『記憶』


 理由なんて、ない。
 ただ、何となく。
 あの人が、僕は苦手だと思った。

 久し振りに手合わせでもしてくれる相手がいないかと、思い立ったら
足は女王騎士詰め所に向かっていた。
 向こうだって、忙しい。それを理由に断られるかもしれないけど、
その時はその時だとダメ元の気持ちで廊下を横切れば。
「っ、・・・・・」
 その視線の先。
 やはりこちらに気付いたその人が、静かに立ち止まり。
 やがて、その唇にゆるりと笑みを乗せて軽く頭を垂れる。
「お久し振りです、・・・・・王子殿下」
 その声色は、あくまでも穏やかで。
 友好的なものとして、届けられるのに。
 なのに、何故こんなに。
 こんなにも。
「こ、んにちは・・・ギゼル殿」
 どうにか答えた声が僅かに震えてしまったことに、気付かれやしな
かっただろうか。浮かべた微笑みは、強張ってはいないだろうか。
 その人は、変わらず穏やかな笑みをたたえたまま、そっと壁際に身を
ひく。思わず立ち止まってしまっていた王子に道をあけるべく、態度は
極自然に相手を敬う所作でもって。
 大丈夫、と。
 自分に言い聞かせるようにして、一歩踏み出す。
 一体何が。あの人の何が怖いと言うんだろうか。
 その理由もなく、ただ漠然と怖いなどと思うのは失礼なのではないだ
ろうか。
 だけど、どうしてだかその姿を目にすると酷く緊張してしまう。
 それ、は。
 いつの頃からだっただろう。

 一歩、一歩。
 急いで通り過ぎてしまいたい心を宥めつつ、足を進める。
 一歩一歩、近付く姿。
 目を逸らしてはいけない。
 ただ、平静を装いながら、その傍らを過ぎようと、して。
「・・・・・久し振りに殿下の麗しいお姿を拝見出来て光栄ですよ」
 半ば囁くように。
 通り過ぎようとした刹那、届いた声に踏み出しかけていた足が強張る。
「な、・・・・・っあ」
 不自然に空を彷徨った足が、うまく床を捕らえられずに滑る。
 しまった、と思った時には身体がグラリと傾く。
 転んでしまう。
 人前で転んでしまうなんて、何て不様な、と己を叱咤してしまいたい
気持ちに眉を顰めつつ、それでも受け身は取れるだろうと床に叩き付け
られる前に、身を捻ろうとすれば。
「・・・・・っ・・・」
 傾いた身体が、不意に強い力で引き寄せられる。
 何、と。
 訝しげに思う間もなく、ふわりと鼻先を覚えのある香りが掠めた。
 彼だけが纏う香。力強い腕。逞しい胸。
「ひ、・・・・・」
 それを認識した途端、ブルリと身体に震えが走った。
 これは。
 何。
「・・・・・殿下」
 微かに笑いを含んだ声が、耳朶に吐息と共に触れる。
 ハッとしたように顔を上げれば、極至近距離。
 ギゼルの端正な貌が視界に飛び込む。
「お気を付け下さい」
 包み込むように抱く腕の中、咄嗟に悲鳴すらあげそうになるのを懸命に
堪える。
 そうだ、転びそうになって。
 この人が、助けてくれた。
「あ、・・・有難う・・・」
「・・・・・いえ」
 微笑む顔は、優しげであって。
 だけど、その微笑みにすら震えてしまいそうな自分がいる。
 その腕にしっかりと抱かれて。
 吐息すら触れ合うそうな距離で見つめあって。
「ギ、ゼル殿・・・」
 離して、欲しい。
 この腕の強さが。
 温もりが。
 恐ろしい。
「美しい肌だ・・・目の毒です」
 ふと呟かれた声に身を固くすれば、笑みを浮かべたままの唇がゆっくりと
近付いて来るのに。
 まさか、と。
 思わずギュッと目を閉じてしまえば、しかし。
 それが触れたのは、剥き出しの首筋。
 押し当てられ、軽く吸い上げるような感触に、大きく身を震わせれば。
「私は覚えていますよ」
 この肌を。
 溜息のように落とされる言葉に、視界が揺れたような錯覚がした。
「な、に・・・・・」
 この人は。
 何を言っているんだろう。
 この香りと。
 腕と。
 温もりと。
 唇を。
「ち、が・・・違う・・・知らな・・・・・」
 覚えのある、だなんて。
 そんなこと、知らない。
 ゆるゆると首を振る様子に目を細め、ギゼルは背に回した手で腰を引き
寄せる。
 近くなる、身体。
 体温。
 鼓動。
 こんなのは。
「いかがなさいましたか」
 不意にギゼルの背中越しに掛けられた声に、混乱していた思考が鎮まって
いく。
「ああ、これはザハーク殿。いえ、王子殿下が目眩を起こされたようで、
御部屋にお連れせねばと思っていたところです」
「それは、・・・殿下、お加減は如何ですか。医師をお呼び致しましょうか」
 気遣う声は、しかし冷静そのもので。
 強張る唇が、どうにか「大丈夫だから」という言葉を紡ぐ。
「では、恐れながら・・・」
「っ、・・・・・」
 ふわりと身体が持ち上げられ、何だろうと思った時にはしっかりとギゼル
の腕に恭しく抱き上げられていた。
「また倒れられては大変です・・・私が褥までお連れ致しますよ、王子殿下」
 囁く声は、酷く甘く。
 これではまるで、姫君の扱いだと思ったが、動揺した表情をザハークには
見られたくなくて、抱く腕に身を任せ、俯くようにして胸元に顔を埋める。
「では、ザハーク殿」
「宜しく御願い致します」
 だから。
 言葉を交わす2人がどんな表情をしていたのか、王子は知らない。
 これから、そう遠くない未来。
 自分を取り巻くものが一転することも。

「まだ・・・そうですね、今はまだ。知らなくても良いんですよ」

 そう告げたギゼルの瞳に浮かんでいたものの正体も。
 今は、まだ。





過去にナニかーーーーーーーー!?
その辺りの事も、追々。むふ。