『追憶』



 ふわふわと、どこか虚空を漂っているような感覚に、闇の中にいた意識が
ゆっくりと浮上していく。覚束ない視界に映ったのは、端正な男の顔だった。
表情は見えない。目の前はまだゆらゆらとして頼りなく、見上げるような
位置にいるらしい自分からようやく分かるのは、ここジャナムにはない肌の
色、そして男らしい顎のライン。自分が持ち合わせてはいないもの。
 それが誰であるのか、ぼんやりとした意識でも分かる。嫌でも。

 -----メルヴィス。

 声には出さず、その名を思い浮かべる。

 ああ、そうだ。
 見ていた。見られていた。あれを。
 見られたくはなかった。
 この男には。
 見られたくはなかったのだ。

 また意識がゆっくりと落ちていく。
 深く、深いところに。




「それを、他の者には見せぬ方が良い」
 祖母の友人であった翁に、舞踊を習っていた。アスアドがまだ齢10になる
か、ならないかの頃だ。みるみる上達していく幼い弟子に、翁は細い目を更
に細めて見守っていたが、ある日いつものように教えられた舞いを師の前で
披露し終えた途端、そう告げられた。
「・・・・・どうして、ですか?」
「・・・・・」
 深い皺に縁取られた瞳が、困ったように揺れる。
「・・・先生・・・」
「・・・・・御家族の前でのみ、と。儂と約束して欲しい」
「・・・・・先生が、そう仰るのでしたら」
 素直に引き下がった弟子の赤い髪を、老人の指が優しく撫でる。
「お前は良い子だ、・・・アスアド」
 慈しむ声に、アスアドは嬉しそうに微笑む。せっかく習った舞いを家族に
しか見せられないのは残念だったが、死と仰ぐこの翁を悲しませたくはない。
 それに、他人の前で舞うような機会など、そうないだろうとアスアドは
思った。
 それから、1度だけ父や母の前で舞いを披露した。皆、手放しで褒めて
くれた。
 アスアドが少年兵に志願する、数カ月前のことであった。

 ジャナム魔道帝国の兵士は大きく2つに分けて、剣などの武器を主とする
者と精神力を高める杖を扱っての魔道を主とする者とがいる。その資質を
見極めるため、アスアドのような少年兵は1年間の基本的な戦闘を教え込ま
れた後で魔道院での試験を受けることを義務付けられていた。この試験の
成績によって、いずれの道に進むかが決まる。
 集められた少年兵たちは、ひとりずつ奥の部屋に招き入れられた。試験の
内容は機密事項であったが、その禁を破った者は今までにはないという。
そういうことになっていた。禁を破って、無事でいられた者はいない。その
事実をアスアドが知るのは、もっとずっと後のことだ。
 薄暗い小部屋で、目隠しをされる。手を差し出せと言われるままにすれば、
手の平に何かが触れた。それが何なのかは分からない。ただ、少し離れた
ところにある気配が僅かに動揺したことだけは、感じられた。
「・・・良いでしょう」
 退室せよとのことだろう。部屋の外に導かれ、そこでようやく目隠しが
外される。試験は自分が最後のひとりだったから、待ち合いのようになって
いた次の間にはもう誰もいない。
「・・・・・」
 手に触れたものは、何だったのだろう。少しだけ、ほんの少しだけ何か、
を感じたような気がした。それを思い出そうとするように、手の平を何度か
握っては開いてを繰り返す。だが、微かに感じたような気がした何かの正体
は分からないままで、アスアドは小首を傾げながら部屋を後にした。
 アスアドが去った後の間、その奥の試験が行われていた部屋に続く扉が、
僅かに開く。
「・・・・・素質はあるようでしたが」
「・・・あの子ほどではありません」
「それは、・・・しかし、姫様はまだ幼くていらっしゃ・・・」
「お前はただ私に従っていれば良いのです、・・・ムバル」
 高貴な若い女性の厳しい声に、男は口を閉ざした。そう、自分はこの女性
に忠実に仕えていれば良いのだ。
 試験結果を記した書類を整え、ムバルと呼ばれた男は瞑目する。これを、
まずは第1皇妃に届けなければならない。優秀な者は、彼女の統率する兵団
の幹部候補として引き抜かれることとなる。あの赤い髪の少年も、その1人
となるだろう。線の細い、綺麗な顔をした少年だった。
 何もなければ良いのだが。
 一瞬過った微かな不安にも似たものを、ムバルは小さく首を振って打ち
消した。

 試験から数日後、アスアドは少年兵たちを取り仕切る上官の部屋へと呼び
出しを受けた。これより後、アスアドが第2魔道兵団所属の兵となること。
そのための書類一式を持って、総帥の元へ赴くことが告げられる。
「総帥・・・皇妃様の御前に、ですか!?」
「そうだ。くれぐれも失礼のないように」
 魔道兵団総帥を務めるのは、この帝国の第1皇妃・シャイラである。皇帝
にはこのシャイラも含め、3人の妃がいた。中でも第1皇妃は国民の人気も
高く、国母としての期待も寄せられていたが、不幸な出来事で昨年皇子を
亡くしていた。皇太子の位は、第3皇妃の産んだシャムス皇子がその後を
継ぐこととなる。
「行って参ります」
 深々と礼をし、アスアドはその足で真直ぐ総帥府へと向かった。しかし、
タイミングの悪いことにシャイラは不在で、書類は預かるが面通しがある
ので、明日改めて出直してくるようにと告げられる。明日、とアスアドは
ほんの少しだけ眉間に皺を寄せた。少年兵であった時に割り当てられていた
兵舎の部屋に、もうアスアドの居場所はない。そう、もう少年兵ではなく
なってしまったのだ。さてどうしよう、と考え込んでいるうちに、ふと家族
の顔が浮かんだ。今回のことの報告も兼ねて、一度実家に戻ろう。アスアド
が軍に入ることを母は酷く案じていたけれど、魔道兵団所属となることを
知れば、やはり心配はするだろうけれど、きっと喜んでくれるだろう。
 久し振りに母の笑顔が見たいな、と総帥府の大きな建物を出たところで、
ふと耳に懐かしい旋律が届いた。
「・・・・・これは」
 どこから聴こえてくるのだろう。弦楽の音色に誘われるように、アスアド
は総帥府の中庭の方へと足を向ける。そこは人の気配はなく、だが噴水の
水音に混じって確かにあの音は聴こえていた。
 音の源を探して顔を巡らせれば、総帥府からさほど遠くないところに建つ
豪奢な皇宮が目に飛び込んで来た。ああ、あの場所からこの音楽は流れて
きたのかとアスアドは気付く。
 懐かしい音色。それは、数年前に家族の前で踊ったきりの、あの舞踊の
旋律だった。
 うず、とアスアドは落ち着きなく辺りを見回す。ここには誰もいない。
見てはいない。なら、大丈夫。
 そう自分に言い聞かせながら、アスアドは1度深く深呼吸すると、空を
切るように腕を持ち上げた。足が軽く地面を蹴り、上体がしなやかに反り
返る。
 久し振りに舞うそれは、かつて師にもう人前で踊ってはならぬと言い渡さ
れたものだ。けれど、今は、今なら、少しだけなら、と。
 密やかな高揚感に高鳴っていた鼓動が、不意に大きく跳ねた。
「・・・・・あ」
 見回りに来たのであろう、兵士が数人半ば呆気に取られたようにこちらを
見つめていた。
 しまった。こんなところに勝手に入り込んで、勝手に踊ったりして。咎め
を受けるのを覚悟しながら、アスアドは畏縮する足をどうにか一歩踏み出し
て、兵士たちの前へと進み出た。
「も、申し訳ありません・・・その、音が・・・いえ、あの、書類を、私は
・・・・・明日・・・」
 説明にも弁明にもなっていない。落ち着け、と心の中で己を叱咤しつつ、
再び開きかけた口を何かが塞いだ。
「っ、・・・!?」
 大きな手だ。大人の男の、武骨な手。片手でアスアドの口元を覆い、その
大きな身体で壁際に挟み込んでくる。
「・・・おい、まだガキじゃないか」
「ガキでも何でも構わんさ、・・・お前だって見ただろ」
「・・・・・男には興味ないつもりだったんだがなあ」
 アスアドを取り囲み、見下ろす男たちの瞳の奥に潜むドロリとした情慾の
光に、アスアドはガタガタと身を震わせた。男たちが自分に欲情している、
という事実には、アスアドは気付いてはいなかった。けれど、彼らの何か
尋常ではない様子と気配に、己の身が置かれている状況が良いものではない
ということぐらいは分かる。
「こんな人気のないところで、あんな風に俺たちを誘うとは・・・悪い子
だなあ」
 伸びて来た手が、アスアドの身体のラインをゆっくりと辿る。
 何。
 これは、何だ。
「っ、・・・ゃ、・・・・・」
 怖い。嫌だ。
 本能的に察した危機に、アスアドは身体を這い回る手から逃れようとして
身を捩る。ビッ、と布を裂く音がした。暴れ始めたアスアドを押さえ付け
ようとした男の指が引っ掛かり、胴衣が大きく破れる。
「くそっ、・・・もうここで」
「おい、それはマズいだろう・・・人が来たら」
「この時間なら誰も来ないさ、・・・なあ、オレが先でイイだろ」
 腰のベルトに手が掛かる。そのまま引き下ろされようかという時、砂利を
踏み締める足音が、ゆっくりと近付いてくるのが聞こえた。
「な、・・・・っあ・・・!」
 良いところで邪魔が入った、と。あからさまに不満げな表情で振り返った
男たちの顔色が、一気に青ざめていく。アスアドを取り囲む大きな身体の
向こうに、翻る白い絹布が見えた。
「どうした。余興は終わりか」
「ひ、・・・っあ・・・」
「つまらぬな」
 クッと笑った響きがあり、足音がすぐ近くまでやって来た。
「これは、余が貰って行くぞ」
「は、・・・ははっ!」
 崩れるようにして平伏していく男たちをぼんやりと眺める。一体何が起き
たのかよく分からないまま、伸びてきたアスアドの肌よりも濃い色をした手
に引き寄せられ、先程視界を過った白い絹布が無惨に破かれた衣服を纏う
身体を覆うのにも反応出来ずに佇んでいれば、不意に視界が高くなった。
「っ・・・・・」
 肩に担ぐように抱え上げられ、突然現れた人物に攫われようかという事態
にも、まだアスアドは呆然として地面に平伏したままの男たちを見つめて
いた。
 アスアドを荷物のように抱えた人物は、中庭を進んだ突き当たりにある壁
に手を添え、グッと押し込む。カチリと音がして現れた隠し通路へと身を
滑り込ませ、薄暗く入り組んだそこを迷うことなく通り抜ける。
 辿り着いた先は、金銀で装飾されたきらびやかな調度品が並ぶ広い部屋
だった。凄いな、と肩に担がれたままそんな感想を思い浮かべたアスアドの
華奢な身体が、不意に宙を舞う。
 落ちる、と。身を竦めたけれど、床に投げ出される衝撃の代わりに感じた
のは、柔らかな弾力の寝台が纏うシーツの滑らかさだった。
「え・・・」
 きょとん、とした顔で、それでもこの状況を把握しようと辺りを見回した
アスアドの視界に飛び込んで来たのは、愉快そうに自分を見下ろす男の姿。
 見覚えがある、などというものではない。
 知っている。
 知らないわけがない、この男は。
「こ、・・・皇帝陛下・・・」
 この帝国を統べる皇帝・ダナシュ8世その人であった。
「そう怯えるでない」
 まさかこんな間近で殿上人にまみえるようなことになるとは、と。震える
アスアドの顎を、濃い褐色の長い指が捕らえる。親指が戦慄く唇をゆっくり
と撫でれば、くすぐったいようなよく分からない感覚に身体が跳ねた。その
様に、皇帝の笑みが濃くなる。
「悪いようにはせぬ故、そなたはおとなしく余に身を委ねていれば良い」
 身体を覆っていた布が剥ぎ取られ、無惨に破られた胴衣を纏った少年の
身体があらわになる。まだ成長途中の体つきは、中性的であるが故にどこか
危うげで、畏怖に震える様は嗜虐心をくすぐった。
「・・・ぁ、・・・」
 声が出ない。この高貴な人は、あの男たちの手からアスアドを救い出しは
してくれたけれど、それは助けたということではないのだと悟る。
 同じだ。相手が違うだけで、同じことをアスアドはされようとしている。
抵抗すれば、逃れられるのだろうか。だが、相手はこの帝国の皇帝なのだ。
不興を買えば、どうなるか。
 踊りの師に言い含められたことを守らなかった、これは罰なんだろうか。
「少しばかり抗ってくれても愉しめるかもしれぬが」
 そんな勝手なことを呟きながら、大きな手が脚を開こうとした時。
 やや離れたところから、重々しい扉が勢い良く開かれた音が聞こえた。
「そんな子供相手に。わたくしがいないと、そんなに寂しいのでしょうか?」
 微かに笑いを含んだ艶めいた声が近付いてくる。アスアドの身体の上から
皇帝がゆっくりと身を起こしていく。その表情には、不貞を咎められたと
いうバツの悪さなど微塵も伺えず、やれやれという苦笑が僅かに滲んでいた。
「ほんの余興だというのに」
「陛下にとっては余興であっても、妃たるわたくしにとっては不愉快でしか
ありません」
 責める言葉を口にしながらも、こちらを見つめる顔は笑っている。まるで
駆け引きのようだ、とアスアドはそんなことを考えていた。
「それに、その子は先の試験で優秀な成績を修めた、我が魔道兵団にとって
必要な人材。いかに陛下とはいえ、戯れで壊されては困ると申し上げている
のです」
「・・・あい分かった。これはそなたの思うようにするが良い、シャイラよ」
 寝台から下りた皇帝が、腕組みをして佇む皇妃・シャイラの方へと、一歩
一歩近付く。逆に、アスアドが未だ転がされたままの寝台に歩み寄る皇妃と
擦れ違う瞬間、互いが微笑み合ったように見えた。
「・・・・・さて。書類にはアスアドとありましたが、間違いないですね」
「は、はい・・・」
 高貴な女性と直接言葉を交わしても良いのかと一瞬惑いつつも、応えない
ことの方が無礼にあたるだろうと、アスアドははだけた衣服を掻き集める
ようにして頷く。
「今回のことは忘れなさい。他言も無用。良いですね」
「はい」
 忘れたい。忘れられるものならば。
 言えない。誰にも。言えるわけがない。
 あんな。
「・・・・・っ・・・」
 ついさっきまで己の身に降り掛かっていたことを思い出せば、今更のよう
に身体が震えた。
 怖い。
 怖かった。
 怖かったのだ、とても。
「・・・泣いているのですか?」
 やや困惑したような声に、何かがプツリと切れた。
「っ、う・・・あ、ああああ・・・っ」
 涙が止まらない。後から、後から溢れて来て。
「ち、ちょっと・・・そんな、いきなり泣・・・」
 戸惑いながらも伸ばされたその腕に、アスアドは縋った。相手が誰なのか
分かってはいるのに、ただ誰かに縋り付きたかった。
「う、・・・え、っあ、あ・・・っ・・・うー・・・っ」
「・・・・・こんなに泣いて・・・よしよし、怖かったんだねえ」
 優しく抱きしめてくれた女性の口調が変わっていたことにも、アスアドは
気付かなかった。その暖かな抱擁は、どこか母に似ていて安らぎさえ覚えた。


 翌日からアスアドは魔道兵団所属の兵士となった。魔道の才能が見込まれ、
また実戦での活躍も評価されたため、数年後にシャイラより第2魔道兵団の
将校へと推挙任命されることとなる。
 その際、催された宴で皇帝の命で剣舞を披露した。広間にいたのは、皇帝
とシャイラ、そしてまだ幼い皇太子シャムスという皇族3名、後は楽士たち
であったが、舞っている時に感じた身に纏わリ付くような楽士の男たちの
視線に鳥肌が立ちそうになるのを懸命に堪えた。
 宴の後、シャイラから決して自分のいないところで舞うことのないように
と命じられた。
 理由は告げられなかったし、尋ねることもしなかった。それをアスアドは
忠実に守っていた。

 なのに。

 どうして、今になって。

 意識がまた、ゆらゆらと揺らぐ。
 これは夢なのか、それとも。
 瞼が重い。そう感じるということは、やはり自分は眠っていたのだろうか。
 目を開ければ。
 そこには、何が見えるのだろうか。

 どうか、あの男ではありませんように。
 目覚めた時、傍らにいるのが。

 どうか、と祈るような思いで、アスアドは目を開いた。