『home』


 嫁ぎ先の風習なりしきたりなりに馴染めるよう努めろと、嫁入り前の
娘は言い含められるらしい。
 だが、自分は嫁に来た覚えはないし、そもそも女でもない。困惑して
いると、部下が「郷に入っては郷に従え」という言葉もあるということ
を聞き齧ったと呟いた。それならば、まだ納得がいくというものだ、と
アスアドは頷き、くるりと向き直って目の前の男に告げた。
「グントラム殿の仰ることは分かりました。このアスアド、我が身を
アストラシアに置き、クロデキルド様に生涯お仕えすると誓ったのです
から、この国のしきたりには出来うる限り慣れねばと思っております」
 だがしかし、とアスアドが続けるのに、一旦ホッとしたように見えた
グントラムの表情が再びやや固いものに変わる。
「私などのために、新たに邸宅をなどと・・・そのようなものは必要で
あるとは思えません。王宮での仮住まいという現状は、いずれどうにか
せねばとは考えてはおりましたが、それならば近々完成する魔道兵団の
兵舎の中に1室用意して頂ければ、そちらに」
「ですから、そういうわけにはまいりませんと言っているのです」
 きっぱりと、やや強い口調でグントラムはアスアドの提案を一蹴した。
「アスアド殿は、その魔道兵団の総帥の地位につかれるのです。我が国
では、それなりの地位にある者はそれぞれファラモンに邸宅を持つこと
が常となっております。アスアド殿も例外ではない」
「・・・・・しかし」
「何も、豪邸を建てろと言っているのではありません。勿論、兵舎の方に
総帥のための執務室もありますし、そちらで仮眠なりとることも可能な
ように設えていますが、ただ寝起きするための場所をという意味で個々に
邸宅を持つように奨めているわけではない。このアストラシアの民として
アスアド殿をお迎えするための、いわば儀礼のようなものだと御理解頂き
たい」
 そう言われてしまえば、返す言葉が出て来ない。もとより、口達者な方
ではないのだ。グントラムの言うように、これからこの地アストラシアで
自分は生きるのだ。ひと月後に女王として即位する、かつて恋うた女性の
ために生涯を捧げると誓った。
「では、・・・住まいの件についてはグントラム殿にお任せ致します。
ですが、出来るだけ・・・小さなものにして頂けると・・・」
 大きな家を用意されたとしても、そこに住むのは自分ひとりなのだから
と続けようとして、ふとアスアドは後方に控える腹心の部下に目を向けた。
「ああ、そうだ・・・ここにいるハフィンも共に住めるよう、手配して
頂けると有り難い」
「・・・・・は?」
 意気揚々とそう願い出たアスアドに、名前を出されたハフィンは半ば
呆然とし、そしてグントラムはあからさまに眉間に皺を寄せてみせた。
「・・・御冗談を」
「冗談などではない。ハフィンは帝国時代より常に傍らで俺の為に働いて
くれた腹心の部下であり、新設される兵団においても副官を務めることに
なっている。だから、・・・・・」
「アスアド殿、やはり貴殿は何も分かっていない」
 溜息混じりに向けられた言葉に、アスアドが反論しようとした時。
「アスアド様、自分はアスアド様の提案には反対であります」
 きっぱりと。その腹心の部下に真直ぐに告げられて、アスアドの表情が
強張る。
「・・・ハフィン・・・?」
「アスアド様の御厚意は身に余る光栄であります。ですが、・・・自分は
アスアド様の仰ることは、公私混同というものであると思うのであります」
「公私・・・混同、だと・・・?」
 愕然として繰り返すアスアドに、ハフィンは深く頭を垂れる。
「そう、であります」
「・・・確かに、良い部下をお持ちのようですな」
 感心したように呟いたグントラムに、アスアドは戸惑ったような目を
向ける。まさか、ハフィンにそのようなことを言われるとは思わなかった。
帝国でも、そしてかの城においてもハフィンは文字通り寝食を共にして
きた、心から信頼出来る部下であり、その位置は距離はこの先も変わらぬ
ものであると信じて疑わなかった。
 なのに。
 けれど。
「・・・・・共に住めば、近いというものではないのだな」
 ふ、と。苦笑混じりの吐息がこぼれる。
「我侭を言って申し訳なかった、グントラム殿」
「ようやく御理解頂けたと思って宜しいですかな、アスアド殿」
 ホッとしたような笑みに、アスアドは頷く。
「アストラシアの流儀に従いましょう。ですが、その・・・やはり新たに
家を建てて頂くというのも、・・・手頃な空き家でもあれば、そちらに」
「・・・そう仰られても」
「まだ話がまとまっていなかったのか、2人とも」
 苦笑混じりの声と聞き違えようもないその靴音に、それぞれが姿勢を
正して振り返る。隣に妹姫であるフレデグント、やや後方にメルヴィスを
伴って現れたクロデキルドに、一同が礼をとる。
「面目次第もありません」
 恐縮するグントラムに、アスアドも慌てて続ける。
「我侭を申し上げてグントラム殿を困らせてしまっているのはこちらです
・・・ですが、その・・・・・」
 自分がひいてしまえば済む問題なのだということは分かっているのだ。
だが、承服しかねるものはそうと告げねば、やはり落ち着かない。
「アスアド殿は、こう見えてなかなか頑固なのだぞ、グントラム」
「ク、クロデキルド様・・・」
 クロデキルドの言葉に、隣に寄り添うように立っていたフレデグントも
クスクスと笑う。
「で、どこまで話は進んだのだ」
「は、・・・アスアド殿の邸宅を御用意するという旨は了承して頂けたの
ですが、新たに建てるのではなく手頃な空き家をと希望されて」
「・・・なるほど」
 アスアド殿らしい、とクロデキルドは目を細める。だが、様々な面を
考慮に入れた上で、適当な空き家があっただろうかとグントラムに視線を
向ければ、主の考えをくんだのか軽く頷くようにして応えるのを見て、
クロデキルドはアスアドへと向き直る。
「アスアド殿の意見も尊重したい。だが、我らの気持ちも汲み取っては
貰えぬだろうか」
「クロデキルド様・・・」
 そう言われてしまえば、アスアドに否とは返せない。やはりここで
自分が折れるべきなのだろうと、それを伝えようとした時。
「魔道兵団総帥閣下には、俺のところに来て頂くのも良いかと思います」
 澱みない声が、長い廊下に響く。クロデキルドたちの後ろに控え、今の
今まで沈黙を保ってきた男が続ける。
「数年前、亡き陛下に用意して頂いた屋敷がありますが、・・・自分1人
では広過ぎて落ち着かない。わざわざ住まいを用意されるというのが気に
掛かるのなら、もとからあるものを有効活用すれば良いというアスアドの
考えにも添った上で、ひとつの案として挙げさせて頂く」
「・・・ふむ」
 淡々と述べるメルヴィスに、クロデキルドは成る程と頷く。
「確かに、お2人が一緒ならば互いに色々と学ぶことも多いでしょう」
 グントラムも同意するのに、でも、とフレデグントが首を傾げた。
「ならば、グントラムのところの方が、アストラシアについて色々教えて
差し上げるのに良いのではなくて?」
 ね、と。投げ掛けられた言葉に、メルヴィスの視線が素早く一点を掠め、
そしてグントラムの表情が微かに強張ったように見えたのは、やりとりを
少し離れたところから見守っていたハフィンの気のせいではなかったかも
しれない。
「私のところでは、アスアド殿も落ち着かないのではないでしょうか」
 にこりと微笑みながら同意を促されているというのに、アスアドは半ば
呆然として言葉が出て来ない。フレデクンドの意向を踏まえて、そんな
ことはない、と言うべきなのか。それとも、グントラムの言葉に頷いて
おくべきなのか。
「そう、かしら」
「グントラムは、些か堅苦しいところがあるからな」
 フ、と笑いながらクロデキルドが妹の肩にそっと手を添える。
「堅苦しさで言えば、メルヴィスもさほど変わらぬような気もするが、
メルヴィスの方から同居をと申し出たくらいなのだから、我々の知らぬ
ところで随分と仲を深めていたのだろう」
「おそれいります」
 メルヴィスが静かに頭を下げるのに頷いて、クロデキルドはアスアドの
前へと歩み出た。
「ということだ。アスアド殿に異存がなければ、メルヴィスのところに
居を移すということで手配を進めたいと思う」
「は、・・・あの、しかし」
 それに、それならば私も安心出来る、と。クロデキルドが続けた言葉に、
やはりアスアドは首を横に振ることなど出来なかった。



 その日の内に、下見も兼ねてと案内されたメルヴィスの屋敷は、先の王
自らが手配したとあって立派な佇まいではあったが、華美な装飾は一切
施されておらず、家具や調度品もそれこそ必要最低限のものしか置かれて
いなかった。教会の者たちに荒らされた様子もなく、ファラモン奪還から
しばらくしてグントラムの配慮で塵埃を取り払った以外は全く手を加え
られていないということだった。

 玄関ホールを抜け、左手の廊下を進みながら、幾つもの扉の前を素通り
していく。使っていない部屋ばかりだとメルヴィスが告げるのに、確かに
数ある部屋も独り暮らしでは余らせるだけだっただろうと察する。やがて
突き当たりの部屋を、今度は扉が開かれ、中へと案内される。
「この奥に調理場があるが、・・・それも使わずじまいだ」
 説明されるのを聞きながら難しい顔をしてダイニングを見渡すアスアド
に、メルヴィスが怪訝な目を向ける。
「・・・何だ?」
「・・・・・時の流れが感じられない」
 やや躊躇った後、ぽつりと呟くのに、メルヴィスはああと小さく返して
壁に手を添えた。
「せっかく陛下が用意して下さったというのに、ここには数えるほどしか
立ち寄らなかった」
「それは、・・・住んでいたとは言えない」
「そうだな。城に詰めていることが多かったとはいえ、ここに住まうこと
は出来たはずなのに、・・・帰ろう、という考えすら浮かばなかった」
 それは。ここは、メルヴィスの家、にはなり得なかったということでは
ないだろうか。主を持ちながら、主が在ることのなかった家。
「お前でさえろくに過ごすことのなかったところに、俺を住まわせよう
などと、よく思い付いたものだ」
 呆れているという感情もあらわにアスアドが告げるのにも、メルヴィス
はただ少しだけ困ったように見つめ返すだけで、アスアドはやれやれと
いうように大きく溜息をついた。
「・・・・・これこそ、公私混同というものではないのか」
 城でのやりとりの間は、あまりの展開に呆然としてしまっていたが、
メルヴィスに連れられてここに向かう道すがら、アスアドは思考を整理
していた。
 メルヴィスの意図など、冷静に考えれば分かる。
 自惚れではない。そんな浅い関係では、もうないのだ。
 グントラムも、おおよその事情は知っていたのだとすれば、メルヴィス
の申し出を受け入れる流れにさりげなく持っていったのも理解出来る。
「どうとるかは、お前次第だが」
 涼しい顔をして。
 やってくれる。
「・・・・・俺の部屋は?」
「好きな部屋を選べ」
「では、そうさせて貰う」
 告げて、スタスタとダイニングを出て行こうとするアスアドの後を、
やや遅れてメルヴィスが追う。
「待て、勝手に歩き回るな」
 咎める声に、だが振り返らずに問う。
「立ち入られて困る場所でも?」
「ない。だが、不案内で迷子になりたくはないだろう」
 確かに広い屋敷ではあるが、幼い子供でもあるまいし極度な方向音痴と
いうわけでもないのだから、迷子になる方が難しいのではないか。
 そう。
「自分の家で迷子になってたまるか」
 ぴた、と。メルヴィスの靴音が止まった。
「ここは、お前・・・と。俺の家、なのだから」
 覚悟は、していたのだ。
 していたはずなのだ。
 アストラシアに行くと決めた、その時から。
 それよりも前に、もしかしたらもう。
「そう、・・・だな」
 緊張を解いたような声色に、ゆっくりと振り返る。

 この時、自分を見つめていたメルヴィスの表情を、きっとずっと忘れる
ことはないだろうとアスアドは思った。