『lyric』


「そこの若いのおおお! ひとつ頼まれてくれんかのおおお!」
 所用を済ませて城に戻った時には、もう夜も遅い時間になってしまって
いた。帰りを待っているであろうクロデキルドたちに報告すべき事を頭の
中でまとめながら工房を通り掛かった時、背後から不意打ちのように掛け
られた大声に、メルヴィスはやや苦笑を浮かべながら振り返った。
「何か?」
 尋ねれば、大きな腕がにゅっと差し出される。そして目の前で開かれた
手の平の上には、繊細な細工が施されたリングが慎ましやかに乗っていた。
魔力を高める効果があるというそれは、薄暗い工房の中でも淡い輝きを
放っている。
「こいつを赤い髪の若造に渡してやって欲しいんじゃああああ!」
「赤い髪、・・・・・アスアドのことか」
「あの帝国の若造はそういう名前じゃったかのおおお!」
 首を捻りながら、相変わらずの大声が工房に響き渡る。傍らに立っている
ムーロは慣れているのか、いつもの穏やかな笑顔でこちらを眺めていたが、
メルヴィスと目が合うとゆっくりと口を開いた。
「ちょっとだけサイズ直しをって持ってきていたんだけど・・・あの人、
引き取りに来るの、忘れてるみたいなんだ」
 ムーロがそう告げるのに、メルヴィスはなるほどと頷く。事情は分かった
が、何故自分に託すのだろう。怪訝な表情から察したのか、ムーロがその
疑問を解消すべく、続けて言う。
「騎士団の人たちは、あの人と凄く仲が良かったかなと思って。だから、
通り掛かったらお願いしてみようって話してたところなんだ」
 凄く仲が良い、という表現は些か大袈裟な気もするが、だからといって
険悪な仲でもないので、あえて否定はしない。
「まあ、良いだろう・・・預かる」
 そう言ってリングを受け取ろうと伸ばしかけた手を、だがメルヴィスは
指先が触れる直前でその動きを止めた。
「どうしたあああ!」
「ああ、・・・貴殿を見込んで、頼みたいことがあるのだが」
 そして告げられたメルヴィスの言葉に、ゴルヌイは任せておけと声を張り
上げ、聞くとはなしに聞いてしまったムーロは小さく首を傾げた。



 ゴルヌイに再度リングを預けたままメルヴィスは騎士団詰所へと向かい、
帰還に気付いて振り返ったクロデキルドの前に進むと、ここ数日の成果を
報告した。頭の中でまとめたものを簡潔に述べれば、クロデキルドは頷き、
微笑んで部下を労った。
「今日はゆっくり休むといい。リウ殿には私から報告しておこう」
「有難うございます。では・・・御言葉に甘えて、失礼致します」
 一礼し、スッと踵を返して歩き出したメルヴィスの背を、そのやりとりを
見ていたロベルトが怪訝な顔で見送る。いくら休んで良いと言われたとは
いえ、いつもクロデキルドの側に控えているメルヴィスが、こんなあっさり
退室するとは。もしや本当に相当疲労困憊しているのか、それともどこか
具合でも悪いのではないかと眉間に深々と皺を刻んで立ち尽くしていると。
「ロベルト、少し仮眠をとったらすぐに戻る。俺がいなくても、気を抜くな」
「分かってます! メルヴィス殿はゆっくり休んでて下さい!」
「・・・・・そうだな」
 口に出してこそ言わないが日に日に頼もしくなりつつある少年を肩ごしに
そっと見遣り、小さく微笑むと部屋を後にする。ゆっくり休めと2人から
言われたものの、だがメルヴィスとしては用を済ませればすぐに戻るつもり
でいた。
 その用とは、ロベルトに告げた『仮眠』をとることではない。
「細工はそう時間は掛からんと言っていたな」
 確認するように呟きながら、エレベーターではなく階段を使って1階に
ある工房へと向かう。メルヴィスが仕上がりはと尋ねる前に、ゴルヌイは
もうとっくに出来上がっているぞとまた大声で告げ、先程のリングを今度
こそメルヴィスの手に委ねた。
「さすが、・・・匠の技と言うべきか」
 手にした指輪を目の前にかざし、その出来栄えを称えれば、ゴルヌイは
このくらい当然だとばかりに鼻を鳴らす。
「褒めても何も出んぞおおおおお!」
「感謝する、ゴルヌイ殿」
 礼を述べ、手の中の指輪をそっと握りしめるようにして手の平で包み込む。
冷たい金属が、やがて己の体温に馴染んでいくのを感じながら、メルヴィス
は持ち主の元へとやや足早に向かった。
 だが、階段を昇り向かった先には彼の部下であるナキルとハフィンだけが
いて、アスアドの姿はない。まさか入れ違いに工房に行ってしまったのだ
ろうかと身を翻せば。
「もしかして、アスアド様に何か御用でありますか」
 やや遠慮がちにハフィンが問うてきたのに、立ち止まって頷く。すると
2人は顔を見合わせ、やがてナキルが子供のような笑顔を見せながら、指を
ついっと前方斜下に向けた。
「お散歩っす」
「・・・こんな時間に」
「おやすみ前の散歩っす。多分、詰所を覗いて・・・その先は知らないっす」
「・・・詰所」
 そこにいる女性の顔を思い浮かべたメルヴィスの表情が僅かに翳る。だが
それはナキルにもハフィンにも悟られないほどの変化で、すぐに押し隠して
しまったから気付くはずもなかっただろう。
「分かった」
 小さく言いおいて、2人に背を向けるといつになく乱暴に床を踏み締め、
階下を目指す。彼が詰所に立ち寄ろうとしたとして、夜も遅い時間に特別な
用もないのに中に入ってクロデキルドと極自然に会話を交わすことが出来る
とは思えない。傍目から見て、あんなにもあからさまに、だが健気なほどに
純粋な想いをアスアドはクロデキルドに抱いている。そして、メルヴィスに
対して恋のライバルとしての目を向けているということも知っている。
 ライバルになど、なろうはずもないのに。
 それでも、アスアドが自分のことを、メルヴィスの望む形ではなくとも
意識しているのだ。強く。無関心でいられるよりは、ずっと良い。
 だが、現状に甘んじているのにも限界はある。自制心は強い方だと自負
してはいても、自分を素通りしてクロデキルドに向けられるアスアドの笑顔
が、心の奥を軋ませる。
 悟られてはいけないと思うのに、気付いて欲しいと思ってしまう矛盾を
抱えている。
 恐らく、叶わぬ恋をしている。
 そう思うのに、恋う気持ちは捨てようがない。
 アスアドとて、それは同じだろう。
「だが、俺は・・・」
 否、同じようでいて性質は異なっている。
 もっとずっと欲に塗れたものを、自分は胸の内に孕んでいる。



 確信に近い形で詰所には立ち寄らず、そのまま湖畔へと足を向けた。昼間
はシャバックたち海賊や農作業をするヤディマやその手伝いに駆り出された
力自慢の者たちがいて、それなりに賑やかな場所ではあるが、今は人の気配
はない。ひとりを除いては。
 月明かりが湖面を淡く照らす中、どこかぼんやりとした様子で佇む人影を
メルヴィスの瞳が捕えた。闇に沈んでも、その髪は燃えるように紅く目に
焼き付けられる。触れれば、どんな感触がするのだろう。
 しばらくの間、声をかけることも近付くことも忘れて見つめていれば、
自分を見ている視線に気付いたのだろうか、アスアドは弾かれたように振り
返り、そこにメルヴィスの姿を認めて僅かに表情を強張らせた。
「・・・・・何か」
 用でもあるのかと問う瞳にすぐには答えず、ただ足を踏み出す。一歩一歩
距離を詰めていけば、アスアドは固い表情のまま一歩後ずさろうと片足を
浮かしかけて、だが思いとどまったように逆に一歩メルヴィスの方へと足を
進めた。
「用があるなら、手短に願いたい」
 この言葉の響きも酷く素っ気無い。やや見上げるような視線を真直ぐに
受けとめ、メルヴィスは前触れもなく手を伸ばした。
「な、・・・」
 逃げる隙を与えずに掴んだ腕を軽く引く。驚愕に目を見開いたアスアドの
どこか幼げな表情に満足して、メルヴィスは口元を弛めた。
「何をする・・・っ」
 メルヴィスの行動を咎めるように向けられる視線を軽く流し、手首を捕え
ていた手を持ち上げる。アスアドがそれを振り払おうと力を込める直前、
もう片方のメルヴィスの手が静かに指先に重なってきた。
 微かに冷たく固い感触が薬指を撫でるように指先からその根元へと伝わる
のに小さく手が震える。悟られたくなくて手を引けば、今度はすぐに解放
された。
「・・・・・?」
 怪訝にメルヴィスを見つめ、そして手元に視線を落とす。夜目にキラリと
輝くものが、アスアドの指に収まっている。
「ゴルヌイ殿から預かった」
「・・・あ」
 告げられて、修理を依頼していたリングの存在を思い出す。指に嵌って
いるのは、今朝方工房でゴルヌイに預けたものに相違なかった。
「っ、・・・・・あ・・・・・」
 自分が引き取りに行くべきものなのに。すっかりそれを失念していた失態
と、それをよりによってメルヴィスに託けられたという事実に、アスアドは
告げるべき言葉を詰まらせた。暫し視線をうろうろと落ち着きなく彷徨わせ、
やがて観念したようにメルヴィスに向き直ると小さく、それでもしっかりと
目を合わせて告げた。
「・・・・・有難う」
「・・・いや・・・・・」
 礼を言われるとは、実は思ってはいなかった。期待もしていなかった。
内心の動揺を悟られないよう、それでも胸に満ちる温かなものがメルヴィス
の口元を綻ばせる。
 メルヴィスが浮かべた笑みに、アスアドの瞳がパチンと音でもしそうな程
大きく瞬きをする。それを合図にしたかのように、後ろで結わえた髪を揺ら
して踵を返せば、追うような掠れた声が耳に届いた。
「あ、・・・・・」
「・・・何だ?」
「・・・・・な、んでもない」
 あまりにもあっさりと立ち去ろうとするから、つい弾みのように呼び止め
てしまうような声が漏れてしまったのだろう。お互いにそう考え、アスアド
は口を閉ざし、メルヴィスも振り返ることなくその場を離れて行く。
 広い背を何とはなしに見送ってしまいながら、半ば無意識に指に嵌められ
た指輪をアスアドの指が撫でる。そして、ふと違和感のようなものに手元に
視線を落とした。
「・・・・・?」
 メルヴィスの手によって嵌められたそれは、一見して何もおかしなところ
はない。普通に手渡せばいいものを、わざわざ手をとって指に嵌めるような
ことをするから、妙な感覚に陥ってしまったのかもしれない。
 だが。
「・・・まさか」
 リングに指を添え、ゆっくりと回すようにして引き抜く。目の前に掲げた
リング、その表面ではなく指に触れる裏面にアスアドは月明かりだけが頼り
の中、目を凝らして拭い切れない違和感の正体を確かめた。
 滑らかであるはずの裏面。嵌めてしまえば隠れて見えないそこに、小さく
何か彫り込まれていることに、アスアドは気付いた。
「文字、・・・か・・・何だ、これは・・・」
 それなりに夜目は利く方ではあるものの、彫られた文字は見たこともない
形のもので、それが何なのか読み取ることは出来なかった。呪の類いなのか、
それとも。ゴルヌイのことだ、良からぬものをわざわざ彫り込むようなこと
は、するまい。とはいえ、アスアドが彼に依頼したのはサイズ直しだけだ。
頼まれたこと以上のことを、あの頑固そうな男が確認もとらず施すだろうか。
 とにかく、この文字の意味を彫った意図を聞かねばとアスアドは真直ぐに
工房へと向かった。だが、そこにいたムーロに申し訳なさそうに彼が不在で
あることを告げられる。
「ついさっきまで、いたんだけど」
「そうか・・・いや、急ぎの用ではないので。また明日にでも改めて・・・
御礼も申し上げねばならないですし」
 笑って告げながら、こういう文字の類いに詳しい者が誰かいなかったかと
城にいる面々の顔を思い浮かべる。書に関することなら、ムバルになるの
だろうか。博識であることを考えれば、ソタに聞いてみるのも良いかもしれ
ない。
 思い立ったら即、とばかりに足を向けた工房の隣の間に、その老人は静か
に佇んでいた。夜遅くに訪ねた非礼を詫び、件の指輪を差し出す。
「この裏に・・・彫られた文字を解読出来ないものかと」
「・・・・・ほう、これは・・・随分と・・・」
 目を細め、ソタはどこか感心したように呟く。
「読めるのですか!?」
 思わず身を乗り出したアスアドへと、老人はゆっくりと視線を向ける。
「古い、とても古い・・・アストラシアに伝わる詩の一節と記憶している」
「・・・アストラシア」
 半ば呆然と呟いたアスアドの脳裏に、ひとりの男の姿が浮かぶ。それが
クロデキルドではなかったのは、その男とはつい先程言葉を交わしたばかり
だったからだ。ただ、それだけにすぎない。
「それで・・・一体、どのような」
 まさか、だがしかし、やはりこれをゴルヌイに彫り込ませたのは。
 一体、どうしてそんなことを。
 困惑しながらも問うアスアドに、ソタは言葉の意味を知りたいかと尋ねる。
知ってしまっても良いのか、と。今更何故、知りたいからこそ、こうして
ここにいるというのに。
「教えて・・・頂きたい」
 告げれば、目元に刻まれた皺が笑みをのせて、より深くなる。
「『私はいつも、貴方を見つめている』」
 アスアドの見開かれた瞳が、戸惑いに揺らぐ。
「『私の想いに気付いて』--------まごうことなく、これは・・・恋の詩と
いうものだな」
 これを。
 彫らせたのは。
 アスアドの指に。
 手を重ね、そっと嵌めていたのは。
「まさ、か」
 違う。そんなはずはない。だって、あの男は。
 違うのだという確証を得たければ、明日にでもゴルヌイに尋ねてみれば
良い。この細工を依頼したのは誰なのかと。ムーロに聞いてみても良いかも
しれない。ゴルヌイのすぐ近くにいつもいるし、その時の様子を知っている
可能性は高い。
 もしくは。
「・・・・・」
 ソタの手から指輪を受け取り、アスアドは頭を下げると俯き加減のまま
その場を後にする。
 そう、聞けば良いのだ。
 ゴルヌイにでも、ムーロにでも。
 あの男にでも。
 聞いてしまえば。
 そうしたら。

 もし。
 そう、だったら。
 知ってしまったら。

 あの男のはずはないと、そう思うのに。
 思いたいのに。
 アスアドの頭の中で、穏やかな瞳がどこか切なげに笑う。

「・・・・・メルヴィス」

 いつも。

 見つめて、いる。