『燻火』


 夢に魘された記憶は殆どない。だからといって、一般的に悪夢と呼べるものを
見ないわけではない。だが、そんな悪夢より現実はもっと恐ろしく歪んでいる
ことを知ってしまっている。
 目を開けていようと閉じていようと、眠っていようといまいと、そういう世界
に生まれ落ち、生きているのだと。

 だから、最初は何がどういうことになっているのか分からなかった。一体今が
いつで、ここはどこで、自分が誰なのかすらすぐには認識出来ずに、それでも
両の手の平から伝わる温もりは今ここに在る現実のものだと知らしめている。
「ぁ、・・・・・」
 渇いた喉から出たそれは、声が声にならずに呻きのように低く掠れて、狭く
暗い空間に響く。不快感に眉を顰めれば、温かな手の平に強張った背を宥める
ようにゆっくりと撫でられた。行き来する感触に合わせるように、ゆっくりと
息を吐き、そして吸う。それを何度か繰り替えしながら、刹那はようやく目の前
にいる男の顔を見た。
「・・・・・ロックオン」
「・・・ああ」
 まだ不安定な声色で、それでも名を呼べば、ホッとしたように碧青の瞳が細め
られる。向けられる安堵の笑みを見つめながら、刹那は頭の中で今の状況を整理
していく。ここにいるのは刹那・F・セイエイである自分、そして同じガンダム
マイスターであるロックオン・ストラトス。先のミッションの後、機体の整備も
兼ねて潜伏することになった弧島で2人で夜を迎えた。寝ていられる時間がある
うちに寝ておけよ、という年長者の言葉に従ったわけではないが、僅かであれ
疲労を感じている肉体を今後に備え休ませることに異論などあろうはずはなく、
言われるまま横になり目を閉じた。予定外の滞在となったため、充分な広さも
適度な柔らかさもない簡易ベッドしかそこにはなかったが、そんなものは刹那
には全く苦にはならない。目を瞑れば睡魔はあっという間に訪れたし、そのまま
適度な時間の睡眠をとって、回復すれば自然に目が覚める。
 今までと変わらない。そのはずだった。
 なのに、きっと自分は夢を見ていた。どんな夢なのか、ほんの少し前に見て
いただろうはずのそれは、もう朧げで定かではない。夢として見ていたものが
現実に起こったことの反芻なのか、それとも潜在意識の中にある何かを形にした
幻影だったのか。恐ろしいと感じるものだったのか、それすらも分からない。
けれど、おそらく悪夢と呼ばれるのであろうものを見て魘されて、起きたのか
起こされたのかは分からないが、夢から覚めてここにいる。
「いきなり叫んで飛び起きるから、驚いたぜ」
 苦笑しながら告げられるのに、ああ起こされたのではなく自分で起きたのかと
ぼんやりと思う。いずれにしても、すぐ隣のベッドで眠っていたロックオンの
眠りを妨げてしまったことは否めない。
「済まない・・・・・俺は、どんなことを言っていた」
「さあ、・・・よく聞き取れなかったが」
「・・・そうか」
 ロックオンの言葉を疑うわけでも信じたわけでもないが、彼がそう言うのなら
わざわざ追求するまでもないことだ。どんな夢を見ていたかも、知りたいと思わ
なかったし知る必要もなかった。
「まだ夜明けまで時間はある・・・横になっておけ」
「ああ、・・・・・っ・・・」
 完全に眠ってしまわなくても、目を閉じて横になっているだけでも休息は充分
とれる。頷き、身体を傾けようとして。
 ここで初めて、自分の両手が向かい合うように傍らに腰掛けていたロックオン
の剥き出しの腕を強く掴んでいたことに気付いた。
「す、まない・・・」
 動揺を押し殺すようにして謝罪を述べながら、手を、指を離すのに、ただそれ
だけのことに、酷く時間を要した。離すというより剥がすように指を外していく。
そして指が離れていった後にロックオンの腕に残されたものを見て、刹那は息を
飲んだ。
「っ、・・・あ・・・・・」 
 腕に残る指の痕。彼が魘されている刹那を心配して覗き込んできた時に、縋り
ついたのだろうか、その際に相当の力で掴んでしまったのだろう。爪を立てて
傷付けてしまわなかったのは幸いかもしれないが、夜目にもくっきりと浮かび
上がって見える幾つもの痕。
 刹那が刻んだそれは、ロックオンの白い肌にどこか淫靡に映って見えた。
「気にしなさんな」
 指の痕を見つめたまま言葉もない刹那に、ロックオンは笑いを滲ませながら
軽い調子で告げるけれど、そこから目が離せない。
 無意識に、喉が鳴った。

 刹那は自分に性欲がないわけではないと思っている。だが、何かしら情動を
覚え、それが性欲と呼べるものなのだとはっきりと認識して感じたことは、今だ
かつてなかった。なのに、今、刹那は確かに渇えるほどに強い欲望を感じていた。
 目の前の男に。同じガンダムマイスターの、自分より10近くも年上の大人の
男に。
 ロックオンの肌に図らずも刹那が残した痕が、ジリジリと網膜に焼きつけられ
るようだ。そう、刹那がつけたのだ。これを。ロックオンに。刻んだのだ。
「・・・俺が」
「・・・・・刹那・・・?」
 ロックオンは知らない。まだ、気付いてはいない。刹那自身も、まだ信じられ
ずにいるのだ。
 これ、は。
 何、なのか。
 じわじわと胸の内を侵食して、身体中に広がっていく熱の正体は。
 何かの摺り替えなのか。ただの欲望なのか。
 それとも。
「刹、・・・・・っ」
 分からない。分からないままでは、気持ちが悪い。
 だから。
 確かめなくてはならない。
「な、に・・・・・何、だ・・・刹那・・・?」
「・・・何、だろうな」
 突然強い力で突き飛ばされるようにしてベッドに縫い付けられ、何が起きた
のか理解出来ずに呆然と自分を見上げてくるロックオンに、刹那は抑揚のない声
で応える。いつも背の高い彼に見下ろされているから、この視界は何だか新鮮だ。
そう思って口元を弛めれば、ロックオンの表情が僅かに強張った。
 ああ今、自分はどんな顔をして、彼を見下ろしているのだろう。
「何なのか・・・俺は知りたい」
 知りたいのだと。刹那がそう望めば、ロックオンはどんな反応を見せるだろう。
「な、っあ・・・・・」
 のしかかった身体を更に押し付ければ、ようやくロックオンも刹那の身体に
起きた変化に気付いたのだろう。信じられない、といった表情で何か言おうと
してか唇を震わせ、刹那の下から抜け出し身体を起こそうと身じろぎしながらも、
どこかに迷いのようなものがあるのか、押し退けることは出来ずにいる。2人の
体格差なら、刹那が本気を出したところで、ロックオンが完全に自由を奪われる
ようなことは、まず有り得ない。動けないように関節技を入れているわけでも
なく、ただ自らの体重でもって押さえ付けているだけだ。その体重差からして、
軽く撥ね除けられるほどあるというのに。
「逃げようとしないのは、それは・・・それもお前の優しさというやつなのか」
 ロックオンは優しい、のだと皆が口を揃えて言う。その優しさというものが、
どういうものなのか刹那にはよく分からない。ロックオンは皆に優しいけれど、
刹那には特に優しいのだと誰かにからかわれたことがある。周りの反応を見ると
それは、単に子供扱いしているだけではないのだろうかと、やや苦い思いをした
こともある。確かに彼からすれば刹那はまだ子供の部類に入る年齢なのだろうが、
同じガンダムマイスターにそういう扱いをされて気分が良いはずがない。
 けれど。
「今は、・・・・・それを利用させて貰う」
 まだ子供なのだから、と。油断して甘やかしていればいい。そんなつもりは
ないと彼は反論するかもしれないが、本気で抗おうとしていないのがその証拠
ではないか。無理に押し退けなくても、言葉で丸め込めると考えているのかも
しれない。
 そんなことは出来ない。
 させない。
 刹那が彼に対して付け入る隙があるのなら。
 それは、彼の罪だ。
「待て、待てよ、刹那・・・これは、違う・・・こんなのは」
「決めるのは俺だ」
「っ、・・・・・お前は・・・・・」
 どうしたいんだ、と。半ば投げやりな声が耳朶を掠める。鼻先を埋めた彼の
首筋は、どこか懐かしい匂いがした。
「・・・・・もう・・・」
 好きにしろ、か。勝手にしろ、だったか。呟いたロックオンがゆっくりと身体
の力を抜いていく。受け入れられたのではない。許されたわけでもない。ただ
投げ出された身体がそこにあった。
 それでも構わないと刹那は思う。今は、まだ。それでいい。
「・・・・・それでも」
 いつか。
 この行為の意味を、その奥深くにあるのだろうものを、見つけられれば良いと
思った。