『風邪の日には』





 静かな、部屋。
 障子越しの日の光に、否応無しにこの部屋に独りきりだという
のを感じさせられる。
 鳥の声すら、なく。
 自分の浅く早い呼吸と、時折混ざる苦しげな咳とが耳について。
耳鳴りのような激しく脈打つ鼓動と。それだけが、この小さな閉ざ
された空間で聞こえる、音。
 酷い倦怠感に、目を開けているのさえ億劫であったけれども。
 欲求のまま目を閉じて視界を闇に閉ざしてしまえば、それらの
音が増々大きく感覚を支配して。
 それが。
 情けないくらいに心細さを感じせて、龍斗は虚ろな目で只、高い
天井を見上げ続けていた。



 時諏佐からの用命で、早朝から皆で出掛けることになっていた。
 寝起きは良い方ではなかったが、同室の京梧に比べればまだ随分
ましな方で。半覚醒のままではあったが、そろそろ起き出しても
良い頃合いかと、身体を起こそうとして。
 出来なかった。
 妙に、全身がだるい。
 気がつけば、じっとりと嫌な汗をかいている身体は、確かに熱を
持っていて。そういえば、頭痛がするような気もするし、喉も痛い。
風邪をひいてしまったようだ、と自ら診断を下し溜め息をつく。
 その吐息に帯びた熱さえ、酷く煩わしく感じた。

「・・・・・ひーちゃん・・・」
 2つ並べた布団。その隣で眠りこけている男が、何やら自分を
呼びながら寝返りを打ち。そのまま極自然な動作で腕を伸ばし、
龍斗の身体を抱き寄せようとする。
 毎朝のことだ。
 だが、発熱した身体に触れる他人の体温が、恐ろしく不快で。
払い除けようと身じろぎするけれども、それすらも大儀で。
 抱き込もうとする腕に、そのまま身を任せていると。
「・・・・・ん、・・・何か熱くねェか?」
 不意に覚醒したらしい京梧が、ぐったりとして傍らに横たわる
龍斗の顔を、怪訝そうに覗き込む。
「・・・・・ッお前、熱・・・・・ッ」
 目が合った途端、文字どおり飛び起きて。
 額やら首筋やら。ペタペタと、龍斗が眉を顰めるのも気に留めず
触れては、難しそうな唸り声をあげる。
「すげー熱いじゃねェか・・・ッ大丈夫か、ひーちゃん!!」
「・・・・・大声を出すな・・・頭に響く」
「ッ、・・・悪りィ・・・」
 不機嫌そのものの声に、京梧は弾かれたように手を離して。やや
躊躇いがちに龍斗のはだけた寝着の前合わせを整えてやると、勢い
よく立ち上がる。
「美里を呼んで来るから・・・・・待ってろよ」
「・・・・・たいしたことはない」
「そうは見えねェよ」
 あまりおおごとにしたくはなかったし、風邪ならば寝ていれば
じきに治るだろう。そう思っての龍斗の言葉は、あっさりと却下
された。
 体調の悪い龍斗に気を遣ってか、そろりと部屋を出て。だけど
障子を閉めた途端にドタドタと駆け出すものだから、どうしたって
その振動は頭に響いて、龍斗は痛みに顔を顰める。
「・・・・・全く、騒々しい奴だ・・・」
 溜め息混じりに呟きながら。
 それでも、その口元には知らず淡い笑みが浮かんでいた。


 医者の手伝いをしている美里の見立ても、やはり風邪で。
 少なくとも今日一日は安静にしているのが良いと、煎じた薬湯を
差し出しながら告げた。
「・・・・・そうさせて貰う」
 無理は出来ないだろうということは、自身がよく分かっていた。
それほどに、身体がだるく少し頭を巡らしただけで目眩がした。
皆と共に赴いたところで、気を遣わせるだけだろうし、かえって
邪魔になってしまうだろう。
「本当は、私が・・・・・誰か、看ているべきなのだけど・・・」
 元々、龍斗も共に出掛けるはずの用であった。それが、こういう
事態になってしまって、龍斗は行けなくなった上に、その看病にと
更にひとりでも欠く訳にはいかない。
「俺のことは気にしなくて良い・・・・・それよりも、皆に迷惑を
かけてしまって・・・済まない」
「そんな・・・・・緋勇さんは、とにかく身体を治すことだけを
考えていて。後のことは、私達に任せて」
「・・・・・有難う、美里」
 やや掠れた声で礼を述べれば。美里は微かに頬を朱に染め、空に
なった器を妙に落ち着きのなさげな様子で盆に載せると、まだ少し
赤い頬のまま、困ったように微笑った。
「・・・じゃあ、そろそろ準備をして出発するわ・・・お水と丸薬
は、ここに・・・・・夕餉までには帰れると思うけれど・・・」
「分かった・・・・・気を付けて」
 名残惜しげに部屋を後にする美里を見送り、龍斗は張り付かせて
いた笑顔を、ゆっくりと解いた。大事ない素振りも、かなり疲労を
伴うもので。四肢の力を抜き、目を閉じて、やがて訪れるであろう
眠りに意識を委ねようと、して。
「・・・・・京梧」
 障子の向こう。
 佇む影を確認する前に感じていた氣の主の名を、口にすれば。
音を立てぬようにか、そろりと引かれる障子の僅かな隙間から、身
を滑り込ませるのを見遣って。
「・・・・・準備は済んだのか」
「・・・・・」
「・・・京梧・・・」
 無言のまま枕元に座るのに。やや咎める口調で声を掛ければ。
「・・・・・俺は、行かねェ・・・」
 神妙な面持ちで告げられる予想通りの言葉に、龍斗は深い溜め息
で応える。
「何を言っている・・・・・早く、行け。俺が抜けた穴は・・・・
お前が埋めてくれなければ困る」
「・・・・・ひーちゃん」
 喋ることにさえ随分と体力を消耗しながらも、座したまま動こう
としない男を促し、言い聞かせるのに。
「・・・・・龍斗」
 掛け布団の上、投げ出された手を。
 まるで、壊れ物を扱うように慎重に触れ、ゆっくりと持ち上げて。
「ッ、・・・・・」
 手の平に触れる、柔らかな感触。
 押し当てられた唇は、熱を持った龍斗の手よりは、ずっと温度は
低いはずなのに。
 それは、熱く。
 手の平を通して、全身に広がっていくような。
「・・・・・ッ止めろ・・・」
 振り払う気力すら、なく。辛うじて出た咎める言葉は、掠れ。
 それは、腫れた喉のせいばかりではなく。
 微かな震えは隠し切れない。
「ここに、・・・・・いさせてくれよ・・・・・」
 懇願するように。
 切なげに、そして甘く。
 囁く声に、惑ってしまいそうになるけれども。
「・・・・・ダメだ、・・・早く、行け」
「龍斗、俺は・・・・・」
「ッ誰のせいで、こんな・・・・・ッ」
 尚も手に唇を這わせるのを、渾身の力を込めて振り払って。
 半ば、悲鳴のように。
 ぶつけた言葉は。
「・・・・・あ、れだけ・・・好き勝手しておいて・・・ッそんな
我侭・・・ばかり、・・・許すと、思う・・・な・・・・・ッ」
 真直ぐに、京梧を貫いたのか。
 見たこともないような、悲痛な貌が。見開かれた瞳が、龍斗の上を
彷徨い、やがて。
「・・・・・なら、尚更・・・側についてちゃ、いけねェのかよ」
「・・・・・・・お前が居ない方が、・・・落ち着いて休める」
「・・・・・酷ェ、な・・・」
 捕らえていた手を、そっと布団の上に戻して。
「・・・・・行って、来る・・・・・」
 乾いた声で、そう告げて。
 やおら立ち上がり、龍斗に背を向けると。
 振り返りもせずに、京梧は部屋を出ていった。
「・・・・・・・」
 気配が完全に去ってしまって。
 まだ少し、痺れのような奇妙な感覚の残る手を、龍斗は大儀そうに
持ち上げ、ポトリと額の上に落とすようにして視界を覆ってしまう。
 何も見たくなかったのではなく。
 見られたくなかった。
 瞬きをすれば、すぐに零れ落ちてしまいそうな。
 涙、を。
 誰が見ている訳でもないのに。

 あんな風に言うつもりは、なかった。
 我侭なのは、京梧ではなく。
 きっと、自分の方で。
 側に居て欲しいと、心の奥底で思っていたのかも知れない、それを。
 見透かされたようで。
 体調が優れないせいで、少しばかり精神的に脆くなっているのだと
しても。
 だからといって。
 甘えることは、出来ない。

「・・・・・京梧」

 呟いた声は。
 酷く切なげに震えていた。




「・・・・・ん、・・・?」
 強い花の香に、急激に意識が覚醒させられる。
 いつしか、眠ってしまっていたのだろう。
 部屋は薄暗く翳っていて、静寂こそ相変わらずであったものの、その
空間を漂う芳しい花の香りに、龍斗はまだ少し重い頭を巡らし。
 枕元、そこに。
 無造作に置かれた、幾つかの枝。
 細かな花がひしめく、黄色の。
「まあ、やっぱり起きてしまったのね」
 手を伸ばして、それを確かめようとして。
 不意に開いた障子の隙間から顔を覗かせたのは。
「・・・・・美里・・・帰っていたのか」
「ええ、つい今しがた。少し顔色は良くなっているみたいね・・・何か
食べられそうなら、お粥でも作って・・・」
 その申し出に、龍斗はゆるゆると首を振る。
 確かに、朝方よりは随分と身体は楽になったけれど、食欲までは回復
していないようで。
「少しでも、何かお腹に入れた方が良いのだけれど・・・」
「ごめん・・・・・それより、これは美里が?」
 心配そうに視線を落とす美里に詫びつつ、龍斗は傍らに置かれたままの
枝へと視線を移す。
「これは、・・・・・私じゃないの・・・蓬莱寺さんが・・・・・」
「京梧が?」
 やや意外そうに聞き返せば、美里は微笑みながらコクリと頷いた。
「帰りにね、梅月先生の御宅にも寄ったのだけれど・・・お庭に立派な
金木犀があって・・・蓬莱寺さんったら、急に庭に降り立ったかと思うと
枝を幾つも折ってしまうものだから、私たちも梅月先生も暫く呆気に取ら
れて・・・」
「真琴さん、怒っただろうな・・・・・」
 ああ見えて激高すると恐ろしい梅月の顔を思い浮かべ、苦笑すれば。
「ええ、それはもう・・・・・でも、蓬莱寺さんが・・・緋勇さん、貴方
の為に・・・『ひーちゃんに、持って帰ってやりたいんだ』って・・・
それならばと、梅月先生も許して下さったわ」
 クスクスと。
 その時の様子を思い出しているのか、楽しげに笑う美里の顔を。
 龍斗は、呆然と見つめてしまって。
「・・・緋勇さん?」
「・・・・・京梧、が・・・?」
「ふふ・・・こっそりと置いていったんでしょうけど、こんな香りが強い
花は、お見舞いには本来向かないものなのに・・・」
「・・・・・全くだな」
 肩を竦め、微苦笑を漏らすのに。
「でも、・・・・・嬉しそう」
「・・・・・・・」
 そう言われて。
 返す言葉がなく、黙り込めば。
「いけない、花瓶を持って来ないと・・・・・それから、やはり少し何か
口に入れた方が良いわ。薄めのお粥なら・・・・・」
「・・・ッ美里」
 慌てて立ち上がろうとする美里を。
 思わず、呼び止めてしまって。
「・・・・・緋勇さん・・・?」
「・・・・・・・あいつ、は・・・」
 小首を傾げるようにして問う美里から、そろりと視線を外して。
 極、小さな声で。
 ただ、それだけだったのに。
「・・・・・廊下を曲がったところで、うろうろしていたわ」
 可笑しそうに笑いながら。
 すぐに呼んで来るわね、と立ち上がり踵を返して。
「それに、彼も反省しているようだから、うふふ・・・・・じゃあ」
「・・・・・美里?」
 それ、は。
 含みの有る言葉の意を問う前に、障子は閉ざされて。

 そして、すぐに廊下の向こうから慌ただしく駆けて来る足音と振動が
伝わって来る。
 騒々しい奴だな、と微笑いながら。
 やがて開け放たれた障子の向こうに、ゆっくりと。
 龍斗は、手を差し伸べた。

「ここに来て・・・・・京梧」





・・・・・良い人だ、美里・・・(呆然)。
それはともかく、風邪ひきネタです(笑)。自分が微妙に
風邪気味だったので、何となく・・・。
ちょこりと、意地っ張りテイストな、ひーたん(笑)v
風邪ひきの原因は、御想像のままに・・・くくくv
金木犀、弘樹さんの日記とシンクロしていたのに驚きつつ
運命だというコトで、捧げてしまうのです(微笑)v