『beguiling』


「今宵は無礼講故、皆存分に飲み明かすが良い」
 上機嫌で盃を仰ぐジャナム魔道帝国皇帝・ダナシュ8世の言葉が響くその
広間に集められた者たちは、目の前に並べられた豪勢な料理の数々と酒に、
それぞれに曖昧な表情を作った。
 先日の国境での教会との戦闘での成果を讃えようと急遽席を設けられた祝宴
であった。勝利への功績が華々しかった第2魔道兵団の将校であるアスアドと、
その副官を務めるハフィンにも特別に列席が許され、また同等の功績があると
認められた冥夜の剣士団からクロデキルドと、そしてやはり副官のメルヴィス
もその場にあったことから、今回の勝ち戦が皇帝にはよほど満悦であったの
だろう。
 無礼講だと言われたものの、それに喜んで従っているように見えるのは魔道
兵団の総帥も務める第一皇妃・シャイラぐらいで、他の皇妃はこの場には現れ
なかったし、皇太子であるシャムスもにこやかな表情ではあったが、やや控え
目にシャイラとは反対側の玉座の隣に座して、静かに食事に口を付けていた。
 しばらくして楽隊が呼ばれ、ジャナム特有の弦楽器の音色が広間の空気を
ゆっくりと染めていく。この音には慣れない、とメルヴィスは誰にも知られぬ
よう、僅かに眉を寄せた。どこか、ねっとりと絡み付くような旋律は、肌に
合わない。馴染むことなど、この先ないだろう。
「楽しんでおるか、クロデキルドよ」
 掛けられた声に、当のクロデキルドよりも先にメルヴィスが、そしてその
ほぼ正面に慎ましやかに腰を下ろしていたアスアドが顔を上げ、玉座の主に
目を向けた。
「ええ」
 簡潔過ぎる応えは、不興を買うものでこそなかったであろうが、にこりとも
せぬクロデキルドのその様子に、皇帝はふむ、と小さく呟きながら顎髭を撫で
ると、視線をゆっくりと左に流す。ひた、と目が合ってアスアドの肩が小さく
震えるのがメルヴィスにも見て取れた。
「余興を所望する」
 それが自分に向けられた言葉であるのだと気付いたアスアドが、一瞬皇帝の
隣の席にいるシャイラに戸惑ったような視線を投げかけ、だがすぐに畏まった
ように顔を伏せる。
「しかし、私には陛下に御満足頂けるような芸事は何も・・・」
「おや、そんなことはないだろう? アスアド」
 シャイラの赤い唇が、愉しげに弧を描く。そのすっかり砕けた口調は、彼女
の本来の姿だ。盃を手にしたまま玉座にもたれるようにして、俯いてしまった
部下に、酒精を帯びた声で促す。
「そうだねえ・・・久々に見せておくれよ、お前の舞いを」
「・・・そ、れは」
 舞い、とメルヴィスは頭の中でその言葉を反芻する。傍らのクロデキルドも
やや怪訝な表情で、そのやりとりを眺めている。
 踊る、というのか。
 アスアドが。
 ここで。
 それは一体、どのような。
「そなたらも興味があろう?」
 胸の内を言い当てられた気がして、メルヴィスは小さく息を飲む。興味と
言うべきものなのか、猛将として名を馳せているアスアドが舞うというのだ。
気にならない方がおかしい状況ではあるだろう。
「僕も久し振りに見たいです・・・どうだろう、アスアド」
「・・・シャムス殿下・・・」
 皇帝、皇妃、そして皇太子にまでこう言われてしまっては、もう。
「これを使うが良い」
 腰に帯びた短剣を、皇帝が自ら手にし、アスアドの方へと差し出す。これを
拒む術など、アスアドにあろうはずもなかった。
「お借り致します・・・」
 言葉通り恐縮しながら、アスアドが玉座に静かに歩み寄り、膝を付いて短剣
を丁重に受け取る。数多の宝玉をあしらった黄金色のそれを両手に捧げ持ち
ながら後ずさり、やがて一際深く礼をすると、広間の中央へと踵を返した。
「・・・・・何が始まるのだ」
 クロデキルドの呟きに、だがメルヴィスは応えられずにアスアドの所作を
見守る。
 ふと、アスアドがこちらを見た気がした。
 否、あの碧玉がどこか縋るように映したのは、恐らくクロデキルドであった
のだろう。だが、意識してのことではなかったにせよ、視界の中にメルヴィス
はいた。
 目が、合った。
 その貌が僅かに引き攣ったように見えた。
 そう思った次の瞬間に、アスアドの身体が、腕が、手にした短剣が鋭く空を
薙いだ。
 音が。
 消えた。
 あの耳障りな旋律は、確かに耳に届いているはずなのに、それを音として
捕らえられないのは、やはり。
 目の前で繰り広げられている光景が、鮮烈で。
 あまりにも目に印象的で。
 音があるのだとすれば、それはもはや聴覚ではなく視覚としてメルヴィスの
目を通して心に響いている。そしてその『音』は不快さというものを感じさせ
なかった。
「・・・・・剣舞、か」
 クロデキルドがもらした感嘆の声にも、メルヴィスは反応出来ずにいた。
だがクロデキルドも応えを求めてはいなかったし、その一言以外は終ぞ言葉を
発しなかった。
 アストラシアにも古より伝わる剣舞はある。だがそれも今では舞える者は
殆どおらず、メルヴィスも幼少の頃に1度見ただけではあったが、とても厳か
で神聖な儀式にも似たものであったと記憶している。
 だが、これは自分が知っているものとはまるで違う。
 アスアドが舞う。
 剣が、閃く。
 腕が、身体が撓る。
 しなやかな体つき、身のこなしは年相応の男性の匂いというものを感じさせ
ない。だからといって、女性のようなたおやかさを備えているわけでもない。
 不思議な生き物だ、とメルヴィスは思った。同じ人間、同じ男、なのに。
 これは、本当にあの自分の知るアスアドなのか、と浮かんだ戸惑いに、だが
すぐにメルヴィスは口元を自嘲するように僅かに歪めた。
 自分が、どれだけアスアドのことを知っているというのだ。このジャナムに
来てから数年、顔を合わせる機会は多かっただろうけれど、特別親交を深めて
きたわけでもない。彼について知っていることが、一体どれほどあるだろう。
 知らないことばかりではないか。知ろうともしなかったではないか。
 ああ、だから今。
 今頃、今更、こんな時に。
 知らなかった彼の姿を見せつけられ、こんなにも。
「・・・・・ふ」
 微かに笑ったようなその声に、クロデキルドが僅かに視線をメルヴィスの方
へと泳がせる。どうしたのだと問おうとして開きかけた唇は、またすぐに引き
結ばれ、何事もなかったのように双眸はまた広間の中央へ移された。
 自分の知らない男の表情がそこにあった。
 そしてそれをクロデキルドは見なかったことにした。そうすべきなのだ、と
ただ漠然と思った。そっと逸らした瞳を、アスアドへと戻す。アストラシアに
伝わる剣舞というものを、クロデキルドは文献でしか知らないが、それを読み、
思い描いていたものとはまるで違うのだなと感慨深げに目を細める。
 やがて、微かな金属音が静寂を断ち切った。静寂、という言葉は正しくは
なかっただろう、広間には楽隊がいて今も緩やかな旋律を奏でている。ずっと、
そうアスアドが踊っている間も音は絶えまなく流れていた。
 音を音として聴覚がようやく捕えたのだ。
 やや乱れた息遣いが聞こえる。剣舞を終えたアスアドが床に跪くようにして
荒い呼吸を整えていた。
 汗が、こめかみから紅潮した頬を伝う。一筋、二筋。褐色の肌を伝い落ちて
いくのをメルヴィスの瞳が追う。小さく、喉が鳴った。
 俯き加減だったアスアドの顔が、どこかけだるげな所作で持ち上がる。玉座
を仰いだかと思ったそれが、一瞬間を置いて傾くように振り返った。
 碧の瞳が見ていた。
 メルヴィスを映したそれは、とろりとしてまるで夢の中にいるようで、その
眼差しも表情さえやはり普段の彼のものではない。恍惚とした貌に、何かが
ざわめく。
 身体の奥で疼いた何かの正体を自覚するより先に、碧の視線はまた正面へと
移る。改めて居住まいを正しつつ玉座に歩み寄ったアスアドが、黄金の鞘に
収められた剣を恭しく両手で捧げ持った。
「・・・・・見愡れたぞ、アスアド」
「・・勿体なき御言葉・・・」
 玉座から立ち上がったダナシュ8世が、愉しげな笑みを満面にして剣を受け
取る所作で伸ばしたであろう手の行き先を変えた。
「っ、・・・・・」
 指に大粒の宝石をあしらった指輪を煌めかせ、アスアドの肌よりも濃い色を
した長い指が、その顎を捕えた。
「そなたが女ならば・・・・・」
 その様子を無言で眺めていたシャイラの表情が、彼女を取り巻く空気が温度
を下げたような気がした、だが。
「・・・・・シャムスに娶らせるのも悪くないと思ったが。のう、シャムスよ」
「ち、父上・・・アスアドは優秀な将官なのです、そのようなお戯れは・・・」
「・・・ふふ、・・・あはは、次期皇妃になり損ねたねえ、アスアド?」
 本気とも冗談とも知れぬ皇帝の言葉にシャムスは多少なりとも動揺していた
ようであったが、シャイラは瞳は冷えたまま赤い口元に綺麗な笑みを敷いて
己の部下を見下ろした。
「・・・・・恐れ多い、ことでございます」
 跪いたままの背からは、先程までのような官能を纏った風情は消えているが、
あの剣舞を披露したアスアドが見せたどこか蠱惑的な貌に、ダナシュ8世の
食指が多少なりとも動きかけたことに、聡いシャイラが気付かなかったはずが
ない。すぐに空気を読んだであろう皇帝の言葉を、シャイラがそのまま受け
取ったとも思えなかったが、ひとまずアスアドが宮中のドロドロとした厄介事
に巻き込まれずに済んだのは幸いと言えよう。
「・・・では、私はこ・・・・・」
 玉座の前から辞そうと立ち上がりかけたアスアドの身体が、不自然に傾いた。
「・・・・・!」
「アスアド様!」
 倒れる、と。幾つもの腕が差し伸べられ、そのひとつに力を失った身体が
抱きとめられた。
「・・・・・へえ・・・」
 意味ありげな笑みを含んだ艶っぽい声に、ハッとしたように腕の中を見遣る。
 咄嗟に、とはいえ。
 自分は、何を。
「メルヴィス! アスアド殿は・・・!」
 すぐさま駆け寄ったクロデキルドが、メルヴィスの腕に抱きかかえられた
まま、ぐったりとして動かないアスアドの様子を伺う。そのすぐ後ろからは
彼の副官であるハフィンも強張った顔で覗き込んでいるのが見えた。
「・・・・・先日まで前線にいて、先頭に立って戦っていたのです・・・相当
疲れがたまっていたのだと」
「そう、か・・・そうだな」
 疲労と、そして緊張。それがここにきて限界に達したのだろう。くたりと
意識を失った身体は、それなりの重みを腕に伝えてはきたが、思っていたより
ずっと軽い。剣士団のような鎧を身に付けていないからというのもあるのだ
ろうが、意識がないとはいえこんなにも無防備に己に身を預けてくるアスアド
など、やはり見たことがない。有り得ない、とでも言おうか。
 だからこそ。
 手を、伸ばした。
「皇帝陛下」
 メルヴィスの言葉にクロデキルドは軽く瞑目し、やがてゆっくりと皇帝の
前に進み出た。
「せっかく催して頂いた宴ですが、アスアド殿を休ませて頂きたく・・・我々
も、いずれまた起こるであろう教会との戦いに備え、それぞれの持ち場へと
戻らせて頂くこと、お許し願いたい」
「ふむ、・・・・・良かろう」
 クロデキルド、そしてメルヴィスの腕の中に抱かれたままのアスアドとを
交互に見遣り、ダナシュ8世は顎を撫でつつニヤリと笑って頷く。その傍らで
シャイラも見慣れた愉しげな笑みを浮かべた。
「姫君の忠実な剣士が、ねえ」
 それが誰に向けられた言葉であったのか、その場にいた誰もが気付いている。
 クロデキルドも。
 そして、メルヴィスも。
「気にすることはない」
 広間を出るとすぐ、クロデキルドは告げた。
「私の腕では咄嗟にアスアド殿を支え切れたかどうか分からんからな。そなた
がいて良かった、メルヴィス」
「・・・・・姫様」
 色恋沙汰には疎いであろうとはいえ、聡い女性だ。どこまで気付いたのか、
それとも何も気付いてはいないのか。気付いてなどおらぬ、と敢えてそう振る
舞っているのかもしれない。
「本来なら、真っ先にこの私がアスアド様をお助けせねばならないというのに、
誠に面目ないのであります・・・」
 クロデキルド、そしてアスアドを抱き上げたまま広間を出て王宮内の廊下を
歩くメルヴィスの後を、ハフィンが項垂れながら続く。
「アスアド様の舞いがあまりにも素晴らしくて、何やら夢見心地でありました
・・・とはいえ・・・」
「ハフィン殿が見蕩れた気持ちは分かる。とても、・・・美しかった」
 素晴らしい。美しい。ただ、それだけではなかった。
 このアスアドに忠実な副官は、感じなかったのだろうか。
 あの舞いは、雄の劣情を呼び起こす。
 もしかしたら、アスアドにはそれが分かっていたのではないか。
「・・・・・」
 分かっていて、皇帝は。
「さて、アスアド殿をどこで休ませようか・・・このまま魔道兵団の兵舎に
送り届けて良いものか」
「兵舎のすぐ近くに、救護室も備えた休養施設が・・・そこにお連れするのが
良いかと思うのであります」
「そうか、・・・では済まぬが先にそちらに赴いて、あまり騒ぎにならぬよう
手配しておいては貰えぬか、ハフィン殿」
 クロデキルドの言葉に、ハフィンが大きく頷いた。
「了解であります。では、・・・アスアド様を宜しくお願い致します」
「うむ」
 王宮を出てすぐに駆け出して行ったハフィンの背を見送りながら、昏々と
眠るアスアドを起こしてしまわないよう、メルヴィスは時折様子を伺いながら
慎重に歩を進める。
 寝顔というものは、世間一般でもよく言われることであるようだが普段の
その人の表情に比べ、幼く見えるものだ。アスアドも例に違わず、元々やや
童顔であるのに加え、こうして眠る貌はロベルトともさほど変わらぬ少年の
ようにも見える。
 無垢な、寝顔。
 それは、つい先程までアスアドが見せた、あの淫靡とも言える貌とはまるで
違う。だが、あの顔は、表情は彼の中に確かに存在するのだ。
 それを、見た。
 どのような思惑が、そこにあったのかは分からない。
 それでも、知ってしまった。
 彼の、アスアドの、恐らく見られたくはなかったであろう一面を。
「もう、・・・手遅れだというのか」
 口に出して言うまでもない。
 一瞬であれ、メルヴィスは夢想していたのだ。
 己の腕の中でしなやかに肢体をくねらせる、アスアドの姿を。
「メルヴィス」
「・・・・・はい」
「いつか、我等がこの国を去る時・・・アスアド殿を」
「・・・・・」
「・・・いや、今はそういう話をするべきではないな」
「・・・・・・・」
 いつか。
 来るべき、その日には。

 その時こそ。