特別な、その一日



「兄上、私は今から少し出掛けてきます」
昼餉を食べ終え、後片付けを済ませてからしばらくして、相も変わらぬ無表情のまま、涼浬が言った。
見ると、何やらいつものものとは違う着物を身に着けていて、帯も明るい。
「涼浬、一体どこへ行くんだ?まさかお前……」
妹をこれでもかというくらい溺愛している兄、奈涸は、いつになくめかしこんでいる彼女がどこかの馬の骨と会うのではないかと怪しんでいるようだった。
いや、何処かの馬の骨と会うほうがまだ、大量にいる見知った顔の危険因子と会われるよりはマシと言うものだろうか。
「兄上には関係ないでしょう」
冷たい目であっさりと一刀両断されてしまっても、奈涸は諦めない。
「そうはいかん。お前に悪い虫でもついたら俺は…」
悪い虫というのは勿論、自分の仲間たちのことである。
悪い放浪の剣士とか、悪い天狗とか、更に悪い元新撰組の男とか。
目の前の妹が誰を見ているのか知っていて、そんな奴らを相手にするわけがないと分かっていても、父親的感情で彼女を見ている兄としては、非常に心配なのだった。
「……小鈴さんたちと茶屋へ行くだけです」
兄の必死の形相に同情したのか、溜息をついた妹は、会う人物と目的地とを仕方なさそうに告げる。
その言葉にあからさまに安堵した様子の奈涸を見つめながら、この人は本当に飛水の里一の忍者だったのだろうかと疑問に思ってしまう涼浬だった。
「そうか。……分かった、気を付けてな」
「はい。兄上も、あまり無茶し過ぎないようにして下さいね」
「え?」
「いえ……こちらのことです。それでは、行って参ります」
にっこりと微笑んだ涼浬は、謎の言葉だけを残して、足音もなく如月骨董品店を後にした。

妹が出て行ってからしばらくして。
自分が仕入れてきた品物をぼんやりと眺めていた奈涸のところへ、予想外にも一人の客が訪れた。
「こんにちはー」
漆黒の髪に、漆黒の瞳。端麗なその容貌と、男としては華奢な身体。
現れたのは見間違えるはずもない、緋勇龍斗だった。
意表をつかれて内心では少し驚いていた奈涸だったが、顔には出さないでにこりと微笑む。
「龍斗……いらっしゃい。一人なんて珍しいな。どうしたんだい?」
「別に、何となく来てみただけ。邪魔だったら帰るけど…」
「そんなことはない。今お茶でも入れるから、上がってくれ」
「店はいいのか?」
「構わないよ。どうせ暇を持て余していたところだったんだ」
「そう……じゃ、遠慮なく」
元々遠慮する気などはなかった龍斗は、奥へと消えて行った奈涸の後を追って部屋へと上がった。
奈涸が綺麗好きなのか、それとも涼浬が綺麗好きなのか、はたまたその両方が綺麗好きなのか。
きちんと整えられた室内は、いつ見ても生活感がなく。
縁側へと続く開け放たれた扉の向こうから、この時期にしては涼やかな風が舞い込んで来る。
既に定位置となりつつある座布団の上に腰を下ろして、龍斗は何をするでもなくぼんやりと、奈涸の入れてくるお茶を待っていた。
忍者の兄妹の住むこの家の居間には、何故か座布団が三枚敷いてあって。
家族の数を数えれば一枚余分なのだけれども、もう一枚は、頻繁にやって来る緋勇龍斗のために、片付けられることもなくいつもそこに置いてあるのだった。
「お待たせ。お茶が入ったよ」
「うん、有り難う」
「ああ、熱いから気を付けて」
猫舌な龍斗は、そう言われてとりあえず、一緒に出てきたお茶菓子に手を付ける。
するとすかさず、奈涸が注釈をつけてくれた。
「それは昨日、涼浬が買って来てくれた物なんだ。口に合うといいが…」
「俺、ここのお饅頭すごく好きなんだよ」
「そうか、なら良かった」
穏やかに微笑んだ奈涸は、いつもは涼浬の位置であるところの龍斗の隣に陣取って、饅頭を食べている彼を見やった。
こうしてただ静かに、彼を見つめている時間があるのはとても嬉しいことで。
この幸福がいつまでも続けばいいと、そう思う。
「何、奈涸は食べないの?」
「俺は甘いものが得意じゃなくてね」
「ふーん。じゃあ何で饅頭があるんだよ」
聞かれるまでもないことだと、奈涸は思った。
茶菓子がなくなると必ず、どちらかが新しい何かを買って来るのだけれども。
それを選んでいる時に思い出されるのは、最早今更言うまでもなく絶対に、目の前にある彼の顔で。
兄のこととか妹のこととかはそっちのけで、龍斗の好みそうなものを迷いなく選んでくる、どうしようもないほど似た者兄妹なのだった。
薄く微笑んで、奈涸は言う。
「まだたくさんあるから、好きなだけ食べるといい」
無邪気に笑った龍斗の表情は、思わず押し倒してしまいたいほど、可愛かった。
大人びているようでいて、けれど時々子供のように無邪気になるこの青年は、見ていて飽きることがない。
いや、むしろそれが、どこか危なっかしいと言えなくもなくて、目を離せないというのが正しいのだろうが。
とにかくこの青年に、自分が夢中であるということだけが事実で。
その笑顔に引き寄せられるように、奈涸はその華奢な肩を抱き寄せた。
今日は、いつも邪魔をしてくる妹がいない。
何をするのかと訝しげに見つめてくる漆黒を無視し、饅頭を避けてそのまま口付けると、その口唇はやはりとても甘い、味がした。
すると唐突に、抱き寄せてきた奈涸を押し返すこともなく、龍斗が言う。
「なぁ奈涸……お宝と涼浬と俺と、どれが一番好き?」
にっこりと微笑む龍斗の漆黒の瞳は、明らかに面白がって揺れていた。
饅頭を食べるのを邪魔された腹いせかもしれなかったが、奈涸にとってみれば、まさに究極の三択だった。
お宝はこの際置いておくとして、残り二つのうちどちらを選んだら良いのかが全く分からない。
涼浬は妹で、誰よりも大切で、絶対に失くしたくないもので。
龍斗もまた、それとは違った意味で大切で、失いたくないものだから。
けれども今、この状況を考えてみるにつけ、最近はあまり使われることのなくなった奈涸の優秀な頭脳が弾き出した返さなければならない解答は、こちらだった。
「勿論、君に決まっているだろう」
言って、更に口付けようとしたところへ、龍斗のキツイ一言が降ってくる。
「ふーん……後で涼浬に言いつけてやるかな」
「ま、待ってくれ、それは少し…」
本気で動揺している奈涸が可笑しくて、龍斗は思わず吹き出してしまった。
こんなふざけた質問に真面目に答えてくる奈涸も奈涸だが。
問い掛ける龍斗のほうが、余程性質が悪かった。
「嘘だよ」
にこりと微笑んだ龍斗は、今までに見たことがないくらい、綺麗で。
慌てていた奈涸がそれに見惚れて一瞬だけ動きを止めたところへ、龍斗は、めったにすることのない自分からの口付けを、彼の口唇に落としたのだった。
驚いて、硬直しているその様子がまた可笑しくて。
龍斗は、笑った。
「今日は、お前の誕生日だろう?」
「あ、あぁ、そう言えばそうか。……君が覚えていてくれたなんて、光栄だな」
「まぁ、一応ね」
「有り難う…」
「それで、ここに来る途中涼浬に会ったけど……今日は小鈴たちと一緒に龍泉寺に泊まるから、戻らないと言ってた」
「涼浬が?おかしいな、出て行く時はそんなこと一言も…」
「兄上への誕生祝い、らしいよ」
妹から兄への誕生祝いは、時間。
愛しい人と二人きりで過ごす、時間だ。
「涼浬が…」
感激のあまり、思わず涙が出そうになってしまったのを堪えて、奈涸は龍斗を見る。
それを分かっていて、ここに来たということは、つまり。
………そういうことだ。
「じゃあ今日は、君はずっと俺の腕の中に居てくれるのかな?」
既に腕の中に居ることは居るが、それだけでは足りるはずもない。
いつも仲間たちの中心にいて、普段はその取り巻きのお陰で近付くことさえ出来ぬ彼を、独占できる最大のチャンス。逃すわけにはいかなかった。
表面上は無表情のまま、心の中だけで意気込んでいる奈涸とは反対に、妙に冷静な龍斗は、
「別にいいけど、饅頭食べてお茶飲んで、それからな」
どうやら奈涸よりも饅頭とお茶のほうが大切らしかった。

けれど、それでも。
とにかく目の前に居る漆黒に、自分が夢中であるということは事実で。
自分の為に、彼がこうしてここに来て、大人しくされるがままに抱き寄せられているのもまた、事実だった。

この嬉しい現実が、今日一日だけではなくて。
この先も、ずっとずっと。
続いていけばいいと、思った。
勿論、妹がいる限り……そして龍斗が龍斗である限り、それは有り得ないことだと知っていたのだけれども。
吹いてくる風が、心地よく、二人の横をすり抜けていった。





くさかみなみ様宅にて、キリ番を踏ませて頂いた際のリクエスト
奈涸主SSを頂戴致しましたvvv奈涸の御誕生日に合わせて下さった
とのコト・・・あああああ何よりのお祝いなのです・・・ッ!!!!
凉浬ちゃんの心遣いに感謝しつつ、残さず食うのだ奈涸さん(ヲイ)vvv
はー・・・報われてます、うっとりです・・・ッ!!
みなみ様、本当に有り難うございました(愛連打)vvvvv