『みちゆき』
どこか行きたいとこはあるかと尋ねてみたら、海を見たいと呟いた。やっと
聞き取れた程に消え入りそうなその声に頷いて、阿部は三橋の手を取った。
海、行こう。
阿部の言葉に、三橋は俯き加減だった顔を上げ、そして嬉しそうに笑った。
初めてまともに見た、あの日の笑顔と同じ。あれからずっと自分に向けられる
それが、くすぐったくも眩しくて目を細める。
行くぞ、とそのまま手を引く。繋いで、絡めた指に力を込めて、三橋は阿部
と共に歩き出した。互いの手の平から伝わる温もりが同じことにホッとして、
やや早足の阿部に追い付くように、三橋も歩調を速める。
2人の住んでいる埼玉に海はない。ポケットに突っ込んだ僅かな金で行ける
ところまで切符を買って、幾つも電車を乗り継いで辿り着いたのは、昔家族で
遊びに来たりTVで観たりしたような観光地の海岸ではなく、名前も知らない
小さな駅を降りてすぐに見付けた場所。季節外れの海辺には他に人影もなく、
冷たい風に混じって届く潮の香りはそう強くはない。けれど、三橋は「海だ!」
と幼子のような歓声を上げて、今度は阿部が手を引かれるようにして砂浜を歩く。
地元の人たちの手入れが行き届いているのか、空き缶等のゴミも殆ど見当たら
ない。
そう長くない砂浜を、一歩一歩踏み締めるように歩く。
手は、ずっと繋いだままで。
最初の内は浮かれたように、海だねと繰り返していた三橋も、いつしか無言
になった。沈黙は息苦しくはなかったが、けれど何かのきっかけを探すように
ふと視線を落とした先、足元に落ちていた小さな貝殻に阿部は手を伸ばした。
指先で摘むようにして拾い上げた、小指の爪ほどの小さな薄い貝は、柔らかな
ピンク色をしていて、ああ何だか三橋のほっぺみたいだよな、なんて思って
しまった自分に、阿部はこっそりと赤面する。傾きかけた日の加減で、きっと
赤くなってしまっているであろう頬や耳は、三橋にはただ夕陽に染まってそう
なっているようにしか見えないだろう。それでも、急に立ち止まってしまった
阿部を不安げに振り返った三橋に、半ば照れ隠しのように乱暴に告げる。
「手、出せ」
「え」
「出せ」
言われるままに差し出された手は、こちらの意図するところを知らずに手の
甲を上にして軽く握られていて。阿部は左手を添えて裏返し、指を1本1本
ゆっくりと解いてやると、手の平の真ん中に貝殻を乗せ、またそっと握り込む
ように三橋の拳を自分の両の手で包んだ。
「やるよ」
「・・・貝?」
「拾いもんだけどな」
「う、ううん! うれ、しい!」
ぶんぶんと首を振って、三橋は握った手を胸元に抱くようにして目を閉じた。
「大事にする、ね」
瞼が微かに震えている。唇も、声も。
「ずっと、・・・・・大事に、する・・・」
それを見ていたくなくて、阿部は肩口に三橋の顔を押し付けるようにして、
その身体を引き寄せ、きつく抱きしめた。
少しずつ陽が落ちて、風も強くなってきたのか波の音が大きくなった気が
する。
帰りたくない、と。呟いた声は、それでも波音に掻き消されることなく耳に
届いていたけれど、応える言葉の代わりに抱きしめる腕に一層力を込める。
離さないから、と。胸の内で囁きかけて、阿部も目を閉じた。
こうしていれば、まるで世界で2人だけになったような感覚に、奇妙な安堵
を覚える。
本当に2人だけになど、なれるはずもないのに。
大きな波が迫ってくる。今の自分たちでは抗いようのないそれに攫われたく
なくて、引き離されるのを拒んで、逃げるようにしてここまで来た。今、耳に
聴こえている波音は、2人を飲み込んで引き裂くことは、ないのだろうか。
浸ればきっと身は凍えてしまうだろうけれど、それでも優しく2人を受け入れ
てくれるのだろうか。
ふと過った甘い誘惑に、しかし阿部は力なく首を振った。その選択に、今は
まだ身を委ねたくはない。
「あったかい、ね」
「・・・ああ」
互いの体温を感じ、与え、分け合うようにして、2人は地平の向こうに陽が
沈んでも尚、抱き合っていた。
どこかに救いがあるとイイ