『不戦敗』
迂闊、と言っていいのか。
久し振りに内藤新宿に出た折に、骨董屋の主人でもある
奈涸と偶然出会って。
新しい鑿が入荷したばかりなのだという言葉に、弥勒は
おそらく独りでは初めて、その店に出向いて。
店主の目利きの通り、程よく手に馴染む逸品で。
購入する意志を伝え、そのまま。
面のことやら、何やら色々と話し込んでしまって。
ふと。
饒舌だった奈涸が、考え込むように。
顎に手を当て、黙り込むのに。
「・・・・・どうかしたか」
「いや、・・・・・そういえば、弥勒・・・君の工房には
よく彼が訪れるそうだな」
彼。
緋勇龍斗、が。
「・・・・・ッ」
その貌を思い描いた瞬間。
弾かれたように、座していた上がり口から立ち上がって。
「済まん、今日はこれで失礼する」
何処か。
焦ったように。
飛び出して行くのを見送る、奈涸の手元には。
弥勒に買われたばかりの、鑿が。
そのままに。
「・・・・・ふッ」
普段の弥勒からは想像も着かぬ、慌てた様子に。
微かに含みのある笑いを浮かべ。
「余裕のない、ことだな」
それは。
彼に対しては。
あの男だけではない、という思いを。
胸の奥にしまって。
鑿をそっと半紙に包み、懐にしまうと。
開け放されたままの扉の縁に手をかけ。
暮れかかる空を見上げ。
遠く。
想いを馳せた。
「・・・・・ッ」
息を切らせて、ようやく村に帰り着けば。
既に、日は暮れ。
見張りの下忍たちが、呆然と見送るのを意にも留めず、
まっすぐに己の工房へと駆け込めば。
果たして。
そこには。
「・・・・・た、つ・・・・さん・・・」
いつも。
作業中、弥勒が座っている、その場所に。
コロリと横になって。
どうやら。
眠ってしまっているらしい龍斗が。
「・・・・・」
その姿を確認して。
安堵、故か。
盛大な溜息を、ひとつついて。
そろりと。
その傍らに歩み寄れば。
余程、眠りが深いのか。
普段なら、すぐ近くに人の気配を感じれば、すぐに目を
覚ます、研ぎ済まされた感覚も。
今は。
「・・・・・龍さん、・・・風邪を、ひく・・・」
昼間は汗ばむ程の陽気ではあったが、夜ともなれば山の中、
気温はかなり下がり、転寝するにはやはり不向きで。
起こそうと、声をかけてみるのだが。
一向に、覚醒の気配はなく。
「・・・・・」
規則正しい、寝息。
微かに綻ぶ、唇が。
月明かり。
震えが走る程に。
艶かしく、映って。
「龍、さん・・・・・」
その彩に。
誘われるように、跪き。
顔を覗き込むようにすれば。
吐息が、触れる距離。
夜の静寂に。
自分の心臓の音が。
やけに、大きく聞こえて。
「・・・・・済まない」
ポツリと呟いた、それは。
待たせてしまった事への、詫びか。
それとも。
寝転がっているせいで、露になった額に。
唇を落として。
眠っているから、こそ。
無防備な、彼だからこそ。
こんな、ことも。
こんな、ことしか。
出来ない。
意外に。
臆病な自分と。
大胆な自分。
その、どちらも。
「・・・・・このままでは、本当に風邪をひくな」
寝顔を眺めているのも、弥勒には心地よい時間ではあった
けれども。
自分も、走ってきたせいで汗をかいた身体が、夜風に身震い
するのを。
半ば。
言い訳のように。
立ち上がろうとすれば。
「・・・・・何処、行くの」
「・・・・・ッ」
急に、かけられた声に。
驚いて、また身を屈めれば。
微かに、眉間に皺を寄せて。
弥勒を。
見上げている、瞳とぶつかって。
「・・・・・今、帰ったところだ・・・・」
「・・・・・遅かったね」
「済まん・・・・・君が来ているかも知れないと、気付いて
・・・急ぎ戻ったのだが・・・」
それでも。
いつも、龍斗がここを訪れる時間から鑑みれば、待たせた
のは、かなり長い間のはずで。
だから。
疲れて、眠ってしまったのだと。
分かるから。
「待ってたのは、俺の勝手だし・・・・・ッくしゅん」
「・・・・・ッすぐ、何か羽織るものを・・・」
ゆっくりと起き上がりながら。
不意に。
龍斗が、くしゃみをしてしまったのに。
本当に、慌てた様子で。
弥勒が、屈めていた身を起こそうと。
するのを。
「・・・・・な、ッ・・・・」
伸ばされた、龍斗の手が。
それを阻むように、着物の裾を掴んでしまうから。
そのまま。
思いっきり体勢を崩してしまった弥勒は。
支える術もなく。
龍斗の、上に。
倒れ込んでしまって。
「・・・・・痛・・・」
「・・・ッ龍さんが、つまらぬ悪戯をするから・・・」
はずみで、後頭部をぶつけてしまったのか。
眉を顰め、頭を擦るのに。
まだ、落ち着かぬ心臓を。
その鼓動の早さは、おそらく重なる身体が直接、伝えて
しまっているのだろうけれども。
「・・・・・だって、せっかく戻ってきたのに・・・また
何処か行こうとするから・・・」
そう言って。
拗ねたような、瞳で。
見上げられて。
「俺、は・・・・・冷えてきたから何か羽織るものをと」
「要らない」
「龍さん、・・・・・」
風邪をひいてしまう、と。
続けようとした、口を。
唇に、そっと。
白い手が。
指が、触れて。
「熱い、ね」
「・・・・・急いで、・・・走って来た、から・・・」
冷えた指先に。
早く。
暖めてやらねばと。
「暖めてよ」
「龍、さ・・・」
「おでこだけじゃ、足りない」
「・・・・・ッ」
見透かされたように。
紡がれる、言葉に。
思わず、目を見開けば。
「弥勒の熱、俺に分けて」
それは、もう。
逃げる事も。
躱す事も。
出来ない。
その、要求に。
「・・・・・君、は・・・・」
本当に。
彼には。
逆らえない。
それどころか。
おそらく。
こうして、彼が。
求めてくれる、ことが。
何よりも。
「・・・・降参だ」
苦笑混じりに呟けば。
満足そうに、微笑みを浮かべる唇に。
自分のそれを、重ねて。
熱を。
そこから、始まって。
全部。
余すところなく。
暖めて。
「弥勒」
嬉しげに、名を呼んで。
背に回される腕に。
また、生まれてくる熱も。
惜し気もなく。
与えるから。
寒さ、なんて。
感じない。
風が通る隙間さえ。
ふたりの間には、もう。
翌朝。
腕の中で眠る龍斗を起こさぬよう、そっと布団から出て。
顔を洗いに外へ出ようとした弥勒が。
戸口に。
そっと置かれた、新しい鑿を見て。
絶句したのを。
知る者は。
忍者め(苦笑)。
それにしても、弥勒相手だと誘い受けにも磨きが
かかりますな、龍斗・・・(目線逸らし)。
人肌は良いです・・・・ふふ(悦)。