『追憶』



 ナミ、とその人は僕を呼んでいた。
 こちらが気恥ずかしくなるくらい甘ったるい、優しげな微笑みを
浮かべて。
 実際、優しい人であったのだろうとは思う。
 だけど、それを実感出来るほどには親しい間柄というわけでもなく、
それでもあの人は。
 僕との距離を、縮めようと目論んではいたらしい。
 総代、としか呼ばない僕に何度も名前を呼ぶようにと言い続けていた
それは、次第に懇願にも似て。
 僕は。
 それでも、総代としか呼ぶことはなかった。
 天照館の現総代と、ただの生徒。
 それ以上の関係に踏み込む気は、僕にはなかった。
「ナミは、私のことが嫌いかい?」
「いいえ、そんなことはありませんよ」
 ならば何故、と問われる。
 嫌いでは、ない。
 立派な人だとも思っている。
 ただ。
 それだけ。
「・・・重症だ」
「・・・・・は?」
「そっけないところも、可愛いと思ってしまうのだからね」
 やや自嘲気味な笑いに唇を歪ませつつ、ゆっくりと。
 踏み出された、一歩。
「・・・・・総代?」
 つられて一歩下がれば、背が壁に当たる。
 す、と伸ばされた両腕が、立ち尽くす僕を閉じ込めるように、両脇の
壁に付かれる。
 眼鏡の奥の瞳は、相変わらず薄らと笑みをたたえていて。
 また一歩、ほとんど身体を寄り添わせるような体勢に、頭の中で確か
に警告音が響いていたのに。
「切ないね、本当に」
 細められた瞳。ゆっくりと長い指が、眼鏡のフレームに掛かる。
 極自然な所作で外された眼鏡がポケットにしまわれていくのを視線の
端で捕らえながら、初めて見るレンズ越しでない瞳に。
 射抜くように見つめられて、僕は言葉を失う。
 身じろぎさえ、出来ずに。
「一体いつになったら、私の名前を呼んでくれるのかな・・・この可憐
な唇は」
「っ、・・・・・」
 翳る、視界。
 逃げなければ、と思うより先に、もう。
 唇に触れた、柔らかなもの。
 何度か角度を変えてそれはもっと、もっと深く侵食を試みようとする
のだけれど、僕は強く目を閉じて。
 唇を引き結んで。
 閉ざされた扉をノックするかのように、幾度も濡れた舌が唇を突ついて
は、嗜めるように表面を撫でて。
 そのくすぐったいような感触に、身体が震えたけれど。
 それだけ。
 これ以上、は。
「・・・・・頑な、だね」
 やがて、諦めたのかそろりと離れていく唇が、微かな溜息をついて。
 それでも僕は唇を引き結んだまま、静かに用心深く目を開ければ、まだ
極至近距離に留まったままの貌に、慌てて顔を逸らした。
「もしかして、誰かに操立てでもしているのかな」
「・・・・・」
 誰に。
 誰も、そんな。
 誰にも、僕は。
 そんな相手はいない…と、バカ正直に首を振ってみせれば、くすりと
微笑った気配がして。
「まあ、仮にそうだとしても・・・私が君を愛していることに変わりは
ないのだけどね」
 愛している、なんて。
 よくも、そんな簡単に口に出来るものだ。
 からかわれているとしか思えない。
 もしそれが本気だとしたら。
 本気、だとしても。
「・・・・・取り敢えず、タイムリミットだ。これから、執行部の方に
顔を出さねばならなくてね」
 本当に残念、と言うように肩を竦めてみせるのに。
「失礼します」
 拘束を解かれ、僕はすぐにその場から離れた。
 半ば逃げるように、ふらつく脚をどうにか動かして。
「っ、と」
 前なんて殆ど見ていなかったようなものだから、その勢いで。廊下の
突き当たりを曲がった先で、思いっきり人にぶつかってしまった。
「済まん、大丈夫か」
「っ、済みませ…んでした」
 うっかりしていたのは僕の方だというのに、その相手は律儀に謝って
くれたのだけれど。
 その時は、とにかく早くその場から離れてしまいたくて。
 こちらからの謝罪もそこそこに、僕はまた駆け出してしまっていた。
 相手の顔すら、見なかった。

「何をあんなに慌てて・・・・・おや、ここにいらしたんですか」
「ん・・・ああ、少し遅れてしまったかな」
「いえ、俺もこれから向かうところでしたから」

 ただ。
 総代と話を始めたその声に、聞き覚えはあった。
 この学園…いや、この天照郷にいるものなら、誰もがその名を、存在
を知っている。
 九条綾人。
 九条家の嫡男にして、神子候補でもあり。
 文武にも長け、容姿端麗なだけでなく、その人柄も皆を惹き付けるの
だという。
 遠くから、何度かその姿を垣間見たことはあった。
 遠い。
 とても遠い、人。



 それは、壮行の宴を翌日に控えた日の夕方。
 もう陽も落ちかけて、校舎の中にも人影はなく。
 呼び出された執行部室も、夕闇に溶け込んでしまっていたように思う。
「明日の壮行の宴の後、すぐに郷を出ることになる」
「そうですか」
「・・・それだけかい?」
「・・・・・御卒業おめでとうございます」
 送辞の言葉が欲しかったわけではないだろう。
 分かっていた、けれども。
 だからといって、他に僕に何が言えただろう。
「寂しいと、思ってはくれているのだろうか」
「・・・・・一応」
 少しは。
 それは、本当のことで。
「相変わらずだね、君は・・・変わらない」
 変わってはいない。
 僕とこの人との関係は、総代と1学生の域を出ることはない。
「もう、私は総代ではなくなるのだよ」
 だから。
「引き継ぎは済んでいる・・・・・総代と呼ばれるのは、私ではなく
九条綾人だ」
「・・・・・く、・・・」
 九条さん、と。
 思わず口にしようとして、その言葉を飲み込む。
 呼んではいけないような気がした。
 今。
 この場、では。
「彼のことも、『総代』と呼ぶのだろう」
「・・・・・さあ」
 それは。
 きっと、ない。
 確信にも似た気持ち。
「紛らわしいと思わないかい」
「いいえ」
 この人は、もうすぐ郷を去る。
 そうすれば、もう僕には。
「・・・・・ナミ」
 そう、こんな風に呼ばれることも。
 こうして、頬に触れてくることも。
「っ、総代・・・」
 触れてくる、なんて。
「彼のことは『総代』と呼ぶと良い・・・だが、私は・・・・・」
「や、っ・・・・・」
 不意に、抱きすくめられて息が詰まる。
 強く、こんなに。
 熱い腕は。
 知らない。
「は、離して・・・下さ、っ・・・・・」
「ナミ・・・」
 熱い、唇。
 熱を孕んだ手が、シャツ越しに身体を辿る。
「や、ァ・・・・・っ」
 胸元を彷徨っていた手、その指が探り当てた突起を摘むのに、途端
脚の力が抜けてしまった僕は、そのまま膝を折るようにしてその場に
崩れ落ちる。
 それを追うように、倒れてしまいそうになる身体をまるで庇うように
抱き込んで、床の上。
 のしかかる、熱い身体。
「総代・・・っ」
「違う、だろう・・・もう私は『総代』ではない・・・『総代』と君に
呼ばれるのは、彼・・・・・」
 耳元に言い聞かせるように囁く声に、言葉に。
 寄せられる唇に抗いながら、その脳裏に浮かんだ人は。
「九条、さん・・・・・っ」
 その、名は。
 今は。
「・・・・・ナミ」
「っ、・・・・・」
 呼んではいけない、はずだった。
 だって、ほら。
「そんな、声で」
 額を合わせるようにして僕を覗き込む、その瞳は。
 ゆらりと、炎を孕んで揺らめいたように見えた。
 熱くて。
 冷たい。
「呼ぶのか・・・彼を」
「ち、が・・・・・、っ」
 苦しげな。
 瞳が。
「ん、っ・・・・・う・・・・・」
 見えなくなったのは、これまでになく乱暴な所作で唇を重ねてきた
せいで。咄嗟に口を噤めなかったせいで、初めて歯列を割って舌が差し
込まれてきた。上顎をなぞられた時、背筋をゾクリと何かが駆け昇る。
 快感にも似た、それは紛れもなく恐怖。
 怯える舌を絡め取り、深く深く僕を侵食しようとしているこの人が、
その存在が恐ろしくて。
「っ、や・・・・・あ、ふ・・・・・ん、っ」
 逃げたくて、逃れたくてどんなに抗っても、覆い被さる身体はビク
ともせずに。
 ようやく唇を解放されて、ゼイゼイと喘ぐように息をつぐ間もなく、
いつの間にか寛げられていたシャツ、首筋に濡れた唇が、舌が触れる。
「い、ゃ・・・・・あ、っ」
 薄い皮膚を強く吸い上げられて、半ば溜息のような悲鳴が零れる。
「・・・・・可愛い、ナミ・・・ずっと、こうしたいと思っていたよ」
 どこか、うっとりとしたような声で。
 囁く唇が胸元に下りて、そこに。
 突起に口付けられた途端、走ったのは快感にも勝る。
 それは。
「いや、だ・・・・・、っ」
 肌を弄るのに恍惚としかけていたこの人には、不意打ちのようなもの
だったのかもしれない。
 暴れて立てた膝が腹に食い込んで、その衝撃に眉を顰めて呻く男の
身体の下から、背で這うようにして逃れる。
 たとえそれが一時しのぎに過ぎなくても、それでも。
 これ以上、この人に触れられていたくはなかった。
「・・・ナミ」
 腹を押さえつつ、ジリ…と距離を詰められる。
 すぐに立ち上がって逃げ出してしまいたかったけれど、震える脚は
言うことを聞いてくれなくて。
 腰を下ろしたまま、ずるずると後ずさる。
「逃げられはしないよ、ナミ・・・良い子だから、おいで」
 薄らと浮かべられた笑みは、いつものように優しげなものではあった
けれども、その瞳に滲むのは紛れもなく雄の情慾の色で。
 ゆるゆると首を振ってそれを拒みながら後ろに下がっていた身体が、
その背がとうとう壁に行きついてしまう。
 逃げられない、のだろうか。
「手荒な真似はしたくないんだ・・・可愛い、私のナミ」
「ち、がう・・・っ」
 貴方のもの、じゃない。
「貴方じゃ、ない・・・っ」
 手が、伸ばされる。
「貴方のものには、ならない・・・っ」
 足首に、手が掛かる。
「・・・・・九条ならば、許すのか」
「ちが、・・・・・」
 そこで九条さんの名前を出されたことに、だけど僕は違和感を感じは
しなかった。
 少なくとも、僕は。
「・・・・・いつも、見て・・・いたね」
「っ、・・・・・」
 遠くから。
 憧れのように、その姿を追っていた。
 本当に、淡い儚い感情。
 思慕なのか、それとも。
 その正体すら、定かではないのに。
「君は、彼を『総代』とは呼ばないのだろうね」
「・・・・・分かりません」
「だが、言っただろう・・・君が誰を想っていようと、私は・・・・・」
 だけど、分かっているのは。
「貴方じゃないんです」
 確か、なのは。
「それが誰なのかは分からない・・・けれど。だけど、貴方は僕にとって
・・・・・『総代』でしかない」
 眼鏡の奥の瞳が、揺れる。
 きっと、とても残酷なことを僕は言っている。
「ただ、そう呼ぶだけの・・・」
「もういい」
 それ以上は言わせない、強い口調で。
 だけど、おそらく。
 分かっている、んだろう。
「・・・・・めちゃくちゃにしてやりたいよ、君を」
 そうすることも、出来たのかもしれない。
「こんなにきっぱり拒絶されたというのにね・・・それでも君を、とても
愛おしく思う・・・この想いは、例え君であっても消せやしない」
「・・・・・総代」
「帰りなさい。私が、紳士を演じていられるうちに」
「・・・・・」
 足首を捕らえていた手が離される。
 ゆっくりと、扉を指差して。
「・・・・・失礼します」
 どうにか立ち上がれば、まだ足元がおぼつかなくて。
 それでも、この人のためにも。
 早く、この場を立ち去らねばと壁を伝うようにして扉に向かう。
「あのまま君を抱いていれば、私は君を手に入れられたのかな」
 呟く声に、振り返りはしない。
 答えすら、きっと望んではいない。
「否、・・・・・永久に君を失っていたのだろうね」
 頷くことは、出来なかった。
 ただ、無言のまま。
 ようやく辿り着いた扉に手を掛け、開いた隙間から身を滑らせる。
「・・・・・愛しているよ、ナミ」
 その言葉は。
 偽りではなかった。




「・・・・・飛鳥」
 名を呼ばれて、重い瞼を開ける。
 覗き込む瞳は、僕を映して微かに笑んだ。
「俺・・・・・」
「しばらく気をやってしまっていたな・・・大丈夫か?」
「・・・・・はい」
 頬を撫でる手に、そっと甘えるように擦り寄れば、心配げに見下ろして
いた貌が甘く溶ける。
「・・・綾人さん」
 喉から出た声は、少し掠れていて。
 それが、散々啼かされ喘がされた結果だというのは分かってはいたのだ
けれど。
「綾人さん」
 また、呼べば。
 嬉しそうに、だけど困ったように笑う。
「誘われているような気がするんだが」
 俺の都合の良い解釈だな…と苦笑しつつ呟くのに、僕はゆるりと首を
左右に振った。
「沢山、って・・・言っていましたよね」
「ああ、それは・・・・・」
 沢山抱き合いたい、って。
 九条さんの部屋のある、九条家の敷地内の離れに連れて来られて。
 部屋に入るなり、制服を脱ぐのさえもどかしく、夢中で抱き合ったのは。
「僕も・・・です」
 求めていたのは、この人ばかりじゃない。
 求められているばかりじゃない。
 分かってきた、こと。
 この人、なのだと。
「・・・・・飛鳥」
 この人が。
 僕の。
「飛鳥、・・・・・俺の・・・・・」
 唯一。
 だから。

 きっと、もう。
 あの人の夢は見ない。





止めを刺してしまったような(前総代済まぬ)!?
でも、彼は絶対諦めてません!!おー!!