『tasty』


「では、こちらは私が魔道兵団総帥閣下の方へ提出させて頂きます」
 チェックし終えたばかりの書類をメルヴィスが受け取ると、クロデキルド
はゆっくりと椅子から立ち上がり、腹心の部下に苦笑混じりの瞳を向けた。
「済まないな・・・メルヴィス」
「いいえ。では、行って参ります」
 小さく頭を下げ、踵を返す。壁際に佇んでいたロベルトに、しばし姫様を
頼むと告げると、剣士団詰所を後にした。
 らしくなく敢えて回りくどい言い方をしてしまったが、魔道兵団の総帥と
いうのは、このジャナム帝国の第一皇妃シャイラだ。皇帝ダナシュ8世が
クロデキルドを第4皇妃にと密かに望んでいるということもあり、彼女に
してみればクロデキルドの存在は面白くはないだろう。あからさまにでは
ないにしろ、そういった負の感情を持つ相手の元へ、例え自分が傍らに控え
ていたとしても、向かわせたくはないとメルヴィスは考え、余程のことが
ない限りはこうして自分1人で出向くことにしていた。
 詰所から一歩外に出ると、南国の強い陽射しが照りつけてくる。僅かに
目を細め、メルヴィスは魔道兵団本部へ続く道を歩き始めた。



 本来なら貴族でも直属の部下でもない一介の剣士が単独で皇妃に会うこと
など叶うはずもないのだが、その辺りはこちらの事情も察してのことなのか
目通りはいつも簡単に許され、シャイラの方も魔道兵団総帥としての態度で
書類を受け取り、メルヴィスも用件のみでその場を下がる。クロデキルドが
この場にいたなら、また違ったのかもしれないが、ともあれ今回も無事役目
を果たした安堵に、帰路についたメルヴィスは小さく溜息をついた。やはり
多少なりとも緊張はしていたらしい。戦場ならばいざ知らず、宮廷における
諸々の駆け引きは得手ではない。馴染みたいとも思わない。
 擦れ違う者達の目は、この国に身を寄せるようになってから1年経った
今でも、どこかよそよそしさと奇異なものを眺めるような色合いが消える
ことはない。だがもう、それにも慣れてしまった。この国に溶け込むつもり
など、毛頭ない。
 いずれ。
 必ず我等の。
「メルヴィス?」
 遠く故国を思い、黙々と歩いていれば、不意に名を呼ばれた。
「・・・アスアド、か」
 馴染まぬ異国にあって、彼の声と姿だけは目に耳に印象的であり、違和感
なく届いた。
「真直ぐに前を向いてこちらに歩いてくるくせに無反応だから、寝ながら
歩いているのではないかと思った」
 アスアドが、というより周りが視界に入っていても、それとして捕らえ
られていなかった。不覚、と小さく苦笑しながら目の前に立つアスアドを
改めて見れば、その手に大きな籠を抱えている。
 その視線に気付いたのか、手元を見遣ってアスアドが笑う。
「ああ、これか。実家の庭で採れた果物なのだ・・・母が持たせてくれた
のだが、よければ・・・クロデキルド様、・・・それから剣士団の皆にも
食べて貰えればと」
「そうか」
 クロデキルドが口にするものは、飲み水に至るまで良からぬものが混入
されてなどいないかと密かに目を光らせてはいるが、アスアド自ら持参した
ものなら問題はないだろう。籠の中の瑞々しい果実は、だがアストラシア
では見慣れない種類のもので、ここジャナムに来てからもまだ口にしたこと
はなかった。
「皮を向いて中身を取り出せば良いのか?」
「え? ああ、そういう食べ方で構わないのだが・・・」
 こうして食べる方が美味しい、と。アスアドは籠の中から1つ手に取ると
そのまま果実にかぶりついた。瞬間、柑橘類特有の香りが鼻孔をくすぐる。
アスアドの真っ白な歯が皮ごと果肉を噛み、豪快に齧り取った。その様を、
メルヴィスは半ば呆気に取られたように見つめていた。
 皮の中の果実は水分を多く含んでいるようで、極淡い黄色の果汁が溢れ、
アスアドの腕を伝い、ゆっくりと零れ落ちる。
 折り曲げた肘から離れた雫が地面を穿とうとした、時。
「・・・っ、あ」
 不意に腕を引かれたアスアドの緑色の瞳が、大きく見開く。驚いたような、
戸惑ったような表情を視界の端に捕えながら、メルヴィスは引き寄せた腕、
その褐色の肌に走った果汁の跡を、やおら舐め取った。
 やや高く持ち上げるようにして、肘から手首、そして手の甲から指先へと
舌を滑らせれば、アスアドの手が大きく震え、食べかけの果実がポトリと
地面に落ちて転がった。
「・・・・・お前の言う通りだな」
 感心したように呟けば、砂塗れになって地面に転がる食べかけの果実を
ぼんやりと目で追っていたアスアドが、ハッとしたように掴まれた手を振り
払って、咎めるようなややきつい目を向けてくる。
「な、何が」
「こうして味わうと旨いな、と」
 アスアドの腕を掴んだ時に指先に付いた甘酸っぱい果汁を舐め取りながら
メルヴィスが告げるのに、アスアドの頬が一気に赤く染まった。
「な、っそういう、意味じゃ、な・・・こ、こんな食べ方、普通は」
「確かに、姫様に勧められる食べ方ではないな」
「ととと当然だっ!」
 果物籠を抱え、吃りながらも憤慨するアスアドにメルヴィスは一歩近付き、
その耳元に低く告げる。
「ならば、俺だけということにしておけ」
 誰が。
 何だって?
「え、・・・な・・・・・」
 その言葉の意味を理解する前にメルヴィスが身を退き、アスアドが手に
していた重みが消える。
「では、これは有り難く頂いて行く」
 果物籠を手にしたメルヴィスが擦れ違いそう告げるのを、まだ呆然として
立ち尽くしていたアスアドが聞き咎め、慌ててその後を追う。
「そ、それは俺がクロデキルド様に」
「・・・姫様、に?」
「・・・・・と、お前や・・・剣士団の・・・」
 やや歯切れ悪く答えるアスアドの、俯き加減の頭を横目で眺めながら、
結局そのまま剣士団詰所へと続く道を並んで歩く。そういえば、アスアドと
2人だけでこうして歩くことなど、今までになかったような気がするな、と
メルヴィスは思う。大抵は、傍らにはクロデキルドもしくはロベルトがいた。
 それにしても、先程の己の行動はどうしたものかと思い起こす。衝動的、
というべきか。伝う雫を拭い去ろうというつもりだったのなら、他にもっと
方法はあったはずだ。咄嗟にとはいえ、そうする必要性はあったのだろうか。
 そして、「俺だけに」と告げたのは、おそらく深い意味はなかったのだと
思う。ただ、自分以外にあのようにアスアドに触れようとする者が現れるの
は不愉快だ。それだけのことだ。
「・・・・・それだけ、だと?」
 アスアドの肌に触れた感触と、果汁の味とがまだ舌先に残っている。
 甘酸っぱく、そして微かな苦味。
「・・・・・何だ?」
 思わず声を漏らしてしまえば、隣を歩くアスアドが仰ぐように怪訝な目を
向けてくる。
 目が、合う。
 パチン、と。
 何かが弾けたような気がした。
「・・・・・いや」
 何でもない、と止まりかけた足をまた踏み出す。
 そういうことか、とメルヴィスは口元を小さく吊り上げた。

 こんな形で自覚してしまうなんて、と。
 知らず芽吹かせていたものの正体に気付き、瞠目する。

 このままで終わらせるつもりなどない。
 だが。

「今は、まだ・・・その時ではない」

 胸の奥で呟いて、口の中に微かに残る苦味を噛み締めた。