『one another』
「ここんとこ、御無沙汰なんだよね」
ひとり、のんびりと釣り糸を垂れながら呟いた言葉に、傍らの巨体が
応えるようにゆらゆらと揺れる。当人(人?)には僅かに身を揺らしただけ
のつもりかもしれないが、何せ小山のような立派な体格である。半ば身を
沈めた湖面は、釣り糸の先のウキを飲み込まんばかりに大きく波立った。
「ゲンオウ・・・魚、逃げちゃうよ」
「おお、こりゃ済まんのう」
ホッホッホッと朗らかに笑えばまた水面が大波小波で、ファルーシュは
もういいやと釣果は諦めた。
「それで、何が御無沙汰かの」
「あー・・・えっと、その・・・」
ほんのりと頬を赤らめて視線を彷徨わせる様に、巨大な老亀は元々細い
目を、増々細めて頷いてみせる。
「ああ、皆まで言わんで良い。分かっておる、分かっておる。あの堅物が
ちーっとも手を出して来んのじゃろう」
「・・・・・何で・・・」
「年の功より亀の甲じゃて」
笑いと共にまた波打つ水面を漂うウキを見つめながら、脳裏に浮かんだ
ちょっと困ったような笑顔に、ファルーシュはゲンオウには悟られないよう
こっそりと溜息をついた。
そう、老亀が言うところのあの堅物だ。御無沙汰も御無沙汰、さりげに
ファルーシュが誘い掛けてみても、気付いているのかいないのか、全く反応
がない。どうしたのですか殿下、といつもの穏やかな笑顔で尋ねられて、
精一杯アプローチしているこっちが、まるで馬鹿みたいだとさえ思えてくる。
「いっそ、押し倒してやろうか」
悔しげに軽く唇を噛んだところで、だが相手はああ見えて以外と隙がない。
その辺りはさすが武芸に長けた男だといったところだが、ファルーシュとて
それなりに鍛練は積んでいるとはいえ、まず体格が違い過ぎる。そう簡単に
組み伏せられてはくれないだろう。
「煮詰まっておるようじゃのう」
「グツグツとね」
肩を竦めながら、手にした竿を引く。こんな日は釣りには向かない。
竿を片付け、取り敢えず小腹も空いたことだしレツオウのところに何か
つまみに行こうかと踵を返せば、その背にのんびりとした声が掛かる。
「悩める少年に、良いものをやろうかの」
「・・・・・良いもの?」
振り返ったその視線の先、ゲンオウが何かを口先で押し出すようにして
ファルーシュに指し示した。
「・・・瓶・・・?」
そっと拾い上げた小瓶には、何やらとろりとした琥珀色の液体が入って
いる。
「あの堅物・・・ベルクートとか言ったかの。そやつに使ってみるがいい」
「これ、は・・・」
何、と尋ねようとした視線の先で老亀の細い目がキラリと輝いたように
見えた。
「とてつもなく元気になってしまう薬じゃよ」
とんでもない場所に居合わせてしまった、とベルクートは途方にくれて
いた。居合わせたというか、たまたま通りすがりに話し声を聞いてしまった
だけなのだが、その内容がかなり問題であった。
なかなか手を出して来ないベルクートに、王子が煮詰まっているのだと
いう。そして、そんな王子の悩みにゲンオウが何やら怪しげな薬を渡したの
だが、老亀が言うには「とてつもなく元気になる」効果があるとのこと。
何がどうなると具体的に説明があったわけではないが、話の流れからして
ただの疲労回復剤のようなものとは思えない。いくら堅物堅物と連呼され
ようが、ベルクートとてその手の知識が全くないというわけではない。そう
いったことに縁がなかったからといって、所謂性的なことに関して無知では
なく、情報というものは聞く気がなくとも耳に入ってきたりするのである。
「・・・どう、なさるおつもりなのだろう・・・」
王子はやや思案した末、礼を言って小瓶を受け取った。そのまま食堂の方
へと向かう王子の後を追うことは出来ず、ベルクートは半ば呆然としながら
木陰に立ち尽くしていた。
あの小瓶の中身。それを、王子は使うのだろうか。自分に。いつ。どう
やって。そのまま差し出されて飲めと言われれば、ベルクートは決して拒み
はしないが、それともこっそりと何かに混ぜて口に入れさせようとするの
だろうか。
「・・・・・殿下」
複雑な思いがベルクートの表情を固いものに変える。
その日は、ただ平和に何事もなく過ぎていった。
そして、翌日の午後。
「ピクニック、行こう」
お天気良いから、と。ベルクートを誘うファルーシュの手にはバスケット。
2人だけでね、と悪戯っぽく瞳が輝く。
「お弁当、僕が作ったんだよ」
笑顔で告げた王子に、ベルクートは内心の動揺を悟られないよう、いつも
のように微笑みながら愛しい人を見つめた。
「光栄です、殿下」
ピクニック。2人きり。手作りの弁当。
まさか、しかし、と。でもあまりにも条件は整い過ぎている。
「ベルクート?」
城を出て半時ほど行ったところにある見晴しの良い丘を目指して、2人で
並んで歩く。上機嫌のファルーシュの旋毛を眺めながら、少しの間考え込んで
しまっていたのだろう。やや不安げな顔が見上げてくるのに、慌てて笑みを
浮かべて取り繕ったものの、王子は表情を曇らせ、立ち止まってしまった。
「・・・嫌なら、そう言えばいい」
「違います、殿下・・・私は」
「ちっとも嬉しそうじゃない・・・無理に付き合ってくれなくていいよ」
「私は殿下のお側にいられるだけで幸せです!」
その言葉に嘘偽りはない。いつだって、この人の側に在れるというだけで
幸福で満たされる。
「幸せ、なんです・・・」
「・・・・・ベルクート」
白い頬が、微かに朱に染まった。
「手、繋ぎたい」
「っ、・・・喜んで」
差し出した手をギュッと掴む。その暖かさが愛おしくてならない。
この人の望むままに。ベルクートは、これから起こるかもしれない出来事も、
しっかり受け止めようと改めて誓った。
城を一望する丘の上、敷くものはなくても青々とした草の絨毯が心地良い。
並んで腰を下ろし、しばし景色に見とれた。
「良い眺めですね」
「うん・・・風も気持ち良い・・・隣にはベルクートがいるし。幸せ」
「私もです」
気恥ずかしげに笑い合う。このまま、この穏やかな時間が続けばいい。だが、
ファルーシュは草の上に置いたバスケットに手を伸ばした。
「食べよ?」
「い、今ですか!?」
覚悟しているつもりだった。とはいえ、いざとなると身構えてしまうのは、
仕方のないことだと思いたい。
「・・・お腹空いてない?」
首を傾げながら、ファルーシュはバスケットの蓋を開ける。中には、野菜や
肉を挟んだサンドイッチが綺麗に詰められていた。それは見た目にも本当に
美味しそうで。
「あ」
「っ」
グー、と。腹の虫が馬鹿正直に空腹を訴えるのを、止める術はなかった。
「味も、多分大丈夫だと思うよ」
「・・・・・殿下」
勧めてくるキラキラとした笑顔に、ベルクートは居たたまれなくなる。これ
を口にしてしまったら、どうなるのだろう。あの薬の効き目は、どの程度の
ものなのだろう。抑えられるだけのものなのか、それとも我を見失ってしまう
ようなものなのか、予想がつかない。
しかし、このタイミングで断ってしまえば、美味しくないのではと疑って
いると誤解されてしまうかもしれない。
「あ、あの・・・ここ、でなければいけませんか?」
こんな開放感のあるところで、真っ昼間から。そうなってしまうのなら、
せめてもう少し場所を選べないものかと、恐る恐る問うてみたベルクートは、
自分を見つめるファルーシュの柳眉が僅かに顰められるのを目の当たりにした。
「・・・・・さっきから、何か・・・変だよ、ベルクート」
「で、殿下・・・」
ふーっ、と大きく溜息をつきながら、ファルーシュはバスケットの蓋を閉め
てしまうと、崩していた脚を揃えてベルクートに向き直った。
「僕の作ったお弁当を、今、ここで。食べたくない、理由は?」
ほぼ直球で聞かれた。ベルクートの喉がゴクリと鳴る。もしかしたら幾ら
でも誤魔化しようがあったのかもしれないが、それはとても不誠実なことの
ように思われた。
全てを捧げると誓ったのに。
嘘偽りを、告げるわけにはいかない。
「・・・・・お話し、します」
ベルクートもファルーシュと向き合うように座り直し、その澄んだ瞳から
目を逸らすことなく、ゆっくりと口を開いた。
「昨日、殿下とゲンオウ殿が話しているのを・・・聞いてしまいました」
ファルーシュの目が、大きく見開かれる。
「あそこに、いたんだ・・・ベルクート」
「お声を掛け損ねてしまったとはいえ・・・立ち聞きするような形になって
しまったこと、・・・お許し下さい」
長い睫毛が、ふと伏せられる。怒っているのだろうか、それとも。
軽蔑、されてしまったのだろうか。
「ああ、・・・それで」
ぽつりと呟いて、また瞳がこちらに向けられる。その中にあるのは怒りでも
蔑みでもなく、ただとても悲しそうな色がベルクートを映していた。
「僕が・・・ゲンオウに貰った薬を、お弁当に入れたと思ったんだ」
「・・・・・はい」
そうだ。そう、思っていた。挙動不審になってしまった理由を肯定する。
「・・・ベルクート」
白い手が、ベルクートが膝の上できつく握り締めていた拳に静かに重ねら
れる。そのヒヤリとした感触に、ハッとしたような顔を覗き込むけれど、そこ
に涙はなく。ただ、深い悲哀がそこにあった。
「そんな薬、で・・・人を・・・大好きな人を、自分の思うように、なんて
・・・僕は・・・・・そんなことをしたら、僕は自分を許さない・・・」
氷の刃で胸を刺し貫いたら、こんな感触がするのだろうか。己の胸の痛み
など、たいしたものではない。それよりも、大切なひとにこんな顔をさせて
しまったことの方が、何よりも。
何よりも、ベルクートには。
「殿下、・・・っ私は!」
「でも、疑わせてしまったのは・・・きっと僕なんだよね」
ごめんね、と。そんな綺麗に微笑まないで欲しい。
「いいえ、殿下・・・私が・・・私が・・・」
愚かだ。もしかしたら、と。ほんの少しでも、疑ってしまった。もしくは、
薬を使ってまで自分のことを、と、どこかで期待するような気持ちがあった
のかもしれない。だが、意のままに操るような薬ではないにしろ、本人の意思
とは別のところで作用してしまうものであることに変わりはない。
かつて、マリノが闘神祭でベルクートに薬物を盛った時、ファルーシュは
その後も特に何も言わず、マリノにも普通に接していたし、寧ろ気遣うような
素振りさえ見せていた。けれど、それは彼の優しさ故も確かにあったのだろう
が、マリノに罪はないのだと振舞ったベルクートの気持ちを大切にしようと
いう気持ちだってあったのだ。
あの時。ファルーシュは、密かに憤っていたのかもしれない。
「使っちゃおうか、って・・・ちょっとだけ考えたんだよ」
まだ触れる手は冷たい。自分の体温を移してしまえたら良いのに。
「だけど、・・・・・そんな卑怯な手を使って、僕は・・・ベルクートに次に
どんな顔をして会えばいい?」
温めたいと、思うのに。
「ベルクートが許してくれたとしても、僕は・・・自分を憎むよ」
「殿下、・・・っ殿下!」
抱きしめたい。抱きしめても良いのだろうか、と。
迷ったのは、少しの間だけだった。
「殿下・・・」
腕を伸ばす。触れる。抱き締める。大切で、愛おしくて、堪らない人を。
冷えた指先も、心も。全部、温めたくて。
「・・・・・ベルクートの、・・・体温、だ」
ホッ、と。安堵したような溜息が胸元にこぼれる。背にゆっくりと腕を回さ
れて、ベルクートの胸の中にも喜びが満ちてくる。
こうしていれば良かった。
もっと早く。
「あのね、・・・ベルクート、僕は・・・・・」
そういうコト、してもしなくても。
こんな風に抱きしめられてるだけで、幸せになれるよ。
胸元、くぐもった声が聞こえる。
ああ、そうだ。とても、幸せだ。
「したらもっと幸せだけど」
クスクス笑う振動が心地良い。笑っている。この腕の中で。
「それは、私も・・・ですが、その・・・やはり、あの・・・お身体のことを
考えると、そう頻繁には・・・」
ベルクートなりに、色々と思い悩むところはあったのだ。受け入れる側の
負担は、やはりそれなりにあるのだから。
「じゃあ、1日1回」
「っ、殿下、だからその・・・」
「ギュッてしてくれれば良いよ」
抱きしめて欲しい。
身体を繋げなくても。
出来るだけ近くに、近いところに存在を感じていたい。
「・・・・・抱きしめます」
お互いを。
「私も、・・・幸せになって宜しいですか?」
「でなきゃ、意味がないよ」
微笑って、そっと伸びをしてくるから、口付けた。何度も、啄むように。
触れた唇は暖かくて、ベルクートはあの冷たかった指先も暖められていれば
良い、と思った。
「僕を食べて、と言いたいところだけど、お弁当にしよ?」
「殿下の手作りでしたね・・・本当に私は幸せ者です」
照れたように微笑むベルクートの手に、ファルーシュの手が重なる。
暖かい。
その手を、包み込むように握り返した。
幸せものめ・・・!!