『FU RA CHI』



「あいにく、見ての通りの小さい宿なので・・・部屋は2つしか御用意出来ないん
ですが・・・」
 宿屋の主人が申し訳なさそうに白髪混じりの頭を掻く。
 その日、日が暮れる前に一行が辿り着いたのは、深い森を抜けてすぐのところに
ぽつんと建っていた小さな宿屋だった。2晩続けての野宿は、アルトもアスアドも
メルヴィスも、女性であるクロデキルドでさえ特に苦にもしていなかったが、やはり
屋根のある場所のしかも暖かいベッドで眠れるのは有り難い。火の番もこの辺りに
出没する危険生物に対する見張りもせずに済むのだから、全員が久し振りに心身共に
休息がとれるだろう。
「寝台の数は?」
 メルヴィスが問えば、宿屋の主人はやはり低姿勢に答える。
「各部屋に2つあります。少々粗末ではありますが、寝心地と清潔さは保証しますよ」
「ならば問題はないな」
 クロデキルドも頷き、アルトもグンと伸びをしながら人好きのする笑顔を見せた。
「んじゃ、俺と一緒の部屋にしようぜ、クロデキルド」
「うむ、私も貴殿と改めて語り明かしたいと思っていたところだ」
 アルトの誘いに快く頷いたクロデキルドに、アスアドが大袈裟な程に後ずさる。
「だ、団長殿とクロデキルド様が同室・・・」
「では、私はアスアドと隣の部屋で休ませて頂きます」
 アスアドが呆然と呟くのを遮るように、メルヴィスはクロデキルドたちの前に進み
出ると、頭を下げながら続ける。
「積もるお話もあるでしょうが、あまり夜更かしはなさいませんよう」
「釘を刺してくれるな、メルヴィス。アルト殿も疲れているだろうからな。その辺り
は心得ている」
「はい。では、おやすみなさいませ」 
「ああ、メルヴィスも・・・アスアド殿も、今夜はゆっくり休まれるよう」
「おやすみ! また明日なー!」
 疲れている様子など微塵も見せず、年若いリーダーと主君と仰ぐ姫とが左右並んだ
客室の1つに消えるのを見送り、まだ動揺しているのか放心したままのアスアドの肩
をメルヴィスが軽く叩いた。
「俺たちも行くぞ」
「え、・・・あ・・・・・」
 促されるままフラフラと空いている方の部屋へと足を踏み入れ、続いてメルヴィス
が入って扉を閉めた途端、弾かれたようにアスアドが振り返る。
「ま、待て・・・お前、何故そんな落ち着いていられるのだ!」
 詰め寄るアスアドに怪訝な目を向けたメルヴィスだったが、やがて合点がったのか
小さく笑みを浮かべてみせた。
「あの2人に限って、間違いが起こるということはあるまい」
「っ!」
 アスアドは、クロデキルドがまだ子供とはいえ男性であるアルトと同室で一夜を
過ごすということを気にしているらしい。だがそれは、メルヴィスにしてみれば杞憂
でしかなかった。
「お互いに、そういった意味で意識したことすらないだろう」
 メルヴィスの言葉に、確かにあの2人の間に色恋の気配は全く感じられない、と
アスアドはやや気まずげに俯いた。
「邪推してしまった・・・自分が恥ずかしい」
 今頃、2人は様々な話に花を咲かせ、時には真剣に、時には笑いながら語り合い、
時を過ごすのだろう。クロデキルドにもアルトにも失礼なことをしてしまった、と
アスアドは項垂れる。
「それとも、・・・羨ましいのか?」
「なっ、・・・何を言う! そんなこと、俺は・・・」
 途端、憤ってみせながらもどこか気恥ずかしげに否定してくる様に、メルヴィスは
口元をやや歪める。その微妙な笑みをアスアドが不審に思う前に、メルヴィスの足が
一歩、前と踏み出した。
 間を詰められ、若干見上げてしまうようになってしまう身長差をアスアドが密かに
悔しがっていることを知ってか知らずか、上目遣いにならぬよう顔を上げて真直ぐと
半ば睨むように見つめ返してくる瞳に、メルヴィスの顔が大きく映る。
 そんな近付くなと訴えるように数歩後ずされば、同じ歩数だけまたメルヴィスも
前に歩く。何だ、何なんだと疑問に思いながらもそんなことを繰り返していくうちに
アスアドの背が壁に触れた。
「・・・・・メルヴィス」
 何をしているんだ、と。咎める声色で名を口にすれば、やや身を屈めるようにして
メルヴィスの顔が近付く。これ以上は後ろに下がれず、なら横に身をずらそうと顔を
背けたアスアドの耳元、低い声が降りて来た。
「それよりも、今夜俺と同じ部屋で眠ることになったのだという事実をよく理解して
貰いたいものだ」
「っな、・・・・・」
 耳朶に響く声と、告げられた言葉にアスアドは知らず身を震わせ、やがてパチンと
音がしそうなほど大きく瞬きをすると、その目元を微かに朱に染めた。
「メルヴィス、お前・・・っ」
 まさかという思いで見返した瞳の中に覚えのある色を見付けて、アスアドは小さく
息を飲む。口元に微笑を浮かべたメルヴィスの極至近距離にあった顔が、またグッと
近くなり、その先に起こるだろうことを予感して思わず目を閉じてしまう。
「・・・可愛らしい反応をする」
 笑う吐息は、まだすぐ近くにある。目を開ければ、きっとメルヴィスはあの微笑み
のまま、自分を見つめているだろう。どうしたらいい。思い切って目を開けて、正面
から睨み付けてやって、そして。
「安心しろ。こんな壁の薄い場所で無体はしない」
「へ・・・?」
 突き飛ばして、さっさとベッドに潜り込んでしまおう。そう決めて、さあ実行に
移そうとした時にさらりと告げられた言葉に、妙な声がもれた。同時に、閉じていた
目もしっかりと開いて、どこか呆気にとられた貌がメルヴィスを見上げている。
「・・・し、しない・・・?」
 確かめるように繰り返せば、間近にあったメルヴィスの顔がゆっくりと離れていく。
「公私はわきまえている」
 そうだ。この忠義に厚い真面目な男が、隣にクロデキルドやアルトがいる宿屋の
1室で、不埒な行為に及ぶはずなどないのだ。
 訪れた安堵に大きく息をつけば、離れてもまだ近いところにあるメルヴィスの顔が、
静かに傾く。
「それとも・・・期待していたのか?」
「き、っ・・・・・」
 期待など、と。反論しようとした言葉は、丸ごとメルヴィスの唇へと飲み込まれる。
咄嗟に食いしばることも出来なかった歯の間から忍び込んできた舌がアスアドのそれ
を捕え、絡まり、口腔を存分に侵していく。
「ふ、ぅ・・・・・、っ・・・」
 息が上手く接げずに胸元を叩いて抗議すれば、ようやく唇が解放された。
「な、・・・ん・・・しない、と・・・っ」
「無体はしない、と言った」
「!」
「おやすみのキスだということにしておけ」
 ややかさついた指先が、濡れたアスアドの唇をくすぐるように拭う。その感触に、
また目を閉じてしまいそうになるのを堪え、アスアドは今度こそメルヴィスを押し
退けるように突き飛ばした。とはいえ、僅かに一歩退いただけのメルヴィスは至って
涼しげな顔だ。それがまた、口惜しさに拍車をかける。
「どけ! 馬鹿! 寝る!」
 憤りに涙目になりながら怒鳴り付けたところで、メルヴィスにしてみれば、やはり
可愛いなという感想しか浮かばない。
「おやすみ、・・・アスアド」
「・・・・・っ、お・・・やす・・・み」
 挨拶をされてしまえば、つい返してしまう。律儀だ。そして、可愛らしい。
 アスアドが奥のベッドに潜り込み、頭から毛布を被ってしまうのを見届けると、
メルヴィスもその隣のベッドへと腰を下ろした。
 公私はしっかりとわきまえてはいる。それでも、この自制心は褒めて欲しい。
 部屋に静けさが戻ってくると、微かに話し声のようなものが隣から聞こえてくる。
思っていた以上にこの壁は薄いらしい。もしかすると、さっきのアスアドの怒鳴り声
は聞こえてしまったかもしれないが、こちらに様子を伺いに来る気配もなかったから
要らぬ心配をされずには済んだようだ。
 ちらりと隣のベッドを見る。息を潜めてこちらの行動に神経を張り巡らしているの
かと思えば、自然と苦笑が浮かぶ。
「ゆっくり身体を休めておけ」
 返事は期待していなかったのに、「分かっている」と、くぐもった声が聞こえた。

 明日は彼よりも早く目を覚まして、寝顔をじっくりと堪能させて貰おう。そう決め
て、メルヴィスもベッドへと横たわり、毛布を引き上げると目を閉じた。