『茨の檻』


 むせかえるような強い花の香に意識が覚醒していく。
 ああまた増えているな、と視線を巡らしながら、花瓶に生けられた淡い
ベージュの花に手を伸ばそうとして、視界に入った包帯だらけの腕に口元を
歪めた。包帯の下に隠された傷跡だらけのそれは紛れもなく己の腕だ。もう
痛みはない。というより、感覚自体が鈍い。腕を動かす神経に特に損傷は
なかったらしいが、酷い火傷を負った皮膚はこの時代の医療技術をもって
しても完全な再生は難しいと聞いた。
 それでも自己皮膚組織を培養しての移植という方法が提案されたが、そこ
までして表面だけ奇麗に修復したところで、どうにもならないと首を振った。
見た目が醜い分には別に気にはならない。ただ、常に研ぎ澄まされていた
指先の感覚が今は自分のものではないようで、その違和感がほんの少しだけ
寂しかった。

 ゆっくりと手を伸ばせば、火傷を免れた白い指先が柔らかな花弁に触れる。
芳香を放つそれを撫でていると、その下にある鮮やかな緑色の葉や茎が目に
入った。通常、切り花として扱う薔薇は触れるものを傷付けないよう、棘を
あらかじめ落としておくものらしい。だがこの部屋に飾られている薔薇は
全て棘をそのままにしてある。これらを切り出して飾った者は、防護手袋を
していたとしても、多少なりともその手に傷を負ってしまっているだろう。
 どこかの王族を思わせる天蓋付きの広い寝台を囲み、窓やカーテンさえ
閉ざされた部屋の至る所にふんだんに飾られた薔薇は、いわば茨の檻だ。中
から出られないようにするためのものではない。外からの不埒な略奪者の
侵入を防ぐために、これは造られたのだ。


「いけないな、・・・姫」
 錠の外される音がして、やがて1人の男が檻の中に足を踏み入れる。姫の
寝台に近付くことを唯1人許された金色の髪の青年は、顔面を覆う包帯から
覗く口元に優美な笑みを浮かべながら、薔薇を弄んでいた手を取り、その
指先に恭しく口づけた。
「眠り姫は王子のキスで目覚めるものだ」
 ひとりで目覚めたことを咎める声は、かつての記憶の中にある男の持って
いた張りのある響きとは少し異なって耳に絡み付く。それはねっとりと四肢
を這い、愛撫となって捕らわれの姫と呼ばれた青年の唇を震えさせた。
「グ、ラハム・・・」
 溜め息のように名を呟けば、包み込むように抱き締められた。自分も背に
腕を絡めるように回し、久し振りに感じた重みと温もりに酔いしれながら、
青年の身体から香る血臭に目を細める。
 実際に血の匂いなどするはずもないというのに。鋼の機体を駆る彼が生身
で人を殺め、血潮を浴びるような事態になることは殆どないし、それにこの
部屋を訪れる前に彼はパイロットスーツを脱ぎ、仮面を外し、シャワーを
浴びることで様々なしがらみを洗い流してきているはずだ。
 なのに、こうして身体を重ねる度に血の匂いは濃くなる。それを不快だ
とは思わない。今、彼を抱き締めている自分の手だって、己のもの以外の
血に染まりきっている。数多の命を奪った証が消えることはない。
 同じ香りを、罪を纏って、自分たちは抱き合っているのだ。
「姫・・・私の・・・私だけの眠り姫」
 降り注ぐ口付けも、甘ったるく鼻につくようなセリフも、濃厚な愛撫も
今の自分に拒むことは考えられない。身も心も開いて、与えられるままに
受け入れる。
「君の全ては私のものだよ」
 頷く代わりのように、やはり包帯で覆われた脚の間に青年を迎え入れる。
狂気のごとき熱情を捩じ込まれる痛みすら、愛おしい。貫かれる苦痛も、
突き上げられる快楽も、あまさず。
 かつて向けられていたものとは微妙に姿を変えた情愛も、何もかも。この
腕で、己の全てで抱き締め、包み込み、そして己がものとする。


 こんなものが欲しいのなら、くれてやる。
 なら、グラハム。
 あんたの全部、俺にくれよ。

 深い傷による発熱で朦朧とする意識の中、掠れた声で告げた言葉は、彼に
とっては最上の愛の告白であったらしい。骨が軋むほどに抱き締められ、
呼吸を奪われるほどに激しく口付けられた。

 その時のことを思い出し、小さく微笑む。
 あの瞬間自分は、いっそこのまま抱き殺されても構わないくらいに、奇妙
な安らぎに包まれていたのだ。

「微笑っているのか・・・姫。何を、・・・誰を想って、そんな貌をして
いる、のかな・・・」
 乱暴に揺さぶられ、嬌声の合間にどうにか言葉を紡ぐ。
「・・・・・あ、ん・・・っあんた以外に、ふ、・・・くっ、ん・・・だ、
誰も・・・何も、っ・・・」
「そうか、・・・そうだな・・・ふ、・・・ふふ・・・・・」
 嫉妬を滲ませた苦い笑いを漏らす唇を己のそれで塞げば、すぐに熱い舌が
絡んで、食らい付くように蹂躙される。その激しさに互いの唇が切れて、
血の混ざった唾液を啜るように、また貪る。

「・・・この手に、ようやく・・・ずっと、私は・・・・・」

 グラハムの中の何かが歪み、蝕まれていったのは、いつの頃からだった
だろう。それはつい最近のことかもしれないし、もしかしたら出会って間も
ない頃から既に予兆はあったのかもしれない。だがもう今となっては、それ
はどうでもいいことだ。堕ちていく青年を、救うことも見守ることもしない。
 ただ、共に。
 成層圏を狙い撃つというかりそめの名を与えられた自分は、もうあの世界
には存在しないのだ。もし、同じ名を持つ誰かが用意されていたとしても、
それはかつての自分ではない。世界を壊す役目も再生する役目もこの手には
なく、それらの理から外れたところに今、自分は在る。
 あの日、宇宙の塵のひとつとなったはずの身は、ここに。
 グラハムが造り上げた場所に。
 過去からも現在からも未来からも切り離された世界で、ただひとりの男の
執着によって生かされている。

 だから。
 今更どこに堕ちても構わない。
 彼と、共にいこう。


 世界が壊れ、また生まれては壊れていく。そんな夢を見ながら、彼の
訪れを待つ。
 茨の檻で、花の満ちる寝台で。
 微睡みながら、待っている。