『特別』



「とても可愛い子がいるんだよ」
 そう言って、眼鏡のフレームを指先で押し上げるのを、たいして
感慨もなく眺めていれば。
「何度かアタックしてはいるんだが、なかなか色良き返事は貰えず
・・・・・切ないものだね」
「あなたほどの人でも、手こずることがあるんですね」
 見目は良く、文武両道に長けた男だ。性格も、普通に付き合う分
には、何ら問題はないだろう。
 そんな完璧に近いような男の、首尾良く行っていないらしい恋模様
に、意外そうに洩らせば。
「君に言われると、どうにも・・・ね」
 ミスターパーフェクト・九条綾人くん、と。
 眼鏡の奥の目が、笑みともつかない形に細められる。
「ともかく、卒業までには・・・せめて、名前くらいは呼んで貰える
ようにしたいものだ」
「・・・・・名前、ですか」
「総代、としか呼んではくれないんだよ。どんなに名前で呼ぶように
言っても、ね。手強いけれど・・・可愛くてしょうがない」
 本当に、その相手が愛おしくて堪らないのだろう。
 普段、総代として皆に見せる表情とは別のものが、そこに在った。
「キスしても、こう唇を引き結んでね・・・お陰で、それ以上は全く
手が出せない」
 名前すら呼んで貰えないと嘆いている割には、キスは既に済ませて
いるらしい。ただ、相手はそれ以上は頑に拒んでいるということだ。
「なるほど・・・貞操観念のしっかりした女子相手では、さすがの
あなたも」
「女子、ね」
 あまり強引な手段には出られないのかと言おうとして、だが目の前
の男の意味ありげな笑みに、つい言い淀めば。
「その辺の女の子より、ずっと愛らしいよ・・・ナミは」
 どこか、含みの在る言い方。
 だが、その「ナミ」という名に、そういう名前の女生徒がこの學園
にいただろうかと、首を傾げつつ思考を巡らす。
 とはいえ、全校生徒の名を知っているという訳でもなかったから。
「まあ、・・・・・そのうち、紹介して下さい」
「そうだね・・・恋の成就のあかつきには」
 そう言って微笑った先の総代は、この春に學園を…そして天照郷を
巣立っていった。件の想い人は、終ぞ紹介されることはなく。
 とうとう前総代に靡かなかった女子が、どのような者であるのか
全く興味がないわけでもなかったが、それよりも。
 他人の恋路より、自分の。
 だから、忘れていたのだ。
 この先も、気付かずにいるかもしれなかった。


 何げない、一言だった。
「そういえば、どうしてアンタは『九条さん』なの」
「・・・・・何が」
 放課後の執行部室。
 メンバー全員が揃うまでの、しばしの雑談の時間。
 次の任務の説明について、結と簡単な打ち合わせをしていた俺の耳に、
ふと届いた伽月と飛鳥との会話。
 そういえば。
 確かに、初めてまともに言葉を交わした時から、あいつは俺のことを
「九条さん」と名前で呼んでいたな、と思う。
「アタシら、みんな『総代』って呼んでるのに、何でかなって」
「・・・・・そう呼ばなきゃならない決まりはなかったろ」
 そうだ。
 そう定められていたわけではないが、たがこの學園に在籍する生徒
たちは皆、俺を「総代」と呼ぶ。当たり前の、ように。
 その中で、飛鳥は「九条さん」と極自然に呼んでくれていた。
 それが。
 嬉しくもあった。
「そりゃ、決まりじゃないけど・・・でも、アンタ確か・・・・・」

 前の総代のことは「総代」って呼んでたのに

『総代、としか呼んでくれないんだよ』
 不意に、頭を過った声。
「だって・・・・・ややこしい、だろう」
「あー、そっか。総代ばっかりになっちゃうもんね、なるほど」
 納得したように腕を組んでは何度も頷く伽月を通り越して、俺が食い
入るように見つめてしまったのは。
「・・・・・ナミ」
「え、はい?」
 掠れた声。
 伊波、と呼んだように聞こえたんだろうか。
 怪訝そうに見つめ返す飛鳥の瞳、そこに。
 総代、として映っているのは。
「遅れて申し訳ございません、御前」
「す、済みません・・・遅くなりまして」
 一瞬凍えたような空気を断ち切るように、ガラリと勢い良く扉が
開かれる。
「あ、ああ・・・これで全員揃ったな」
 言葉どおりに申し訳なさそうにはしていない美沙紀と、文字どおり
済まなさそうに頭を下げつつ執行部室に入ってくる誠を、努めていつも
どおりに迎える。
 気を張らなければ。
 この場で、飛鳥に問い詰めてしまいそうだった、から。
「・・・・・綾人様?」
「何だ、結」
「い、いえ・・・」
 それでも、どこか様子が違って見えたのだろうか。
 やや怯えたように目を臥せる結を一瞥し、俺は揃った執行部員たちに
これからの任務について説明を始める。
 意識は、ずっと。
 ただ1人に、留めながら。


 俺の説明に結が補足事項として付け加えた報告で、この日はすぐ解散と
なった。思ったより早く終わってラッキー♪、などと浮かれた様子で伽月
が執行部室を後にするのに、飛鳥も続こうとするのを。
「飛鳥は残れ」
「え、・・・・・」
 低く、告げられた言葉に飛鳥の足が止まる。
 振り返った瞳が、どこか不安げな色をたたえているのは、俺の様子が
普段と違うのを薄々感じていたのかもしれない。
「あ、綾人様・・・」
「お前はもういい。下がれ」
「っ、そんな言い方・・・」
 知らず、口調が厳しいものになっていたんだろうと思う。
 心配そうに俺と、そして飛鳥を見遣って部屋に残っていた結に退室を命
ずる声に、飛鳥がきつい瞳を向ける。
「・・・済まん・・・今、俺には他人を気遣う余裕がない・・・・・」
 本音だ。
 頭を占めるのは、飛鳥と。
 あの男。
「お気になさらず。それでは、失礼致します」
 すっと頭を下げ、そして。
 擦れ違い様、痛ましげな瞳をそっと飛鳥に注ぎながら執行部室を出て
行く結を見送り、その扉が閉まると同時に互いの視線がぶつかり合う。
「機嫌が悪いからといって、紫上さんに当たるのはどうかと思います」
 先に言葉を発したのは、飛鳥の方で。
 俺は、しばらく視線を絡ませた後、やや俯き加減に傍らの執務机の表面
を撫でた。
「初めて、だったか?」
「・・・・・何がですか」
 不審げに問う、やや低い声すら可愛いと思う。
「ここ、で・・・お前を抱いたな」
「っ、・・・・・」
 そう、この場所で。
 想いを告げ、そのまま身体を重ねた。
「は、初めてだったかどうか・・・あなたが良く知っているでしょう!?」
 その通りだ。
 俺に組み伏せられ、貫かれた身体は本当に無垢なもので。その事実に
歓喜し、更に身体が熱くなったのを覚えている。
「・・・・・キス、は」
「え・・・」
 身体を繋げる行為は、紛れもなく俺とが初めてで、ならば。
「俺の前に、・・・・・誰とした?」
「な、にを・・・・・」
 どうしてそんなことを聞くんだ、と言いたげな瞳。
 何故。
 気付かない。
「伽月も怪訝に思っていたようだったな・・・何故、お前が俺を『総代』
と呼ばないのか」
「・・・聞いていたんですか。なら、知ってるでしょう・・・僕が、どう
答えたか」
「・・・・・ややこしい、からか」
「そうです」
 本当に。
「・・・・・それだけか」
「・・・何を仰りたいのか、僕にはよく分かりません」
 分からない、のか。
「・・・・・以前、ここで。ある人の報われない恋の話を聞いた」
 ここで、という言葉に伊波の瞳が僅かに見開かれる。
 そう、この執行部室で。
 会話を交わせる者なんて、限られている。
「その人は言うんだ・・・想い人は、なかなか名前を呼んではくれない
のだと」
「・・・・・」
 もう。
 分かっているんだろう。
「だとすると、初めから名前を呼んで貰えていた俺は、幸せ者だと言う
べきなんだろうか・・・なあ、飛鳥」
「・・・・・どうして」
「それとも、お前にとっては・・・『総代』というのは特別なのか?」
 何故そんなことを言うんだ、と。
 責める瞳が、微かに揺れる。
「・・・・・キスは、されました。合意だったわけじゃない、けれど」
「ファーストキス、か」
「・・・・・僕が望んだわけじゃない」
 許したわけでもない、と苦しげに呟くけれど。
 それでも、その唇が自分が触れる前に誰かのものになったのだと思う
と、苦いものが込み上げてくる。
「巧かったか、あの人は」
「知りません」
「ああ、唇を引き結んでいたらしいな」
「っ、そんなことまで・・・」
 ああ、聞いているとも。
 俺が唇の端を吊り上げるのに、飛鳥は怒りとも失望ともつかない表情を
する。
 泣き出しそうだ、とも思った。
 泣くのなら自分の前でだけ、とは告げたけれど、それは。
 だからといって、泣かせたいわけじゃない。
「あれを、・・・・・キスだとは思っていない」
 ポツリ、と。
 言葉が零れ落ちる。
「あの人の気持ちは、嫌ではなかったけれど・・・受け入れるつもりは
これっぽちもなかったし、流されるつもりもなかった」
 それに、と。
 泣き出しそうに見えた瞳が、強い光を帯びて。
 真直ぐに、俺を射抜く。
「あの人は、・・・僕にとって『総代』でしかない」
 ただ、それだけ。
 そう呼ぶだけの、存在。
「・・・・・あの人が聞いたら、泣くな」
 そんな、強い言葉。
「言いましたよ、僕。壮行の宴の前日に」
「っ、・・・・・」
「言っておかないと、犯されかねない状況でしたし」
「な、っ・・・・・」
 何をしようとしたんだ、あの人は。
「・・・・・そんなキッパリ拒絶されて、よく翌日にあんな晴れやかな
・・・いや、だからこそ・・・か」
 自分の気持ちに、ケリを付けたと。
 そう思って良いんだろうか。
「凄いな・・・あの人は。俺がそんなことを言われたら、しばらく寝込み
そうだ」
 いや、寝込むだけでは済まないかもしれない。
 それとも、逆に。
「言わなかったじゃないですか」
「・・・・・え」
「・・・・・九条さん、には・・・」
 あの日。
 あの時。
 俺の告白に戸惑いながらも、飛鳥は。
 俺を。
「特別だと言うのなら、あなたの方・・・です」
 俺が。
「だから、『総代』とは呼べない・・・」
「・・・・・飛鳥」
 お前にとっても、俺は。
 特別な存在であると。
「九条さん」
 ゆっくりと、距離を縮めて。
 見上げてくる瞳に映る、俺の方こそ泣いてしまいそうだ。
「・・・・・どうせ呼ぶなら、綾人の方にしないか?」
「イヤです」
「そんな即答で・・・まあ、恥ずかしいというのは分かっているんだが」
「それも、あります・・・けれど」
 微かに。
 朱に染めた目元。
「・・・・・特別だから、・・・特別な時・・・に」
 頬まで赤くなりそうだなと思ったけれど、それを確かめる間もなく。
「っ、・・・・・」
「飛鳥・・・俺の」
 抱きしめてしまえば、驚いたように息を飲んだ気配がして。
 だけど、すぐに身を任せてくる。
 すっぽりと、俺の腕に収まる。
 愛しい、カラダ。
「・・・・・あの・・・」
 もぞもぞと身を捩りながら、場所を弁えて下さい…なんて。
 そんな今更なことを言ってくれるなと思うけれど、確かにこのまま
ここでと身も心も強く訴えているのだけれど。
「行くぞ」
「え、・・・っ何処・・・・・」
 名残惜しく身体を離し、そして立ち尽くす飛鳥の腕を強く引く。
「お前の部屋もダメだな・・・俺の、部屋へ」
「く、九条さんの家・・・!?」
「そうだ、本宅とは別に敷地に離れがある・・・そこが俺の部屋だ」
 飛鳥の手を引いて駆け出しながら、告げる。
「誰にも邪魔されない場所で」
 お前と。
 沢山抱き合いたい。
 強く引き寄せて、一瞬並んだところで耳元に囁けば、掴まえた手が
微かに震えて。
「・・・・・はい」
 小さな返事、それでも確かに。
「綾人、さん・・・・・」
 届いた、から。

 特別な、名前。
 何度も、何度だって呼んで欲しい。
 数え切れないくらい、それ以上に俺は。
 この想いを、お前に注ぎ込むから。





いきなり失恋・前総代(哀れ?)。
そのうち、何食わぬ顔で現れそうですが!!