『還帰』



 またこの景色を見られるとは思わなかった。
 眼下に広がる郷を見下ろし、青年は感慨深げに目を細める。目深に被った
フードをはためかせる風が、やがてゆっくりとその青年の髪や顔を露にする。
 頬を撫でる風は、やはり懐かしい。けれど、ここを。あの場所を故郷だとは
思えなかった。かの地で過ごした時間はそれなりに長かったけれど、あそこで
自分が『生きている』のだと実感出来たのは1年にも満たなかったのではない
かと思う。
 未練など、あろうはずがない。
 あるのは、ほんのささやかな思い出だけ。
 そっと伏せた瞼を再び開くと同時、青年はここに来て初めて声を紡いだ。
「・・・・・いつまでそうしておられるつもりですか」
 問えば、背後で小さく笑った気配がして。
 振り返ると、そこには『懐かしい』顔があった。
「やっと会えたね、・・・・・ナミ」
 懐かしい、声。
 ほんの僅か、唇を震わせ。
 青年--------伊波飛鳥は、微かな笑みを浮かべてみせた。
「お久し振りです、・・・・・鷹取さん」
 眼鏡の奥の瞳を眇め、鷹取は一歩ずつゆっくりと伊波に歩み寄る。何かを堪え
ているかのような表情に、伊波は、ああ…と溜息ともつかぬ吐息をこぼす。
 この人は。
 まだ。
「君は、・・・変わらないね」
 手を伸ばせば触れる距離で足を止める。
 変わらない、と口にしながらも鷹取の目に映る青年の印象は以前とはやはり
どこか違う。5年も経てば成長もして変わっていくものだろうと、人は思うかも
しれない。だが、彼のそれは、そういう類いのものではなく。
 伊波飛鳥は元々その存在の希薄な少年ではあったが、この5年の間に更に…否、
人としての存在感の羽根のような軽さはそのままに、どこか神懸かり的なものを
宿したように感じる。実際、彼は神子として図らずも見い出され、また殆ど形式
だけとはいえその儀式を受け入れたのだから、それは当然のことであるのかも
しれないけれど。
 まだ幼げな可愛らしさが勝っていた容貌は、神々しくも儚げな美しさへと変化
を遂げていて、迂闊に触れれば壊れてしまいそうな。
 禁忌の、という言葉が鷹取の頭の中に浮かび上がる。
 だが。
 たとえ、そういった存在なのだとしても。
「・・・鷹取さんは、ますます御立派になられましたね」
「そういう他人行儀な物言いをされると、・・・・・寂しいね」
「・・・・・他人ではない、とでも?」
 困ったような伊波の貌に、鷹取は苦笑混じりに応える。
「君と私の仲、じゃないか」
「・・・・・貴方との距離感、というものが・・・いまだにはかりかねます」
 正直にそう呟けば、またクスクスと微笑う声がする。
 その笑顔に、少しだけ安堵している自分がいるのを、伊波は否定出来なかった。
「ところで、・・・・・奴はどこにいる」
「・・・・・さあ」
 とぼけた物言いをしながらも、伊波は視線をそっと郷の方へと流す。
 それだけで、鷹取が奴と称した男の行方は知れた。
「まさか、紫上のところか」
「ああ見えて、それなりに責任感の強い人ですから」
「・・・・・ナミ、君は・・・・・」
 それでいいのか、と。
 言葉にならずに目で訴えてしまえば、肩ごしに振り返った瞳がどこか虚ろに
微笑う。
「綾人さんが、そうしたいのなら・・・僕には何も言えません」
「・・・・・何故」
 そんな悲しい目をして。
 それを見れば、奴--------九条綾人も、伊波をここに残して紫上に会いになど
行かなかったであろうと思えるのに。
「償いたいのだと、・・・・・そう言っていました。償わなければならないのは
多分僕もそうなのだろうけれど、・・・彼女が待っているのは、僕ではないから」
 償わねばならぬのだと。そう言わせるだけのことを、九条はあの女性にしたの
かもしれない。けれど、彼女は九条が還らなかった時点でその気持ちに踏ん切り
をつけていたはずで、だがしかし実際にはそうではなく、伊波も言っているよう
に、今も頑に宗家と呼んだ男の帰りを待ち続けているのだけれど。
 そんな女の元に姿を現して。
 償いたいのだと告げるということは。
「そのまま、・・・・・九条が戻って来ないかもしれないのに?」
 その可能性を、口にすることは憚られた。だが、尋ねずにはいられなかった。
 それを考えなかった伊波ではないであろうけれど、ならばここでこうして独り
佇んでいる彼は。
 彼の気持ちは。
「だから、言ったでしょう・・・綾人さんのすることに、僕は異論はない」
「・・・・・本当に、・・・それでいいのかい、ナミ・・・・・」
 そんなはずはない。
 鷹取は知っている。
 伊波がどんなに九条を想い、そして九条がどんなに伊波を。
 好きだとか愛しているだとか、そんな言葉では足りないくらいに。
 己の想いすら届かぬ場所で2人は結ばれていたはずだ。
「なら、・・・・・戻って来なくていい」
「・・・・・」
 鷹取の言葉に、伊波が何を言うのかと訝しげに首を傾げる。
 可愛い。可愛らしくて、愛おしくてならない。この気持ちは、あの頃と何ら変わ
ることはない。受け入れられることのなかった想いは、しかし消えることなく今も
ずっと鷹取の中に燻り続けていた。
 自分の気持ちが、他の誰かに劣っているとは思わない。
 伸ばせずにいた、その手を。
 鷹取は、ゆっくりと差し伸べる。
 久方ぶりに触れた頬は少し冷たくて、衝動的に抱きしめたくなるのを鷹取は
どうにか堪えていた。
 あの頃と変わらぬ澄んだ瞳を覗き込むようにして。
 告げた、それは。
「ナミ、私のものになりなさい・・・それが叶うなら、私は鷹取の家も鎮守人と
しての責務も、全て捨てても構わない」
 尊大な言葉のようでいて、どこか請うように。
 恋う、人に。
 その想いのたけを乗せて。
「っ、・・・・・」
 鷹取の自分への恋情に、それがあの頃からもずっと続いていたことに全く気付か
なかった訳ではない。だけど、今こうして。この時に。こうして真直ぐに突き付け
られるとは思わなかったのだろう、驚きに見開いた瞳に真摯に見つめる男の顔を
映したまま、唇は戦慄くばかりで。
「捨てられるよ、私は・・・九条と違ってね」
 熱を帯びた言葉に、ようやくゆるゆると伊波は首を左右に振る。
「分かっているのだろう、ナミ・・・あの男は・・・九条は全てを捨てたのでは
なく、・・・・・逃げたのだよ」
 ふるふると、伊波は首を振り続ける。
 彼が拒みたいのが、鷹取の言葉なのか想いなのかは分からない。その両方かも
しれない。大きな瞳が、微かに揺らぐ。泣かせてしまうのだな、と鷹取がもう片方
の手も添えて伊波の頬を包み込み、ゆっくりと唇を重ねようとした時。
「飛鳥に触れるな」
 凛とした声が、その場の空気を征する。
 振り向かずとも、そこに立っているのが誰なのか分かり過ぎる程に。
「タイミングを図ったかのようだね、・・・九条」
「声を掛けても間に合わないようなら、風天丸を放つところでしたが」
「・・・・・冗談でもそれは御免被りたいね」
 それが本気なのだろうことは分かっている。
 命が惜しいわけではなかったけれど、鷹取は呆然と立ち尽くしたままの伊波の
頬に添えた手を、名残惜しげに離した。
「待たせたな、飛鳥」
 伊波の傍らに立つ鷹取の存在を敢えて無視してか、九条は微笑みながら手を差し
伸べる。瞬きすら忘れたように佇んでいた伊波は、ハッとしたように肩を揺らして。
 だが、誘う手を取ることなく、ぽつりと呟いた。
「・・・・・どうして・・・」
「どうして、とは?」
 怪訝そうに微笑う九条に、鷹取が低い声で告げる。
「君は、紫上のところに戻ったのではないのかな」
「・・・・・おかしなことを言う・・・」
 く、と。
 九条は喉の奥で笑う。
「俺の還る場所は、飛鳥しかないというのに」
「償うのだと、そう言ったそうじゃないか」
 伊波を背に隠すようにして向き合う鷹取に、九条は僅かに眉を顰めた。
「未練がましいですよ、鷹取さん・・・・・そんなに飛鳥が欲しいんですか?」
「ああ、欲しいね」
「即答ですか、・・・・・でも飛鳥は貴方のものにはなりはしない」
 そうだろう、と。
 鷹取の背に隠れた伊波に囁きかける。
 それに応じるかのように、ゆっくりと。
 伊波が九条の方へと足を踏み出す。
「・・・・・ナミ、行ってはいけない」
「相変わらず、ですね・・・鷹取さん。貴方はとても・・・・・優しい」
 引き戻そうとする手にそっと触れ、それを制して。
 伊波は鷹取に、柔らかく微笑みかけた。
「貴方では、・・・・・ダメなんです」
「ナミ、私は・・・・・」
「貴方の優しさは、僕を救ってくれるけれど・・・それじゃダメなんです」
 ごめんなさい、と。
 半ば吐息で囁いて、伊波は九条の元へと歩いて行く。差し伸べられていた手が
伊波を捕え、強く引き寄せる勢いのままきつく抱き締める。
 それをただ見ていることしか出来ずに、鷹取は下ろした手をグッと握り締めた。
「鷹取さん」
 伊波を腕に抱き、その髪に口付けながら九条がどこか苦い笑いを浮かべながら
告げる。
「貴方の言うとおりですよ・・・俺は、逃げたんだ。郷、九条家・・・それらの
しがらみから」
「・・・九条」
「逃げて、漂って・・・・・そして辿り着いた」
 ここに、と。
 愛おしげに髪を撫で、また口付けて。
「きっと、・・・・・貴方には分からない」
 呟いた、声も。
 微笑みすら、どこか。
 酷く遠くに感じた。



「囚われているのだと、・・・・・思っていた」
 伊波が。
 九条に。
「だけど、・・・そうではなかったのだね」
 囚われていた、のは。
「九条、・・・・・君か・・・・・」

 神の子に魅入られた。
 彼の辿り着く先は。






未練たらたらな鷹取と愛妻(え)にメロメロな九条。
月光録の飛鳥たんはほんとに儚げな美人さんでした。
・・・・・出番少な過ぎたけど。