『そのままの』


 オンナって怖いわね。
 柔らかな髪を揺らしながら、美貌の紋章師がこちらを見て微笑んだ。
 その言葉を否定も同意もせず、ファルーシュはその場を後にする。城に戻って
すぐ、自室に向かえば良かった。もしかしたら、彼がいるんじゃないかと期待
して、寄り道なんてしなければ良かった。
 そうしたら、あんな言葉を耳にすることもなかったのに。
 うっかり立ち聞きのような形になってしまったのは申し訳なかったとは思う
けれど、だからこそあれがあの女性の本音ということなのだろう。
 弱そうに見えて、実はしたたかなのだということは知っていた。それは彼女の
長所でもあるのかもしれない。
 諦めないから、と。
 絶対に負けないと強く言い放った、声。その自信は、何処から来るのか。
「ああ、・・・そうか」
 それも彼女は口にしていたではないか。

 女だから、と。


「殿下・・・っ!」
 のろのろと自室へと向かい、ドアを開けたところで後ろから掛けられた声に、
そのどこか切羽詰まったような響きに振り返れば、その声色をそのまま表情に
乗せた青年が駆け寄って来るのが見えた。
「どうしたの、・・・・・ベルクート」
 そんな、血相変えて、と。顔を見た途端、微かに胸に走った痛みを誤魔化す
ように笑いかければ、追い付いてきたベルクートがそれを見て困ったように、
手の平で口元を覆い、やや歯切れ悪く告げようとするのに。
「あ、・・・その、殿下が・・・ジーンさんが、・・・・・」
「僕? ジーンが、何か?」
 さっきまで傍らにいた妖艶な女性の意味ありげな微笑を思い浮かべつつ問えば
口元を覆っていた手をゆっくりと下ろしながら、ベルクートはぽつりと答えた。
「・・・・・泣いている、から・・・と」
「・・・誰、が」
 泣いている、だって?
 誰が?
「・・・・・貴方が・・・泣いているから、早く捕まえてあげて、と」
 僕が泣いている、だって?
「・・・・・泣いて、ないよ?」
「そ、う・・・ですね」
 涙なんて、一筋も零していない。濡らした跡のない頬を証明するように少し
伸びをしてベルクートに顔を近付ける。
「で、殿下・・・」
 ぐんと近くなった互いの顔に少し焦ったような素振りを見せたベルクートは、
だが一瞬躊躇った後、一旦下ろした手を上げてファルーシュの白い頬にそっと
滑らせた。
「微笑んでおられるのに・・・泣いているように、見えます」
「・・・・・何、それ」
 泣いてなんかいない、けれど。
「私では・・・ダメですか?」
 もう片方の手も上げられて。ベルクートの大きな手の平が、躊躇いながらも
ファルーシュの頬を包み込む。剣を扱う彼の手は武骨で、きっと肌触りだとか
そういう観点からすれば、決して良いとは言えない部類に入るのだろう。けれど
ファルーシュはこの手が自分に触れてくると、堪らなく幸せな気分になる。
 もっとずっと、触れていて欲しいと思うのに。
「ダメ、なんかじゃ・・・」 
「私の前では、涙など見せられませんか?」
「ベルクート・・・」
 違う。そうじゃない。そんなことを言われたら、余計に泣きたくなってしまう
というのに。
 巧く言葉に出来ずにただ唇を戦慄かせるファルーシュに、ベルクートは困った
ように笑い掛けて、お部屋に、と囁いた。階段の方から聞こえてくる足音に、
彼が気を遣ってくれたのだと知り、促されるままに開いていたドアの内へと身を
滑らせる。ベルクートも後に続いて入ってきたことに、小さく安堵した。
「ここに」
 ドアを閉ざしたベルクートを手招きながら、ベッドへと腰を下ろす。ほんの
少しだけ間を置いて、こちらに歩いてきたベルクートが次に指示されるであろう
言葉を待って、その足元へと跪こうと身を屈めた隙をつくように、ファルーシュ
は腰を浮かせてベルクートの首へと腕を絡める。
「で、ん・・・・・っ・・・」
 驚いて見開かれた鳶色の瞳を間近で捕えながら、ぶつけるように唇を重ねる。
こうしてキスを強いたことは、1度や2度ではない。そう、ベルクートからは
求められたことは、ないに等しかったから。命じれば、それは叶ったのかもしれ
ないけれど、王子の命令に従っての口付けなんて欲しくはなかった。ベルクート
の意思を無視しているのは、どちらも同じなのかもしれないけれど、それでも
こうでもしなければ、ベルクートと口付けを交わすことが出来なかったから。
 好きだと告げて。
 愛していますと告げられて。
 なのに、こうすることでしかキスすら出来ないなんて。
「・・・・・好きだよ、ベルクート」
「私も、・・・お慕いしております」
 向けられる眼差しに、言葉に嘘はない。分かっている、だから苦しい。
「なら、・・・・・僕を抱けばいい」
 キスひとつ与えてくれない男に、ファルーシュは告げる。半ば縋る、ように。
「殿下、・・・それは・・・」
 こんなことを言ったら、戸惑うことも躊躇うことも分かっている。けれど、
ファルーシュの脳裏にはさっき見た光景と台詞とが焼き付いて離れなくて。
「王子、だから・・・? 僕が、・・・・・男、だから?」
 いい加減振り向いてくれそうにない男を追い掛けるのは止めにしたらと苦笑
する女賭博師に、あの少女は胸を張るようにして言い放った。

 確かに、あの人にはとても大切な人がいるからって、断られたけど
 でも、それはきっとほんとの愛情とは違うはずなのよ
 だって、相手は王族だし、それに
 どんなに綺麗な姿形をしていたって、所詮男の子なんだもの
 あの人だって、結局最後には女の子の方が良いってことに気付くわ
 私は、女なんだから
 だから、絶対に負けない

「僕が女の子だったら、ベルクートは僕を抱いてくれた?」
「でん、か・・・?」
 もし自分が王女として生まれていたなら、と。だが、そう考えようとしても
だからどうなるのか想像が追い付いて来ない。それをカタチにしてしまうと、
これまでの自分も、これからの自分も。そして、自分を取り巻く全てを否定
したがっているかのようで。
 それでも、もしも自分が女の身体をしていたのなら、ベルクートは。
「僕が・・・僕が、男だから・・・だから」
「バカなことを仰らないで下さい!」
 思い掛けず強い声に、ファルーシュの肩がビクリと震える。おずおずと伺い
見た男の貌は、悲しみとも怒りともつかない、否そのどちらもを滲ませている
ように感じた。
「なら、・・・何・・・僕が王族だから・・・? でも、でもベルクート、
僕は王子という身分がなければ、本当にただの男の子で・・・何も・・・そう
何もない、何も持っていない・・・ただの男の子、なんだよ」
「それがどうしたというのですか」
 グ、と肩を掴まれる。痛いくらいに食い込んだ指は、微かに震えていた。
「私は貴方が王族だからお側にいるのだと、・・・そう思っていらっしゃるの
ですか・・・?」
「・・・・・ベ、ルクー・・・ト」
 ゆるゆると首を振る。そうじゃない。そんな人じゃないと、思いたかった。
「確かに、貴方が王子殿下でなかったら・・・出会うことすらなかったのかも
しれません」
 初めて互いに視線を交わした、あの日を思い起こす。
「きっかけは、そうであったとしても・・・そこに理由などありません」
 互いを。
 強く意識した、あの瞬間を。
「地位だとか身分だとか、そんなものはどうだっていい。私は、ただ・・・
貴方が、欲しい」
 掴まれた肩が。
 熱い。
「ただの、・・・男の子の僕でも?」
 震えながら問うた唇を、暖かなものが軽く触れて離れていく。
 初めて。
 ずっと欲しいと思っていた、相手からのキスにファルーシュの視界が歪む。
「それで、良い・・・それが、・・・・・欲しいんです」
 濡れた頬にも、優しく口付けられる。
「・・・女の子じゃなくて、いいの?」
 それでも、まだ残る胸の引き攣れをそのままに問えば。
「女の子である必要が、どこにあるんですか?」
 解せない、と困惑した瞳が訴えてくるのに。
「だって、・・・ベルクートが僕に触れてくれない・・・のは」
 男だから。そういう気分にならないんじゃないかと思ったのだ。
 そして、それを理由にしてしまいたかったのかもしれない。
「・・・貴方は」
 唇が触れるまで、あとほんの少しの距離を残して。どこか泣き笑いの表情で、
ベルクートが溜息混じりに告げる。
「・・・そうやって、貴方は・・・私の理性を試してらっしゃるんですか?」
「り、せい・・・って、ベ・・・・・」
 逞しい腕に抱き寄せられ、下肢に押し当てられた昂りに、まさかという思い
で見つめ返せば。
「今から、貴方を抱きます」
「っ、・・・・・」
 真直ぐに突き付けられた言葉に、そこに潜む熱情に、震えが走る。
「あ、・・・ベ、ルク・・・ト・・・・・」
「もう、我慢しません。出来ません。まだ幼気な少年である貴方にこんなにも
劣情を滾らせてしまう私を、・・・どうか赦して下さい」
 言葉だけじゃない。確かに彼は、自分に激しい欲を感じているのだと。その
熱を、吐息を、鼓動を、ずっとずっと欲しくて求めていたものが、ようやく
与えられるのだと。
「赦す、から・・・・・」
 覆い被さる身体を受けとめながら、ファルーシュは夢見るように微笑んだ。




「・・・ですから、その・・・・・そういう経験がなかったので」
 男も女も抱いたことがない。不慣れどころか全くの未経験であるが故に、
もしかしたら大事な人の身を傷付けてしまうことになるかもしれない。それが
恐ろしかったのだと、自分に触れることをずっと躊躇っていた理由を明かされ、
ファルーシュはベルクートの厚い胸板に乗り上げながら、拗ねたようにその唇
を尖らせた。
「なら、正直にそう言ってくれれば僕だって・・・」
「・・・・・言えなかった私の心情も、どうかお察し下さい」
「なら、言って貰えなかった僕の気持ちも察してよ」
「・・・・・申し訳ありません」
 ようやく身も心も結ばれた恋人同士の会話にしては、どこか微妙な空気を
漂わせつつ。
「でも、良かった」
「えっ!」
 ぽつりとファルーシュが呟いた言葉に、ベルクートの顔が一気に赤く染まる
のに。
「・・・僕が僕で良かった、って」
「あ、・・・はい」
「・・・・・今、何考えたのか当ててあげようか」
「わ、私は・・・!」
 ふふ、と微笑いながら、まだ赤いベルクートの頬に自分の頬を擦り寄せる。
「気持ち良かったよ、ベルクート」
 サラリと告げて。
 だけどその後で、ファルーシュの頬もしっかり朱に染まっていた。





初心者で耐え忍ぶベルクートさんが好きです。