『つれていって』



 ペロリ、と。
 目元を辿る感触に、ふわりと意識が浮上する。
「どうした?」
 掛けられる、その声に。
 甘やかな響きに、息苦しささえ感じて。
「・・・・・九条、さん・・・」
 呼んで。
 覆い被さるように覗き込んでくる端正な貌へと手を伸ばす。
 頬に指先が触れて、その温もりに。
 目の奥が、熱くなってしまうのに。
「もう泣くな」
「・・・・・え」
 泣いて。
 いたんだろうか。
「眠りながら、ポロポロ涙を零すものだから・・・」
 驚いた、と半ば吐息で囁くようにして、またゆっくりと近付いてきた
顔を、瞬きもせずに見つめてしまえば、やや困ったように。
 それでも、惑うことなく暖かな舌が、目元を拭うように舐めた。
「悦過ぎて泣かれるなら、まだしも・・・な」
「・・・・・、っ」
 そのまま、耳元。
 微かに笑いと熱を含んで告げられた言葉に、途端頬を熱くしてしまう。
 そういう意味、でなら。もう、数え切れないくらいに泣かされてきた、
けれど。だけどそれは、悲しかったり苦しかったり、そんな涙じゃない。
「酷く、苦く感じた・・・だから、もしかしたら怖い夢でも見たんじゃ
ないか・・・とね」
 聞いたことがある。悲哀や苦痛で流す涙は、とても苦いんだって。
 そんな、夢を僕は。
 見て、いた。
「もしそうなら、俺に話せばいい」
「九条さん、に?」
「すぐ誰かに話してしまえば、現実にはならないそうだ」
 現実に。
 ならないのなら、ならなくても。
「・・・・・そうだとしても・・・」
 言霊、の力だってある。
 もし僕がそれを言葉にしてしまうことで、もしそれが。
 現実になってしまったとしたら。
 もう。
「・・・・・飛鳥」
「あんな、夢・・・っ」
 たとえ夢であっても。
 あんなに、こんなに苦しくて、なのに。
 もし、それが本当に起こってしまったなら、僕は。
「どうして、・・・・・・っ」
 多分。
 泣けない。
「・・・・・無理に話せとは言わない」
 だけど、その痛みの半分でも良い。俺にも分けて欲しい。
 強く、抱きしめられる腕の中で、その言葉を聞く。
 痛み、なんて。
 僕だけで良い。僕だけで、良いんだ。
「・・・・・もしも、あなたが」
「・・・ん?」
 だけど、どうか。
 共に痛みをと願うというのなら、どうか。
「九条さんが、・・・遠くへ行く時は、僕も一緒に」
「・・・・・何だ、ハネムーンのお誘いか?」
 そんな風に茶化されて、でも僕は笑うことは出来なくて。
「連れていって下さい・・・どこでも。どこへでも、僕はあなたと共に
行くから」
 極至近距離。
 互いの吐息が触れるくらいに、近くで。
 真直ぐに見上げながらそう告げれば、笑んでいた貌が微かに強張った。
「あなたの行くところなら、どこだって僕は」
「飛鳥」
 本当に。
 どんな場所であろうと、あなたと共に行こうと思った。
 行けると。
 なのに、九条さんはどこか痛ましげに。
 だけど、愛おしげに僕の名を呼んで。
「・・・・・ここ、に」
 胸元。
 素肌に、九条さんの頭の重みが掛かる。
「俺の、居場所がある」
「っ、・・・・・」
 鼓動が。
 トクンと、跳ねる。
「帰って来れる、場所がある・・・だから」
 待っていてくれ、と。
 祈るように、請うように、その言葉は。
「・・・・・ずるい、です」
 僕を。
 動けなく、する。
「ずるい人、です・・・っ」
「・・・・・済まん」 
 謝るくらいなら、いっそ。
 ここで、刻を止めて欲しい。
「どうしようもなく、俺は我が侭で・・・ただ、お前だけが愛しい」
 昏い願いを拭い去るように、胸元に。
 首筋に、頬に。
 そして、唇に落とされるキス。
 優しく触れてくる唇に、だけど僕はそれだけじゃ足りなくて。
 頭を掻き抱くようにして、より深い繋がりを強請る。
 深く、深く繋がって、ずっと。
 離れずにいられればいい、のに。
「・・・・・いっそ、お前を」
 連れていければいいのに、なんて。
 九条さんは、口にはしない。
 口にしては、いけないと。
 そう思っていたのだと、聞いたのはずっとずっと後のこと。


 夢を見た。
 赤い、赤い夢。
 手を伸ばして、どんなに呼んでも届かない。
 じゃあな、と。
 たったひとこと、それだけを遺して。

 夢に、見ていた。
 帰ってくるから、と。
 あなたは微笑って、そう言うから。
 だから。


「・・・・・待っています、から」

 だって、ここが。
 僕自身が、あなたの。
 たったひとつ、帰る場所。





あらゆる意味で、愛の試練だったような気がします、あの話は。