それでいい」
上手いぞ、と呟きながら、ただ竿を掴んで軽く引いては流すといった
動作を必死に繰り返す僕の手に、九条さんのそれが重なる。
「く、・・・・・」
「よし、そのまま引け・・・飛鳥 ! 」
促されるまま、えいっとばかりに竿を引き上げる。
飛沫が跳ね、激しく揺れる水面から釣り上げられたのは、銀色の鱗を
纏った小さな魚。
「え、・・・・・こ、こんな・・・小さいの・・・」
「ま、こんなもんだろう」
草地に釣り上げられ、ピチピチと跳ねる魚を見下ろし、思わずぽつり
と呟けば、九条さんが苦笑混じりに屈み込んで魚を手に取った。
手の平サイズの小さな魚。
名前は知らない、けれど。
「で、どうする・・・飛鳥」
「・・・・・え」
「キャッチ・アンド・リリースという言葉がある。それに倣ってみるか
・・・・・それとも、食うか?」
「た、食べられるんですか!?」
「まあ、たいして腹の足しにはならんな・・・この大きさでは」
九条さんの手の平で身を捩る魚は、まだ元気だけれども。このままでは
きっと弱って、そして。
「に、逃がして下さい」
「良いのか?飛鳥の初めての釣果なのに」
「・・・・・どうせ、食べたりしないんだし・・・早く、川へ」
「分かった」
僕の言葉に、九条さんは頷いて。
しゃがみ込んだまま川の方に身体を向けると、魚ごと手を水に浸す。
ピシャン、と。
一度勢い良く跳ねて、そして名前も知らない小さな魚は、川底へとその
姿を消した。
「優しいな、飛鳥は」
「・・・・・そんなことはありません」
だって、今のがもし大きくて美味しい魚だったりしたら、きっと僕は
再び川に放つのを躊躇ったかもしれない。あの魚は、運が良かっただけ。
そう告げて、ふと九条さんを見遣れば。
その表情から、笑みが消えていた。
「・・・・・九条、さ・・・ん?」
どうして、そんな。
怖い顔。
「お前は、どう・・・なんだろうな」
「な、に・・・」
伸ばされた手に、肩を抱き寄せ、抱きしめてくる腕に。
抗えずに、そのまま。
「逃がすつもりも、なかったが」
「・・・・・魚、を?」
「・・・・・いや」
微かに。
苦笑めいた吐息が、耳朶をくすぐる。
「元々、そのつもりではあったんだが。だが、手にしたら・・・もう離せ
なくなってしまった」
それは。
「もう、逃がさない」
九条さんが、捕まえたのは。
「手放せない・・・・・お前を」
僕。
なのだとしたら。
「・・・・・逃げません」
そんな、こと。
「逃げたりしない、だから」
だから、このまま。
あなたの手の中で。
「捕まえていて下さい」
呼吸すら出来ずにもがいていたとしても、きっと。
幸せ、だから。
釣りは忍耐。でも、耐え忍ばないあーや(えー)。