再生の前日

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 「うゎ!」
 学食の床が少し濡れていたことに気付いたのは、バランスを崩して仰向けに倒れそうになった瞬間。
 昼ご飯を食べ終わって、和希と一緒に食堂の外に出ようとした時だった。
「伊藤!」
 後ろからの聞き慣れた声に、両脇を抱えられるようにして支えられる。
 何とか転ばずに済んだ。
「大丈夫か?」
 のぞき込んできたのは、やっぱり篠宮さんだった。
「は……はい。すみません」  
 力なく笑った俺を見て、篠宮さんは安心したように頷くと、腕に力を込めて、俺を立ち上がらせてくれた。
「ありがとうございます」
 足下に気をつけながら篠宮さんの方を振り返る。
「気をつけろ」
 篠宮さんは目を細めて、優しい顔で笑った。
 いつもは生真面目で厳しい顔をしている人だけど、こうして笑う顔はとても優しい。
 俺が一番好きな、篠宮さんの顔。
「啓太、また転んだのか?大丈夫か?」
 先に行きかけていた和希が戻ってきた。
「転んでないよ。転びかけただけだ」
「また?」
 篠宮さんの顔が厳しくなる。
「そうなんですよ、篠宮さん。こいつ今朝から三回くらい転んで……」
「違う!転んだのは二回で、一回はさっきみたいに転びかけただけだって」
「じゃあ今ので四回目か?」
 ……しまった。
「どこか具合でも悪いのか?」
 篠宮さんが俺の肩に手を置いて、顔をのぞき込んでくる。
「だ、大丈夫です。ちょっと考え事してたから」
「考え事?悩みならいつでも俺が聞くぞ」
 やっぱり、そう言ってくれると思った。
 篠宮さんは面倒見のいい人だから。それでなくても俺はきっと篠宮さんに、一番色々やって貰っている。
 俺が手間の掛かるやつだからじゃなくて (たぶん)、その……、俺と篠宮さんが恋人……同士だからだ。
「えっと、その、悩みなんかじゃなくて……」
 篠宮さんとまともに目が合ってしまった。
 いつも通りの、優しくて頼りがいのありそうな、落ち着いた目。
「ホントに、ちょっとだけ考え事をしていただけですから」
「そうか?」
 いぶかしげな顔をしながらも、篠宮さんは俺の肩から手を離した。
「なにかあったら、一番に俺に言うんだぞ」
「もちろんです」
 それは絶対だ。
 きっと何かあったら、俺はちゃんと篠宮さんに言うと思う。黙っていたり、隠し事をしたりしたら、この人はきっと余計に心配するから。
「ちゃんと言いますから。けど今は本当にそう言うんじゃないんです」
 俺がはっきり言うと、篠宮さんはほっとしたように、また笑ってくれた。
「そうか。ならいいんだ」
 そう言うと俺の頭を、大きな手で撫でてくれた。
「あの……篠宮さん」
 いっそここで、あの事を言ってしまおうか?
「なんだ?」
「えーと」
 どう切り出したらいいんだろう。
 そうだ、とりあえず普通の話から……。
「今日も弓道場に行っていいですか?練習日じゃないけど」
 学園MVP戦の後、俺は弓道部に入った。
 篠宮さんがいるからっていうのもあるけど、弓道自体もやってみたかったからだ。
 弓を引く篠宮さんは、本当に格好いい。あんな風に俺も弓を引けたらなと思ったから。……やっぱり篠宮さんが弓をやっているから、入ったみたいだ。
「もちろん。練習日以外に来てくれるのは大歓迎だ。待っているぞ」
「はいっ」
「じゃあ俺はこれから、学生会室に行かないといけないから」
 そう言って俺の頭から手を離す。
「あっ」
 篠宮さんは足早に食堂を出て行ってしまった。
 ……あのこと……言いそびれたな。



 俺が弓道着に着替えて、弓道場に入っていくと、篠宮さんはもう弓を引いていた。
 篠宮さんが弓を引く姿は、本当に格好いい。
 力強くて堂々としていて、すごく落ち着いた感じだ。
 いつも落ち着いている篠宮さんだけど、弓を引いている時は、いつも以上に大人っぽくて静かで強く見える。
 今日もそう。いつもと変わらない、強くて格好いい篠宮さんだ。
 弓が的に当たる小気味いい音が聞こえた。
 篠宮さんから的の方に目を移す。それが悪かった。
「わっ!」
 何もないところで、けつまずいた。
 我ながらなんとも情けない。今日はこれで七回目だ(昼に篠宮さんに助けられてから今までに、二回転んだ……じつは)。
「伊藤!」
 弓と矢を床に置いて、篠宮さんが駆け寄ってくる。
 ……さすがに恥ずかしい。
 このまま死んだふりをしていたい。
 けどさすがに死んだふりができるはずもなく(当たり前。それにそんなことをしたら、篠宮さんは余計に心配する)、俺はあっという間に篠宮さんに抱え起こされた。
「大丈夫か?怪我はないか?」
 さっき弓を引いてた時と違って、篠宮さんは慌てふためいている。
「大丈夫です。ちょっと膝をぶつけただけで、全然平気です」
 平気だと言うところを見せたくて、俺は両腕を開いて、上下に動かして見せた。
「足もちゃんと動きますから」
 出来るだけ元気に言ってみた。
「そうか」
 それで篠宮さんはやっと安心したみたいだ。
 俺が転んだだけで、こんなに心配してくれる篠宮さん。
 落ち着いて見えていたけど、きっと本当はそうじゃないような気がする。
「篠宮さんっ」
 改めて篠宮さんに向き直った。
「なんだ?」
「あの……お願いがあるんです」
「珍しいな。俺に出来ることか?」
 篠宮さんの優しい言葉に頷くと、俺は思いきって口を開いた。
「今日の夜は、一晩中篠宮さんの側にいさせて下さい」
「伊藤?」
 篠宮さんが不思議そうな顔をしている。
 でも俺は絶対ひかない。
「今日俺、篠宮さんの側にいたいです。いえ、いなくちゃいけないような気がするんです」
 ちょっと驚いたような顔をしてから、篠宮さんは辛そうに眉を寄せた。
「伊藤……」
「て、点呼とか、消灯時間とかあるのは分かってます。でも俺は……」
 言いかけた俺を、篠宮さんは突然抱きしめた。
「篠宮さん?」
「……ありがとうな。伊藤」
 抱きしめる腕がきつくなる。
「俺のことを、心配していてくれたんだな。それに弟の……、柾司のことも」
「あっ、当たり前です」
 だって今日、正確に言えば今晩の0時過ぎから、柾司君の心臓移植手術が始まるんだから。
 

 柾司君の手術の日を篠宮さんからおしえて貰った時から、俺はずっと考えていた。
 心配しながら手術の結果を待つ篠宮さんに、俺は何をしてあげられるかなって。
 結局思いついたのは「手術が終わるまでそばにいる」って言う事だけ。
 側にいても何も出来ないかも知れないけど、俺はそうしたかった。
 篠宮さんが心配……と言うよりも、こんな大変な夜に、篠宮さんを一人にしたくなかったんだ。
「伊藤が今日良く転んだのは、柾司の手術の事を心配して気が散ったからなんだな」
 俺たちは弓道場の床に向かい合って座った。
 篠宮さんはちゃんと正座をしているけど、俺は転んだこともあって(ついでに苦手だから)、膝を抱えるようにして座っている。
「ははは……そんなとこ、です」
 そう、朝からずっと考えていた。
 どうやって「一緒にいさせて下さい」って言おうかとか、でも俺がいても仕方がないかもとか、真面目な篠宮さんに「明日も授業があるから駄目だ」って言われるかも知れないとか、色々考えて……。
 考えすぎて、ぼーっとしてしまって、何度も転んだ……なんて格好悪いから認めたくないけど、その通りだ。
「う……俺、なんだか格好悪いですね」
「そんなことはない」
 篠宮さんが俺の手を握りしめた。
「俺たち兄弟の事をこんなに心配していてくれて……。俺は感謝の言葉もない」
 握りしめた手の上に顔を伏せるように、篠宮さんは頭を下げた。
「そっ、そんなお礼なんか言わないで下さい。ホントに、ホントに、俺が勝手に心配しているだけなんですから。心配してるだけで、全然役に立たないし」
「それは違うぞ」
 篠宮さんは顔を上げると、眩しそうに微笑んだ。
「伊藤に出会ってから、全部いい方向に進んでいる。伊藤がいたからMVP戦が行われた。伊藤のおかげで俺たちは勝てて、理事長に柾司の手術を願い出ることが出来た。伊藤がこんな風に柾司の心配をしてくれていたら、手術も成功するような気がする」
 だったらどんなに嬉しいだろう。俺の運が柾司君の所に飛んでいって、手術が成功したらと本気で思う。
「それに俺も……」
 篠宮さんが俺の手を、少しだけ強く握った。
「篠宮さん?」
「伊藤を好きになったから、伊藤が俺を好きになってくれたから、俺はここにこうしていられる。もしそうでなかったら、俺は何もかも……弓も、医者になる夢も、BL学園の学生であることも、全てを放り出して、柾司の側について、アメリカに行っていたと思う」
「そんな、篠宮さん!」
 慌てふためく俺の手を、もう一度強く握ってから、篠宮さんは続けた。
「伊藤がこうして俺の側についていてくれるから、柾司の事がどんなに心配でも、離れたこの場所で耐えられる。俺自身の日常を生きられる」
 もう一度、篠宮さんは握った手の上に顔を伏せた。
「伊藤がいてくれる。それだけで俺は強くなれるような気がする」
「……」
「ありがとう……啓太」
 俺はもう何も言えなかった。



 その夜、俺はずっと篠宮さんの側にいた。
 側にいて、やっぱり俺は何も出来なくて、ただ篠宮さんが話す、柾司君や広島の家族のことを聞いていた。
 俺も妹の事とか両親の事とか、あまり役に立たない話をして。
 ずっとそうして俺は篠宮さんの側にいた。
朝になって、柾司君の手術成功の連絡が入ってくるまで……。
 
 
END 


色気のない創作でごめんなさい(いきなりあやまる)。まったくエッチなシーンが
ありません(笑)。物足りない篠啓かもしれませんが、どうぞお納め下さい。
キリ番申告、ありがとうございました(^^)。


聖サマ宅三万打のキリリクとして頂戴しましたv
篠宮ルートの啓太は、ほんとにイイコだったよなあ…
と、思い起こしながら幸せな気持ちになれるお話なの
です・・・ッvステキSSを有難うございましたvvvvv