『愛は元気です』



 キャンキャン、と。子犬の鳴き声が響く、放課後の校庭の片隅。
「よおーっし、アル ! 犯人追跡ー ! 」
 子犬と戯れる幼子…のようにも見えるが、しかしれっきとした高校生で
ある琴音がアルと呼ばれた子犬と遊ぶその楽しげな声を聞き、執行部室に
残っていた面々は、自然と口元を綻ばせた。
「何だか、癒される光景ですね・・・」
 伊波がふわりと微笑いながら呟くと、傍らで最後の書類に目を通し終え
紫上に手渡していた九条も立ち上がり、窓辺に立つ伊波に寄り添うように
して頷いた。
「子供は無邪気でいい」
「琴音が聞いたらむくれますよ、・・・子供だなんて言って」
 その外見が高校生らしからぬことを、それ故に子供扱いされるのを彼女
は酷く嫌がっていたから。
「何にせよ、微笑ましい風景だな」
 そっとたしなめれば、ひょいと肩を竦め話を逸らす。
 仰ぎ見た悪気の欠片もない貌に、伊波はやれやれ…というように小さく
溜息をついた。
「綾人様、本日目を通して頂きました書類は確かに」
「ん、ああ御苦労」
 表の執行部としての仕事が、取り敢えずは今日のところは片付いたこと
を告げる紫上に、九条とそして伊波がほぼ同時に振り返る。
 表の仕事上の書類とはいえ、本来なら伊波の目には触れてはならない
ものも含まれてはいたのだが、それでも。
 それをいつ約束したのか。部室内には伊波の姿があり、執務机からは
離れた窓辺に佇んで。紫上が怪訝そうに声を掛ければ、微かに困ったよう
に微笑む伊波と、その視線の先にある九条の意味に浮かべられた笑みに、
仲睦まじきは良きことかな、とばかりに納得せざるをえなかった。
 邪魔はしないようにするから、と恐縮したように伊波は言っていた。
けれど、そこに彼がいるだけで場の空気が柔らかくなるような気がする
から、それを敢えて口には出さなかったけれど、紫上にとっては有り難い
ことでもあり、ただ。
「飛鳥も御苦労だったな」
「・・・・・何もしてませんけど、僕」
「俺の我が侭で引き留めてしまったからな。退屈だったんじゃないか?」
「いいえ、真面目にお仕事している九条さんを見ているのも、楽しかった
・・・です」
「何だ、いつでも俺は何でも真面目にこなしているつもりだが」
 もしかして、お邪魔なのは自分の方ではないだろうかと、そんなことが
頭を過ったりもしたのだけれど。
「あの、・・・・・」
「ああ、そろそろ我等も帰路につくとするか」
 睦まじげに言葉を交わす2人の間に割って入る気など更々なかったが、
仕事が終わってしまえば消灯戸締まりをきちんとして部屋を出なければと
声を掛ければ、それを汲み取ってか九条はすぐに頷いた。
 帰路、といっても。伊波をこうして残らせてまで一緒に帰りたがるのは
彼の想いの深さか執着故か、だがしかし伊波は寮生で。そして、九条は
本家の屋敷へと帰るのだから、共に家路にといってもその距離も時間も、
極僅かで。
 九条の言う、我が侭なのか。
 そして、それを受け入れている伊波は、どう感じているのだろう。
「結、どうした」
「あ、っ・・・いえ、では私はこれで失礼致します」
 しばし、そんなことに思いを巡らしていたことを少し恥ずかしく思い
つつ、静かに礼をして扉を引けば。
「とつげーき!!!!」
「きゃっ ! 」
 途端。
 開かれた隙間から足元を擦り抜けていった何かと、そしてそれを追って
入って来たのは。
「琴音ちゃん、それに・・・・・」
 キャン、と一声応えるように鳴きつつ、執行部室の床の上を傍若無人に
駆けずりまわる、子犬が。
「こら、琴音。アルを建物の中に入れてはいかんと言ってあっただろう」
 一瞬呆気にとられていた九条であったが、すぐに苦笑混じりに子犬を
追う少女をたしなめる。
「ううう、ごめんね、あーや。アルがね、犯人を見付けたから、だから」
「・・・・・犯人?」
「あれ?あれれれれ?」
 しばらく室内を駆け回っていたアルであったが、ふと。やはり唖然と
して佇んでいた伊波の足元、立ち止まり。
 そして。
「ワンッ ! 」
 と一声、鳴いた。
「・・・・・あの、犯人・・・って・・・・・僕?」
「何をしたんだ、飛鳥」
「な、何って・・・僕は何も・・・っ」
 心当たりなどないものだから、それを否定して首を振れば。
「アルはね、立派なまやくそうさ犬になるの」
「・・・・・麻薬捜査犬?」
 アルと並ぶようにして伊波の前に立つ琴音に視線を落とせば。
「でもね、琴・・・まやくなんて持ってないから、これで犯人探す練習を
しようとしたんだよ、ね、アルー」
 そんなもの持っていたら大問題なのだが。
「・・・・・それは」
 琴音が手にしたものに、九条がハッとしたように手を伸ばす。
「うん、あーやのだよね」
「ああ、確かに・・・俺のハンカチだな」
 どこかに落としたと思っていたものが、まさか琴音の手にあろうとは。
「琴音は、九条さんのハンカチ届けようとしてくれたんだよね」
 伊波が横からそっと告げれば、琴音の表情がパッと明るくなる。
「そう ! 飛鳥ちゃんの言うとおり、琴ね・・・あーやに届けに来たの」
 でも何でだろう、と小首を傾げながら足元おとなしく座る子犬を見遣る。
「あーやのハンカチだから、あーやの匂いがついてるはずだから、あーや
のところに行くと思ってたのに・・・アルってば、どうして飛鳥ちゃんが
犯人だって思ったのかな。やっぱり、立派なまやくそうさ犬にはなれない
のかなあ・・・」
 項垂れてしまう琴音に、どう声を掛けて良いものか戸惑えば。
「そんなことはありませんよ、琴音ちゃん・・・アルは立派にお役目を
果たしてくれたと思います」
 まだ帰ってはいなかったのだろう、黙って遣り取りを見守っていた紫上
が、そう告げるのに。
「え、えー?そう、なのかな・・・そうなの?」
「あ、ああ・・・安心しろ、琴音。アルの鼻はなかなかよく利くぞ。だが
麻薬捜査犬になるには、訓練所に入って色々と辛い修行もせねばならん。
それに、この郷からアルがいなくなってしまうのは、お前も望むことでは
ないだろう。麻薬捜査犬にはなれなくても、アルは琴音や俺たちの仲間で
とても素晴らしい犬だ」
「・・・・・あーや」
 つられて頷いてしまった九条が、そう言ってアルを麻薬捜査犬とやらに
仕立て上げようとする琴音を説き伏せる。
「うん、アルはいつも琴と一緒がいい ! 有難う、あーや ! じゃあね、飛鳥
ちゃん、結ちゃん ! 行くぞ、アルー !! 新たなる敵に立ち向かうのだー ! 」
 その言葉を素直を受け入れたのか、晴れやかな様子で。3人に元気良く
手を振ると、まだここで遊びたそうなアルを抱えて、琴音は部室を駆け
出して行った。
 それを微笑みながら見送り、やがて肩を竦めながら九条が呟く。
「麻薬捜査犬とは、恐れ入ったな」
「犯人扱いされた僕の身にもなって下さい」
「そうですね、伊波くんは何も悪いことなどしてはいないのに」
 同じように穏やかな笑みを浮かべつつ、紫上が九条を見遣る。
「お昼休みが終わっても、伊波くんがなかなか戻らず・・・どうしたもの
かと案じておりましたが、これで納得がいきました」
「っ、・・・・・」
「結、その含みのある言い方はよせ」
「差し出がましいことを申し上げるようですが、どうか程々になさいませ
・・・ハンカチで済んで良かったものの・・・・・」
「っ、あのハンカチ・・・まさか・・・・・っ」
 2人の間に挟まれた形となった伊波の顔が、みるみる青ざめるのに。
「む、そういえば確か後始末に使・・・・・」
「あ・・・っ綾人さんのバカーーーーっ!!!!」
 ふと考え込むようにして、ぽつりと九条が漏らした言葉を遮るように。
 思わず下の名前で呼んでしまうほどに動揺が激しかったのか、青ざめて
いた顔を今度は真っ赤にして。
 半ば突き飛ばす勢いで、部室を走り去っていってしまうのに。
「まあ、また泣かせてしまいましたね・・・どうなさるおつもりですか、
綾人様」
「お前が余計なことを言うからだ、結」
「その御言葉、そのままお返しさせて頂きます。綾人様には、些か配慮が
足らぬように思われます」
「ふむ、やはり持ち帰るべきだったか」
 手の中のハンカチに視線を落とし、やがて小さく溜息をつきつつそれを
懐にしまう。
「結、戸締まりは頼んだぞ」
「承知致しました」
 確かな足取りで歩き出した九条の行き先は、知れている。
 見つけて、捕まえたら、おそらく。
「御壮健過ぎていらっしゃるのにも、困ったものです」
 呟きながら、沈みかけた日が差し込む窓を、そっと閉めた。





壮健(身体が健康で元気なこと)v←意味はイイから
侮りがたし、アルの鼻。