『雨のち』



 ポツリ、と。足元のコンクリートが小さな染みを作り、やがて
それが数を増して広がっていく。
「うわ、降ってきたな」
「オレ、折り畳み持ってるぜ」
 天気予報は、降水確率30%だった。午後から下り坂とは言って
いたが、朝はよく晴れていたので、折り畳み傘を持ってきた人数は
それほどいないだろうと思われたのに、オレもオレもと取り出した
人数は、5人。部員の半数が、親に強引に持たされた者もいたりで
傘を持ってきていた。
「んじゃ、みんなで相合傘なー」
 帰りの方向が同じ面々が、それぞれ2人1組になっていくのを
ぼんやりと眺めていると。
「ほら、行くぞ」
「え、あ・・・・・」
 差し掛けられた傘を仰ぎ見れば、ついさっきまで散々サインを
交換し合った瞳とぶつかった。
「送ってってやるから」
 ややぶっきらぼうに告げて、さっとさ自転車を押して歩き出すの
を、自分も自転車を押しながら慌てて追い掛ける。やや離れた場所
で、ちゃんと足を止めて待っていた阿部は、追い付いた三橋に手に
していた傘を差し掛けた。
「あ、あ・・・の、阿部君・・・」
「何」
「・・・あり、がと・・・」
「ああ」
 どうにか礼を口にしたものの、応える阿部の方も素っ気無いもの
で、結局そのまま互いに口を開かないまま、黙々と帰り道を行く。
片手で自転車を押しながら自分に傘を差し掛けるのは、歩き辛いん
じゃないだろうかとか、遠回りになってしまうのに、だとか。そう
言葉に仕掛けては、あうあうと口を動かしただけで告げられずに、
時々チラチラと隣の阿部の様子を伺いながら歩いていれば、不意に
こちらを向いた視線とかち合った。
「・・・何?」
「え、あ・・・えっ、と」
 この機会に、思ってたことを告げてしまえばいい。よし言うぞと
頭の中を整理しないまま口から出たのは。
「か、傘・・・自転車、が・・・家、阿部君の・・・・・」
「・・・・・」
 これじゃ伝わるはずもないだろうとは思うのに、言わなきゃと
急く気持ちが空回りするばかりで、やがて足を止めた阿部が小さく
溜息をつくのを合図のようにして、三橋は口を噤んで俯いた。
「あのさ」
 下を向いてしまった三橋の旋毛を眺めながら、阿部がまたひとつ
溜息をつく。
「オレがお前を送ってくっつったんだから、そうさせとけ」
「で、も」
「だから!」
 つい大声になってしまえば、三橋が俯いたまま大きく肩を揺らす
のに、ああしまったまたやっちまったと軽く咳払いしつつ、阿部は
なるべく乱暴にならないよう努めて言う。
「だから、・・・オレがそうしたいだけだから。お前はおとなしく
送られとけ」
「・・・・・」
「いいな?」
「・・・・・ハイ」
「よし、行くぞ」
 促されて、やや俯き加減のまま阿部の隣をついていく。雨はそう
強くはなかったものの、道の端には既に小さな水たまりが幾つも
出来ていた。
 サーサーと降る雨音を聞きながら、三橋はそっと顔を上げて阿部
の横顔を盗み見る。怒ってはいない。怒られたわけじゃない。大声
を出されると吃驚してしまうけれど、でも今はそれほど怖いとは
思ってはいない。ただ申し訳ない、と三橋は思う。阿部が自分に
色々と気を遣ってくれているのを知っている。とても大事にされて
いるのだと分かっている。
 でも。
 だから。
「・・・・・三橋?」
 いつしか阿部の方を凝視していた三橋の表情がくしゃりと歪むの
と、阿部がこちらを振り返るのが、ほぼ同時で。いまにも泣き出し
そうな三橋の様子に、阿部が驚いたように目を見開いた。
「何、泣い・・・」
「オレ、濡れて・・・ない」
「・・・そりゃ、傘・・・・・」
「あ、阿部君は、濡れて、る!」
 思いのほか強い口調の三橋に、阿部の表情が僅かに強張ったよう
に見えたが、ゆっくりとそれは苦笑に変わる。
「お前が濡れてなきゃいい」
「良く、ない!」
 キッ、と。強い瞳が目元にうっすら涙を溢れさせながら、阿部を
睨み付ける。
「あ、あ・・・べくん、は・・・そうやって、いつもオ、レのこと
心配して、大事にしてくれる、けど・・・っオ、レ・・・だって!」
「・・・三橋」
「オレ、のせいで・・・阿部君、が・・・濡れて、か、風邪ひいて
・・・そんな、の・・・ダメ、だ・・・っ」
 相合傘は半分こじゃなかった。普通に半分ずつ差し掛けていれば
それぞれの外側の肩がどうしたって濡れてしまう。なのに、三橋の
肩は全く濡れてはいなくて、それは阿部が三橋からは見えていない
反対側の肩を大きくはみ出させて、三橋に傘の殆どを差し掛けて
いたから。
 三橋が濡れないようにと。
 自分の右半分をずぶ濡れにしてしまっていても。
「ダメ、だ・・・カラ・・・そんなの、は・・・イヤ、なんだ!
あ、阿部君が・・・オレのこと、だ、いじにしてくれてる、みたい
に・・・オレだって、阿部君の、こと・・・大事・・・なんだ!」
「み、はし・・・」
「う、うう、・・・うっ・・・う、え・・・・・」
 視界がぐにゃりと歪む。とうとう堪え切れずに涙が溢れだして
しまう。阿部の困惑した顔がユラユラ揺れて見えて、ああまた困ら
せてしまったんだと思うと、止めようとする意思に反して増々涙と
嗚咽まで止まらなくなってしまう。
 だって。
 阿部がいけないのだ。こんな自分に、こんなに優しくしたりして
自分にはきっと返せる同等のものなんて持ち合わせてはいないのに
今回のように己の身体を濡らしても、三橋を雨から守ろうとする。
もし、逆に三橋が阿部に同じことをしようとしたら、そんなことは
しなくていいと嗜められるのは容易に想像出来るから。
 ずるい。
 阿部はずるい。
「オ、レだっ、ふ、う、うう、ええっ、う・・・・・」
「・・・・・ひでー顔」
 しゃくりあげる三橋の顔に、阿部のシャツが押し当てられる。
抱き寄せられた胸元からは、微かな汗と雨の匂いがした。
「泣かしたの、オレか・・・オレだな」
「う、っち、が・・・」
 阿部が原因な気はするけど、阿部が理由というわけではない。
「結局、濡らしちまったな・・・」
 いつの間にか傘は手から離れて転がり落ちて。自転車も倒れて
しまっていて。
 そして雨の中、どんどん濡れそぼっていく2人。
「あ、阿部君、か、ぜ・・・」
「ああ、このままじゃ風邪ひいちまうな・・・オレもお前も」
 こんなはずじゃなかった。泣いて困らせて、阿部を全身ずぶ濡れ
にさせて、もしかしたら風邪もひかせてしまうかもしれない。
「っ、あべく、・・・」
「取り敢えず、このまま送るから」
「で、も」
「お前んちでタオルと傘貸してくれりゃいいよ」
 それは勿論そうするつもりだけれど、それだけではやはり風邪を
ひいてしまうんじゃないだろうか。
「つか、1個でも傘持ってんのにこんな濡れてて、家の人びっくり
させちまいそうだな」
 それは確かにそうだけれど。
「あ、・・・お、親・・・今日、いない・・・」
「・・・・・マジで?」
 自転車を起こしながらコクコクと頷けば、阿部の何やら思案する
横顔が目に入る。
「え、えっと・・・あの、よ、良かったら、お・・・風呂・・・」
 あったまってって、と続ければ、阿部の口元が微かに綻ぶ。
「そりゃ色々と好都合」
「は、え・・・?」
 傘はもう畳んでしまって、それぞれ自転車に跨がり、ペダルに
足を掛けて。
「オレのこと、あっためて。三橋」
「う、お・・・・・」
 そのまま一気に漕ぎ出す阿部の後を追い掛けて、三橋も勢い良く
ペダルを漕ぐ。返事をせねばと口を開けば、雨が打ち付けてきて
どうにも喋りにくくはあったけれど。
「あ、あっためる、よー!」
「おー、オレも三橋をあっためてやるから」
「ふ、ひっ・・・い、一緒に、だ、ね!」
 何だか嬉しくなって、ふにゃりと顔が弛む。
 早く家に帰って、2人で暖かい風呂に入って。

 それから。






また濡れます。