『忍ブ戀』
あなたが、好きです。
笑顔も、怒った顔も。
泣き顔も、全部。
愛おしくて。
抱き締めたい。
初めての『恋』は。
あれが、そう呼べるものだとしたら、多分。
まだ、幼い少女の頃。
ふたつ上の、優しい兄。
名を呼ばれて、頭を撫でられると、とても嬉しかった。
だけどそれは、血の繋がった肉親に対する愛情の一端で。
それ以上でもそれ以下でもないことを、私は知っている。
そして。
今、私にはとても大切な人がいる。
とても、優しくて暖かな。
綺麗な、人。
強くて、そして。
弱い、人。
笑いかけられると、暖かくなる心。
だけど、見ていると苦しくて。
これは、何?
今までに、知り得なかった感情。
戸惑いと、歓喜と。
そして。
「・・・凉浬?」
「・・・・・ッあ・・・・こんにちは・・・・」
どれ位の間、ぼんやりとしていたのだろう。
ふと。
声が。
柔らかい、あの人の。
「こんにちは。・・・あ、それ・・・・」
笑顔が。
胸を。
「え、・・・ああ、これは・・・」
彼が視線を向けた先。
私が手に持っていた、小さな布の。
「お手玉・・・・懐かしいね」
そう。
買い取った品を整理していた時に、見つけたそれは。
幼い日を思い起こさせて。
ああ、だから。
あんな昔のことに、思いを巡らせていたのだ。
「幼少時の修行の一環として、許された遊びのひとつでしたので」
「へぇ、そうなんだ」
興味深そうに、手の中のそれを眺めていた視線が。
ふわりと、上がって。
「凉浬の小さい頃かー・・・可愛かったんだろうね」
「・・・・・ッい、え・・・」
深く澄んだ瞳に。
見つめられて。
途端に跳ね上がる心臓を。
動揺を、あからさまに顔に出さずに済んだのは、日頃の鍛練の
賜物であったのか。
「奈涸が、羨ましいな」
その、名を。
口にする時。
彼の瞳が、微かに揺れるのを。
私は。
知って、いる。
「・・・・・兄は、じきに戻ります」
「そう」
そっけないと感じる、その返事にも。
その奥にあるものを。
私は知っている、から。
「奥でお待ちになられますか?」
「ん・・・そうだな」
「すぐに御茶をお持ちします」
「ああ、いいよ俺のことは。御店番、してて」
その笑顔の。
言葉の、ひとつひとつに。
どうしようもなく、私は。
「・・・はい」
だけど、私は。
慣れた様子で、奥に上がっていく彼の背を。
ただ。
見ていることしか、出来ずに。
手の中の、小さな玉を。
ぎゅっと、握りしめた。
彼の待人が戻ったのは。
それから、半刻の後。
「店番、御苦労だった凉浬」
「お帰りなさい、兄上・・・・・龍斗さんが、奥の間で」
「あァ」
そのまま、彼の待つ部屋へと向かおうとして。
「・・・埃だらけだな。済まぬ・・・店は閉めて良いから、暫し
彼の相手をしてやっていてくれ」
「・・・はい。御茶もお持ちした方が宜しいですね」
「あァ、頼む」
足早に風呂場へと向かう背を見送り。
言われた通りに店じまいをして、御茶の用意をする。
彼が好んで飲む茶は、既に心得ているから。
急須に葉を入れ、熱湯を注ぐ。
そして、湯飲みを2つ、盆に載せて。
奥の間へと。
心なしか、急ぎ足で。
「・・・龍斗さん、兄が戻りましたので・・・・・」
開け放したままの襖から、内を覗いてみれば。
「・・・・・龍斗、さん・・・・?」
そこには。
待ちくたびれたのであろうか。
座布団を枕にして。
眠る、彼の姿が。
「・・・・・」
音を立てぬように盆を角に置き、そろりと近付いて。
「・・・・・風邪を、ひかれますよ・・・・」
そっと、声をかけても。
よく眠っているようで、反応はなく。
薄紅の唇が、微かに開いて。
その、彩に。
どうしようも、なく。
「・・・・・・・ん」
掠めるように。
ほんの、一瞬だけ。
触れた、吐息と。
「・・・・・・・ッ」
不意に。
背後に感じた気配に、振り返れば。
「・・・・・兄、上・・・・・」
はたして、そこには。
濡れた髪を乾かし切らぬままに。
浴衣を羽織った、兄が立っていた。
「・・・・・」
見られて、いた。
それは、確信。
直前まで、気配は完全に断たれていて。
不意打ちの、それは。
私への。
「・・・眠って、おられます・・・・」
す、と身を引き。
そして、畳の上に臥した彼を返り見れば。
「あ、・・・・」
ゆっくりと。
花開くように。
長い睫毛が震え、その下から。
宝玉を思わせる、瞳が。
「・・・・・奈涸」
まだ、完全に覚醒していない様子で。
それでも。
すぐに、その名を呼んで。
「・・・・・待たせたね」
そして、
それに応えて。
傍らに歩み寄る、兄を。
半ば、呆然と見遣り。
「凉浬」
声に。
ハッと、我に返り。
「・・・はい」
「お前は、どうする」
何を。
聞かれているのか。
何を。
問うているのか。
「・・・・・私、は・・・・」
彼を抱き起こし。
その腕に収めたまま。
肩ごしに向けられた目は。
それは、紛れもなく。
「・・・・・私、には」
望むものを手にした、覇者の。
揺るがない、自信に満ちた。
「・・・・・出来、ません・・・・・」
彼を。
奪う、ことも。
この手に、抱き締めることも。
彼を。
抱くことは、私には出来ない。
それでも。
「だからといって、慢心なさいますな・・・兄上」
変わらない。
何も。
この、心は。
何ものにも、変えることなど、出来はしない。
「その御覚悟、見届けさせて頂きます」
ならば。
これまでのように。
見守り、続ける。
手は、届かなくても。
護りたいと、強く願う心を。
それだけは。
「心しておこう」
ふ、と笑んだその貌は。
『兄』としての優しさの内に。
揺るぎない、ものを。
それは、おそらく。
同じもの。
私も、そして兄にも。
互いを大切に思いながらも、決して譲れないものがある。
「・・・・・奈涸、凉浬と何を話して・・・」
まだ、ぼんやりと半覚醒のままで。
抱く腕に、無防備に身を委ねる人を。
「君の寝顔が可愛いと、ね」
「な、んだよ・・・それッ」
本当に、可愛らしかったのだと。
彼が聞けば、更に頬を赤く染めることだろうと思いながら。
ふたりの笑い声が、いつしか。
甘い、吐息に変わる。
それを背に。
私は、そっと襖を閉めた。
あの人が。
笑顔を絶やさずに、いられるのなら。
私は、それを見守りながら。
きっと、微笑うのだろう。
心が紅い涙を流していても。
彼の為に。
私は、微笑むのだろう。