『もう少し、あと少し』



 逃げ道なんて。
 何処にも。



 いつものように。
 霜葉は独り山に入り、鍛練場へと足を向ける。
 この時間ならば、あの煩い子供もおるまい、と。
 見当をつけて。
「・・・む」
 日暮れと共に村を出たから。
 山中に在る、この場所に辿り着く頃には、すっかり
日も落ちて。
 月明りだけが頼りの、闇の中。
 それでも。
 そこ、だけが。
「こんばんは、霜葉」
「お前、か」
 さすがに、あの子供は居なかったけれども。
 太い切り株に腰を下ろして。
 頬杖をつきながら、こちらを見遣っているのは。
「こんな時間に何をしている」
「霜葉、こそ」
 クスリと微笑って。
 よッ、と跳ねるように立ち上がり、そのまま。
 真直ぐに歩み寄ってくるのに。
「・・・・・それ以上は」
「近寄るな、って?」
 それでも。
 ほんの数歩の、距離。
 月光の元。
 青白く浮かび上がる貌は。
 陽の元で見るよりも、数段。
「そうだ・・・前にも、言ったな」
「・・・・・刀の呪いか」
 呟きに。
 封の鎖が、微かに軋む。
 夜は、魔の力が強くなるから。
 背の、妖刀も。
 一層、貪欲に。
 血を。
 目の前の人間の。
 暖かい。
 生き血を。
「・・・・・そんなに、欲しいの?」
「・・・・・ッ」
 聞こえるはずのない、声に。
 応える、ように。
 うっすらと、笑み。
 ペロリと、紅い舌で唇を舐める。
 それは。
 身震いがする程に。
「・・・・・ねぇ?」
「・・・・・」
 震えている、のは。
 背の、村正の方だったのか。
 それは。
 目の前の美しい生き物に対する。
 情動と
 畏怖と。
「・・・・・村正、には・・・・・やらぬ」
 呟いた声は。
 何処か、掠れていて。
 何を。
 それは、いったい。
 どういう、意味を含んでいるのか。
 霜葉自身、口にしてから。
 戸惑いを、覚えて。
「・・・・・そうだね」
 それでも、彼は。
 得心したように、頷いて。
 一歩。
「・・・・・ッ近寄るなと・・・」
「霜葉、に」
 また、一歩。
「・・・・・た、つ・・・」
「近付きたいよ」
 もう、あと一歩。
 踏み出せば。
 互いの体温さえ、感じられそうな。
「村正には、あげない」
 手を伸ばせば。
 容易く。
「・・・・・やめ、ろ」
 触れる。
 距離が。
「触わるな・・・ッ」
「・・・・・ッあ」
 耐えられなくて。
 避けるように、手を振りかざせば。
 それに一瞬、驚いたように後ずさった龍斗の身体が。
「・・・・・龍ッ」
 礫を、踏んで。
 グラリと傾きかける、その。
 肢体を。
 咄嗟に。
「・・・・・ッ」
 捕まえようと、手を。
 伸ばそうとして。
 瞬間。
 それを、阻むように鳴る刀の。
 呪詛に。
「い、ッた・・・」
 身体は。
 動かなくて。
 村正が発した音に、一瞬気を取られた龍斗は、そのまま。
 受け身を取り損ねて。
 不自然な体勢で、倒れたものだから。
「・・・・・ッヤバ」
「ど、うした・・・ッ」
 座り込んだまま、足首を押さえて顔を顰めるのに。
 弾かれたように跪き、様子を伺えば。
「・・・・・捻ったようだな」
 状況から見ると、おそらく見立ては正しく。
 まだ、腫れこそないものの、龍斗の貌からすると、あまり
軽い症状とも思えなかったものの。
「・・・・・ッそんな顔、しないで」
 不意に。
 頬に暖かいものを感じて。
 龍斗の。
 手の温もりが。
 触れている、ただそれだけなのに。
 奇妙な。
 安堵。
「泣きたいのは、こっちなんだから」
 その言葉に。
 自分が、どのような表情をしていたのか。
 彼の言うように、本当に泣きそうな顔だったのだとすれば。
 それ、は。
「済まん、俺が・・・・・」
「霜葉のせいじゃないよ・・・俺が」
「いや、龍は悪くない、俺が」
「違うって、俺が・・・・・・・・・」
 顔を見合わせて。
 どうにも。
 このままでは、埒があきそうにないことに、互いに気付いて。
 何となく気まずげに、視線を逸らしてしまった、霜葉が。
「・・・・・責任は、取る」
 うっかり聞き逃してしまいそうな程の、小声に。
 それを確かめようと、身体を起こせば。
「・・・・・ッひ、ゃ」
「暴れるな」
 視界が。
 揺れて。
「霜、葉」
 急に高くなる視点。
 背と膝裏に回された腕に。
 彼に。
 抱き上げられているのだと、知って。
「だ、いじょうぶだって・・・ッこんな」
 突然のことに、思わず頬を染めて。
 霜葉を仰げば。
「・・・・・」
 何処か。
 驚いたような。
 困ったような。
 何とも言えない視線と、ぶつかって。
「・・・・・霜葉?」
「・・・・・随分、と」
 軽いな、と。
 半ば呆然としたように。
 漏らされる、声。
「そ、かな・・・」
 戸惑ったように、小首を傾げる様を見遣り。
 そのまま。
 目が。
 彼から、離れない。
 細身とは言え、霜葉よりは小柄ではあるけれども、そこそこ
身の丈もあり、しなやかな身体に無駄というものを感じさせぬ
ほど、綺麗についた筋肉も。
 決して脆弱とは思えない。
 なのに。
 この、羽の生えたような軽さは。
 何だ。
「・・・・・ッ!?」
 容易く、抱き寄せて。
 自分を見つめる、その瞳から。
 隠れる、ように。
 白い首筋に顔を埋め、その滑らかな肌に。
 唇を、押し当てれば。
 一瞬、息を飲む気配がしたけれども。
 それでも。
 手放せ、ない。
 彼、を。
「・・・霜葉」
 声が。
 響いた頭から、全身に駆け巡るような感覚。
 じわりと。
 微かな痺れすら。
「・・・・・下ろし、て」
「断る」
 おずおずと、告げるのに。
 間を置かず、応えを返して。
「で、も・・・・・」
「背負えというのも無理だ」
 だから、と。
 背の刀を理由にして。
 腕に。
 強く、抱いたまま。
 ゆっくりと歩き出す。
 やがて、観念したように、そろりと首に腕が回されて。
 微かに。
 龍斗の吐息が。
 胸元をくすぐる度に。
 乱れる、心を。
 鼓動を。
 もしかしたら既に。
 悟られているのかも、しれないけれど。
 暫くは、互いに。
 無言のままで。
「・・・・・あ」
 ざわめく気配を感じて、顔を上げれば。
 ちょうど、開門をと駆け寄って来た下忍たちが。
 表情こそ見えなかったけれど、霜葉の腕に抱かれる龍斗に
怪訝な様子で。
「あ、・・・お、お怪我を!?」
 驚いたような声に。
 挫いた足首の痛みが、強くなっていることに。
 ようやく、気付いて。
 おそらく、熱をもって腫れてきているのだろう。
 痛みには慣れているとはいえど、それでも額にはうっすらと
汗が滲んで。
「騒ぐな・・・・・大事ない」
 動揺する者たちに、静かな響く声で告げて。
 平然とした様子で門を潜り、真直ぐに。
「・・・・・霜葉?」
 そのまま、屋敷の方へ向かうかと思われた足は、すぐ手前で
方向を変え、村外れへと進んでいくから。
「何処、へ・・・・・」
 答えの代わりに。
 辿り着いた、そこは。
 村正のことがあるから、と九角屋敷に部屋を与えられることを
拒んだ霜葉にあてがわれた、一軒家で。
 片手で難無く龍斗を抱えたまま、戸を開け。
 改めて抱え直すと、部屋へと上がっていくのに。
「ど、して・・・・・」
 再度、問えば。
 ようやく、視線を龍斗に向けて。
「今夜は、熱が出るだろう」
 辿り着いた、寝所と思しき部屋に。
 そろりと、気遣うように龍斗を下ろして。
「俺が・・・・・看ている、から・・・」
 告げた、言葉に。
 思わず、目を見開けば。
 それ以上は、口にせず。
 唐突に立ち上がり、押し入れから布団を取り出すと、黙々と
敷いてしまって。
 その上に龍斗を再び抱き上げ、横たえるようにすると、すぐに。
 踵を返そうとするのを。
 その、翻った着物の裾を。
 掴んで、しまって。
 振り返り、見下ろす表情からは、何も読み取れなくて。
 おずおずと、手を離せば。
「足を、冷やさねばならん・・・水を、汲みに行くだけだ」
 すぐ、戻ると。
 落とされた、声は。
 何処か柔らかく。
 頷けば、微かに笑んだ気配がして。
 部屋を出ていくのを、見送りながら。
 そっと、布団に顔を埋めれば。
「・・・・・霜葉」
 残る、彼の氣に。
 ひどく、安心して。
「・・・・・霜葉」
 名を、呟けば。
「呼んだか」
 すぐに、返事が返ってくるのに驚いて顔を向ければ。
 水を張った盥を抱えた霜葉が、入ってくるから。
「・・・・・何でも、ない」
 どこか、気恥ずかしくて。
 掛け布団を引き上げる。
「・・・・・痛む、か?」
 その様子を、特に気にとめた素振りは見せずに。
 傍らに腰を下ろし、足元の布団を捲り上げて。
 露になった、足。
 夜目にも、赤く腫れ上がっているのを見て、僅かに表情を
強張らせて、問うのに。
「少し、・・・・・ッ」
 答えれば、すぐに。
 冷たい、ものが。
 触れて来て。
 声を詰まらせ、身を固くしてしまったから。
「ッ済まん、・・・・・」 
 慌てた様子で手を引くのに。
 ゆるゆると首を振って。
「違う・・・驚いた、だけ・・・・・冷たくて・・・・・」
「そう、か」
 微笑んで、告げれば。
 ホッとしたように、表情を和らげて。
「だいぶ、熱を持ってきているな・・・冷やす、ぞ」
 絞った手拭いを手に取って見せて。
 ゆっくりと。
 赤みを帯びた、そこに。
 宛てがえば。
「あ、ッ・・・・・」
 ヒヤリとした、感覚に。
 知らず、身を震わせ。
 溜息が、溢れて。
 一瞬、霜葉の手が戸惑ったように宙を掻いたのは。
 龍斗からは、見えなかったけれど。
「冷たくて、気持ち良い・・・」
 うっとりと目を細めれば。
 見下ろす霜葉の貌は。
 何処か。
 困惑した、ような。
「・・・・・霜葉・・・?」
 呼べば。
 ハッとしたように、瞬きをして。
「済ま、ん・・・」
 何に対してか。
 謝罪を口にしながら。
 曖昧な、笑みを浮かべるのに。
「・・・・・何か、隠してる・・・?」
 その内に。
 しまったものを。
 氣の乱れを、捕らえて。
 視線を合わせれば。
「・・・・・」
 逸らすことに失敗して。
 苦しげな。
 それでも、強い光をたたえた瞳で。
 見つめ返して、きて。
「お前、に・・・・・多分、伝えたい言葉が、ある」
 多分、と。
 その響きに、揺れ動く何かを。
 感じたそれを、今は。
 気付かない、振りで。
「・・・・・な、に・・・?」
 霜葉の。
 くれる言葉を。
 息を潜めて、待つのに。
「今は・・・・・まだ、駄目だ」
「どう、して・・・・・?」
 静かな声の中に。
 確かに感じる、ものを。
 気付いていても、それは。
 知らない、振りを。
「今、は・・・・・お前は、逃げられない・・・から」
「・・・・・霜、葉」
 伝えたい、言葉と共に。
 きっと。
 それだけ、では。
「この状況を利用することは容易い・・・だが、それでは・・・」
 例え。
 龍斗が、それを赦したとしても。
 霜葉自身が。
 きっと。
「・・・・・待って、る・・・」
 その、時を。
 その瞬間を。
「霜葉の言葉で・・・・・伝えてくれるのを、待ってる」
「・・・龍・・・・・」
 ずっと。
 待っていた。
 だから。
「霜葉、も・・・・・逃げないでね」
「・・・・・ああ」
 怯え、ないで。
 傷付くこと。
 傷付けることが。
 もし、あったとしても。
 護る、から。
 心ごと。
 身体ごと。
「逃げたり、しない」
 彼、から。
 自分から。
 逃げて辿り着くところなんて。
 何も、ない。
「だから・・・・・此処、に」
 今。
 居る場所を。
 彼の、傍らを。
 いつか、きっと。
 確かなものに。
 自分のものに、するために。

 頬に。
 そっと、触れて。
 この肌の温もりを。
 きっと、いつか。
 確かに感じられる、ように。

 もうすぐ。
 それは。




私なら、好都合とばかりに押し倒しますが(待て)。
霜葉ったら・・・・・焦らすなよ、もう(地団駄)!!!!
互いに、そこはかとなく自覚の両想いです(微笑)。
足が治った暁には、存分に確かめあって下さい(悦)。