『おまじない』





 朝から、何となく。
 痛いような気がするなぁ、とは思っていたのだけれど。
 それでも、いつものように部屋まで迎えに来てくれた篠宮さん
と、食堂で朝食をとって。そして、一緒に登校する。
 手を繋ぎたいな…って、ふと思う事もあるけれど、それよりも
気恥ずかしさが勝ってしまうから、だから。
 並んで歩く、その腕。
 時折、触れ合う袖。
 それだけでも少しだけでも、嬉しくて。
 こっそり、俺はささやかな満足感に浸ってみたりする。
 そして、いつものように部活に出る篠宮さんと、校舎の前で
別れようと、して。
「・・・・・伊藤」
「はい」
「あ、いや。1限目は日本史だったな。昨日作った年表は・・・」
「ちゃんとカバンに入れました。大丈夫です」
 昨夜、篠宮さんに見てもらいながら作ったものだ。目の前で、
カバンに入れたんだし、朝も一緒に確認しているのに。
 それでも、やはり気になってしまうんだろうかと、その世話焼き
っぷりに、こっそり苦笑しつつ。
「じゃあ、・・・えと放課後、また見学に行っても良いですか?」
「ああ、待っている。・・・じゃあな、伊藤」
「はい、篠宮さん」
 今日は学生会の方も会計部の方も、お手伝いをする約束はして
いなかったから、篠宮さんの弓を引く姿を沢山見る事が出来る。
 待っている、と微笑みかけられて。
 それだけで、ドキドキしながらも、心がほんわりと暖かくなる。
 だから。
 キリキリと痛みを訴えていた、胃のことも。
 その時には、すっかり忘れてしまっていたのだ。




「・・・・・啓太、おい・・・お前ちょっと顔色良くないぞ」
 1限目は、何事もなく過ぎた。
 2限目の、生物の時間。
 グループに別れて、顕微鏡を使っての実験の最中、名簿順だから
しっかり同じグループで作業をしていた和希が、ふと手を止めて
顔を覗き込んで来るのに。
「そ、そうかな」
 そうだとは、思う。
 この教室に移動して来た時から、忘れていた胃の痛みが段々酷く
なってきていて。立っているのも、座っているのさえ辛くて、でも。
 何となく、我慢してしまっていたから。
「もしかして、体調悪い?保健室、行くか?」
「う、・・・・・でも」
「ほら、真っ青だ・・・海野先生、済みません・・・こいつ、具合
悪そうなんで、保健室連れて行きます」
 和希が俺の肩に手を添えて、海野先生に声を掛けると、周りの
みんなも心配げに「大丈夫か?」と声を掛けてくれた。それに、どう
にか笑顔を作って応えつつ。
「うん、すぐに連れてってあげて。伊藤君、ゆっくり寝てて良いよ」
「はい、有難うございます・・・あ、俺ひとりで行けるから、和希
授業受けてて」
「啓太」
 それでも、付き添って行きたそうな顔を見せるのに。
「あとでノート、見せて貰いたいし」
「・・・・・分かった。気を付けてな」
「うん、有難う・・・和希」
 和希に微笑み返し、そして海野先生にペコリと頭を下げて、俺は
ひとり保健室へと向かった。
 渡り廊下の手前、少し遠いけれど弓道場の建物の屋根が見える。
「・・・・・篠宮さん」
 会いたいな、って思ったけれど。
 今は本当なら授業を受けているはずの時間なんだし、放課後まで
待てば、ちゃんと会えるんだから、と俺は自分に言い聞かせて。
 名残惜しげに見慣れた屋根を何度も振り返りながら、辿り着いた
保健室。
「胃薬飲んで、しばらく横になっていなさい」
 手を負傷したらしい生徒に包帯を巻き終わったばかりの初老の保険
の先生に薬を貰って、俺は奥のベッドへと横になった。
 すぐに効くものではないだろうから、痛みはまだ強くて。
 俺はベッドの中で丸まるようにして、キリキリと刺すような激痛
を、やり過ごそうと目を瞑った。
 そうしたら。
 篠宮さんの優しい貌が、ふと浮かんで。
 ちょっとだけ、泣きそうになった。
「・・・篠宮さん」
 小さく、その名前を呟けば。
 ほんの少しだけ、痛いのが楽になったような気がした。


「失礼します」
 ガラリと扉が開いた音がして。
 ベッドの周りにはカーテンが引かれていたから、入ってきた人の
姿は見えなかったけれど。
 だけど。
 その、声は。
 まさか。
 会いたいと思っていたから、そう聞こえただけなのかもしれない
と、淡い期待に縋る前に打ち消そうと、して。
「ああ、どうしたね」
「済みません・・・1年の伊藤啓太が、来ているはずなんですが」
「ん、ああ・・・胃痛で来た子だな。奥で寝ているがね」
 でも。
「様子を見て来ても、宜しいでしょうか」
「構わんよ。痛み止めが効いて眠ってしまうまで、しばらく看てて
やるかね?」
「はい」
 この声は。
 間違えようもなく。
「・・・・・伊藤」
 やがて。
 忍ばせた足音が近付いて来て、そっとカーテンが開かれる。
 そこから覗いた顔は、やはり。
「篠宮、さん・・・?」
 その、人で。
 声を聞いて、顔まで見てしまったら。
 俺は。
「っ、・・・・・」
「ああ、ここにいるから」
 堪え切れずに。
 溢れさせた涙を、ベッド脇に立つ篠宮さんの手が。
 そっと、拭ってくれて。
「朝から、痛いのを我慢していたのだろう・・・少し元気がないと、
気になってはいたんだが、すぐに察してやれなくて・・・済まない」
「ち、・・・がいます・・・っ俺が、ちゃんと自分で言わなかった
から、薬も飲む機会があった、のに・・・」
「・・・・・取り敢えず、ゆっくり休め」
 泣きながらゆるゆると首を振る俺の頭を、篠宮さんは優しく撫でて。
 篠宮さんの、手。
 大きくて暖かくて。
 気持ち良い。
 大好き。
「・・・・・はい」
 コクリと頷けば、篠宮さんは柔らかく微笑んで、掛け布団を肩まで
引き上げてくれた。
 そして、布団越し。
 ちょうど、お腹の辺りを。
 労るように、そっと。
 撫でる、手。
「まだ、痛む・・・か?」
「・・・・・少し」
 さっき飲んだ薬は、なかなか効かなくて。
 まだかなり、胃は痛みを訴えていたけれど。
 だけど、優しくお腹を擦ってくれる、篠宮さんの手が。
 嬉しくて。
「・・・・・どうした」
 思わず、吐息で微笑ってしまえば。
 同じように微かに笑いながら、問い掛けられるのに。
「小さい頃、お腹が痛い時に・・・お母さんに、よくこうして撫でて
貰ってたなぁ、って・・・」
「そうだな・・・不思議と、そうして貰うと痛いのが楽になるんだ」
「はい、・・・・・魔法の手だって、思ってました」
 お母さんの手の魔法。
 そして、おまじない。
「『痛いの痛いの飛んでいけー』、だったか」
「・・・・・っ」
 それを、まさか。
 篠宮さんの口から聞くなんて、思わなくて。
「・・・・・ふふっ」
「こら、笑うな」
「だって、・・・・・あ」
「伊藤?」
 つい、笑ってしまって。
 でも、次の瞬間。
 不思議。
「・・・・・痛いの、飛んで行きました」
「・・・・・」
 呆気に取られたような篠宮さんの顔を見ていたら、また何だか笑って
しまいそうになったけど。
 でも、本当に。
 もう殆ど、痛みは感じられなくて。
「ああ、・・・薬が効いてきたんだな」
 しばらくして、ホッとしたように篠宮さんが言うのに。
「・・・篠宮さんの魔法です」
「俺、の?」
「篠宮さんの手・・・痛くなくなる、おまじないが効いたんです」
 それは。
 お母さんの優しい手の魔法に、とてもよく似ているけれど。
 だけど、それとは違うもの。
「俺の、・・・・・愛情が届いたのかな」
 そう笑って言った後で、ちょっと赤くなってたりして。
 こういうところも、大好き。
「そうですよ、ちゃんと・・・しっかり届きました。篠宮さんの、愛」
「・・・そうか」
 お母さんの愛情。
 それとは、全然違ったもの。
 篠宮さんの。
 愛。
 愛されてる。
 俺。
「・・・・・っ」
 そう思ったら。
 やっぱり、こっちまで恥ずかしくなって。
 きっと耳まで赤くなってしまったのを、隠すように布団を引き上げ
ようとすれば。
「啓太」
 呼ばれて。
 鼻の辺りまで布団を被りかけていた手を止める。
「あ、・・・・・」
 視線を向ければ、ゆっくりと。
 近付く。
 篠宮さんの。
「・・・・・おやすみ、啓太」
 唇が、額に。
 そっと、触れて。
「篠宮、さん」
 おやすみのキスをして、そのまま。
 立ち去ろうとするのに。
「ここに、いてくれるって・・・言いました」
 つい、その手を引いて。
 引き留めてしまって。
 甘えてる、のは。
 我が侭なのは、分っているけれど。
「・・・・・そうだな」
 ちょっと、困ったような顔。
 多分、部活の最中だったんだろう、弓道着のままで。
 抜け出して、俺の様子を見に来てくれて。
 そういえば、さっき傷の手当てをして貰っていた人は、弓道場で
見掛けたような気がする。もしかしたら、俺が保健室で寝てるって
篠宮さんに伝えたりしたのかな。
「・・・・・ごめんなさい。練習の続き、して来て下さい」
「・・・啓太」
「少し寝させて貰って、授業受けられるようなら出て、・・・・・
放課後になったら、元気になりましたって、伝えに行きますから」
 だから。
 でも。
 ほんの少し、だけ。
「あの、・・・お母さんみたいなの、じゃなくて・・・その」
 はっきりと言えずにいるから、篠宮さんも何なのだろうと怪訝な
顔を向けてくるのに。
 布団の中から、ようやく。
 覚悟を決めて、こっそりと。
「・・・・・キス、を」
「・・・・・ああ」
 呟けば、それはちゃんと届いていたようで。
 篠宮さんは、微笑って。
 そっと。
「・・・・・啓太に甘えられるのは嬉しい、な」
 唇に。
 強請ったとおりに、キスを落として。
 甘ったるい笑みを残して、カーテンの向こうへと静かに歩き出す
背を見送りつつ。
「それでは、失礼します。・・・伊藤を宜しくお願いします」
 先生に告げる声を聞きながら、俺は訪れた睡魔に意識を委ねつつ
ゆっくりと目を閉じた。
 唇に残った甘い温もりを、とても。
 愛おしく感じながら。


 そして、ちょうど1時間ぐらい眠って目が覚めた俺は。
 残りの授業に出るべく起き上がり、保険の先生に御礼を言って、
教室に戻ろうとして。
「・・・・・堅物かと思っておったら・・・」
「は?」
「ああ、いや・・・ま、気を付けてな」
 ドアを閉める間際、先生がポツリと呟いた言葉って。
 もしかして、篠宮さんのことだよな。
 …何だったんだろう。

 ちょっと気にはなったけれど、次の授業の始まりを告げるベルが
鳴り始めたから、俺はもう1度ペコリと頭を下げて、慌てて保健室を
後にした。

 次は、現国。
 そして、お昼は軽めに取って。
 午後からは、英語。
 その後は。

「っと、遅刻・・・っ」
 ベルが鳴り終わってしまったのに、俺は急いで走り出して。
 篠宮さんがいたら、「廊下は走るな」って窘められてしまうところ
だけれども。
 心の中で、済みません…と謝って。
 教室へと、俺は駆け出していた。

 放課後が待ち遠しいけれど。
 俺、ちゃんと授業は真剣に受けてますから。
 …ね、篠宮さん。






「痛いの痛いの飛んで行けー」を、どんな顔で
言ったのやら・・・篠宮(笑)。
効果は似ていても、母親の愛とは違うアレです(何)
・・・もっと、ナニです(だから何)v
そして、やはり保険医に筒抜けだった模様(公認?)v