『spell』



「あ、・・・れ?」
 授業が始まる5分前。朝練でクタクタの身体を半ば引きずるようにして
田島たちと共に教室に入った三橋は、席について机の中をゴソゴソと探り
ながら、怪訝な声を上げた。
「どったー? 三橋ー」
 前の席の田島が身体ごと振り返りながら問うてくるのに、三橋は下がり
気味の眉を更にヘニャリと下げながら、ボソボそと呟いた。
「き、教科書、置いてたハズ、なのに・・・」
「ないの?」
 何度も頷きながら、ふと時計を見る。授業開始まで、あと4分。現国の
教科書を借りられそうなクラスがあっただろうかと考える余裕すらない。
「教科書って、昨日ロッカーに幾つか詰めてなかったか?」
 やや離れた席についていた泉が告げた言葉に、三橋はハッとしたように
立ち上がった。
「お、お、置いてった!」
 机の中に入れっぱなしの教科書やノートの量が増えつつあり、さすがに
全部を置いておくのが難しくなってきたので、一部は昨日部室のロッカー
へと移動させたのだ。
「い、行ってくる!」
「おっ、おい! 今から取りに行ってたら間に合わな・・・」
 それに。部室のカギは、キャプテンの花井かもしくは部室を最後に出た奴
が持っているはずだ。三橋が行ったところで、開いてはいない。泉たちが
慌てて引き留める声も聞かずに、三橋は教室から駆け出していた。
 あーあ、と溜息をつきながら仰ぎ見た壁の時計の長針は、もうあと3分で
授業が始まる位置を示していた。




「・・・・・うう」
 どんなに急いで駆けていったところで、部室の前に辿り着く頃には授業
開始時刻を過ぎてしまっていた。それどころか、部室のドアは引いても
押しても動かない。ゼエゼエと弾む息を整えながら、三橋はその時になって
ようやくカギの存在に気付く。
「ど、どうしよ・・・」
 どうしようと呟いたところで、カギがなければどうしようもない。授業に
遅れた上に、結局教科書も忘れたということで、教師には叱られてしまう
だろうが、こうなれば諦めて教室に戻ってちゃんと謝って、隣の席の人に
教科書を見せて貰うなりするしかない。
 ふーっ、と大きく息を吐き出して、三橋が踵を返した視線の先。
「・・・う?」
 植え込みに、何か白い紙切れのようなものが見える。誰かが突っ込んだ
のか、どこかから飛ばされてきたのか。ともあれ、紙屑はゴミ箱にという
言葉が頭に浮かんだ三橋は、屈んでその白い紙を拾い上げた。
「あ、れ・・・」
 だが、ただの紙切れだと思っていたそこには何か文章のようなものが
書かれているのが見える、もしかしたら誰かが大事なことをメモしていた
のを紛失して困っているかもしれない。けれど、そうだとして書かれている
内容を自分が見てしまっても良いのだろうか。迷いながら、だけど拾った
時に過った文字の中に、ある名前を見た気がして。
「・・・・・阿部、君・・・?」
 躊躇いながら、だけどここに書かれてる内容は絶対に言い触らしたりは
しないからと、どこの誰とも知らない持ち主に誓いながら、恐る恐る手に
した紙に視線を泳がせる。
 そして、何行かのその文章の、最初。1行目を読んで、三橋の表情が
やや強張る。
「何、・・・これ」
 続けて、2行目、3行目と読み進めていくうちに、三橋の紅潮していた
頬が、スーッと血の気を失っていった。


   阿部君はいないよ
   いないんだよ、もう
   死んじゃったのかな、もしかして


「何、な・・・に・・・?」
 阿部が。
 いない?
 どういうことだ、と三橋は震える手で紙を持ちながら、更に続きに目を
走らせる。


   TEL連絡はなかった?
   留守電に何か入ってなかった?
   要するに行方不明ってことかな
   みんな知らない誰も知らない


 そんなはずはない。阿部は、ついさっきまで一緒に朝練をしていて、
練習後は花井たちと教室に戻ったはずだ。そのはずなのだ。
 だが、三橋たちの方が先に部室を出たから、阿部が教室に戻って、今
ちゃんと授業を受けているかどうかなんて、分からない。
 慌てて携帯を確認しようとしたが、それを入れたカバンは教室だから
戻らないと見ることは出来ない。


   花井君たちもそうじゃないかな
   知らないよきっと
   話してもどうせ無駄だからね
   お母さんにも言わない方がいい


 花井たちも知らないのかもしれない。阿部が、今どこにいるのかを。
行方不明という文字と、そして死んじゃったのかなという不吉な文字とが
三橋の頭の中をグルグルと回っては思考を乱していく。
 どうしよう。誰にも相談出来ないのか。このまま教室に戻って授業を
受けて、休憩時間になったらすぐにでも阿部のクラスに行って、無事だと
いうのを確認して。それで、間に合うのだろうか。


   練習はサボっちゃダメだよ
   ノーコンになったりしたらさ
   もう阿部君は球捕ってくれないよ


「あ、あ、阿部、く・・・阿部君・・・」
 阿部がいなくなる。阿部に球を捕って貰えなくなる。
 阿部が。
 阿部に。
 阿部を。


   残された時間は、もうあと少しだけ
   だったら答えは分かるだろ?


 そんなのは。
 イヤだ。
「あ、・・・阿部君! 阿部君・・・っ!」
「何」
 堪らずにその名を叫んだ三橋に、すぐ近くで応えがあった。
「何、そんなでっけー声出してんだよ」
 一応授業中なんだぞ、と。たしなめる口調で告げながら、阿部がこちら
に向かって歩いてくる。
 そんな。何故。そう、今は授業中で。
 阿部は。
 どうしてここにいるのか。
「で、お前こんなところで何してんの」
「お、オレ、・・・あ、阿部君、は・・・・・」
 恐る恐る聞き返せば、阿部は手の中のカギを鳴らしてみせながら、ニッ
と笑った。
「忘れもん。あー、もしかしてお前もか?」
 カギなきゃ開けらんねーだろ、と苦笑しながら三橋の傍らを擦り抜け、
阿部は手にしたカギを差し込むと部室のドアを開け放った。
「ほら、忘れもんなら早いとこ取って教室戻ろうぜ」
 ズカズカと部室の中に入っていく阿部に続いて、三橋もノロノロと足を
踏み入れ、ロッカーを開ける阿部の背中へと視線を向ける。
 何が何だか分からない。
 このメモは何なんだろう。
 阿部は、ちゃんといるのに。
 だけど。
「・・・・・三橋?」
 入ったところで突っ立ったままの三橋に、阿部が怪訝な目を向ける。
「どうした?」
 尋ねる声は、三橋の様子を心配してかどこか気遣うような響きで。どう
答えたらいいのか分からなくなって、手の中の紙切れをきつく握り締めれば。
「さっきから気になってたんだけどさ、・・・何ソレ」
「っ、・・・・・」
 ずっと手にしていた紙を、阿部に気付かれていた。隠しもしなかったの
だから当然とも言えたが、けれどこの紙に書かれている内容を思えば、何と
説明すればいいのか浮かばなくて、三橋はゆるゆると首を振って後ずさる。
「三橋」
阿部だって、こんな怪しげなメモを見たら、ショックを受けるに違いない。
だから、見せたくなかったのに。
「う、あ・・・っ」
 そんな三橋の思いも空しく、スタスタと歩み寄った阿部の手で難無く紙は
奪われてしまう。握り締めて皺のよった紙を適当に広げて、阿部は書かれた
文字を目で追っていた。
「・・・・・で?」
 ザッと目を通し終えて、指で摘むようにして紙片をヒラヒラさせながら
阿部はまだドアの前で小さく震えている三橋に声を掛けた。
「これ、お前の?」
 ブンブンと首を振って否定すれば、そうだろうなと軽く返された。
「取り敢えず、教室戻るぞ」
「え、・・・・・」
 そんな。あんな意味の分からない、気持ち悪いとも言える文章を見たのに
どうしてそんな平気でいられるのか。
「でも、でも・・・・・」
「オレは、いなくなんてならない」
 クシャッと紙を握りつぶしながら、阿部は言うけれど。
「でも、っ・・・オレ・・・オレ・・・・・」
「三橋は、オレがいないなるのはイヤなのか」
 当たり前だ、と三橋は強く思う。阿部がいなくなったら、自分は。
「球、捕って貰えなくなるから?」
 それは、そうだ。それも、そうなのだけど。
「そ、れだけじゃ・・・な、い」
 それだけではない。阿部がいなくなるなんて。
 阿部がいない、なんて。
「イヤ、だ・・・阿部君・・・阿部君・・・・・」
 怖い。あのメモの意味することは全く分からないけれど、何か恐ろしい
ことが起きそうな気がして、三橋は縋るように阿部のシャツの裾をギュッと
握り締めた。
「ここに、いて・・・欲しい」
「・・・・・いるよ」
 ここに。自分の側に、ずっと。
「あ、阿部君・・・が、・・・オレ、阿部君のことが」
 ずっと。
「好き、だ」
 口にしてしまって、ああでもこれはどういう意味に取られてしまうのだ
ろうと、俯き加減だった顔を上げれば。
「あ・・・」
「それ、前にも聞いた気がするけど」
「ち、が・・・そうだ、けど・・・でも、そうじゃない・・・・・」
 それよりも、ずっと。
「阿部君のことが、好きなんだ・・・」
 どうやったら上手く伝えられるのか分からない。でも、どうか分かって
欲しいと瞳をジッと見つめながら告げる。
「好き・・・好き・・・・・」
「・・・・・好き、か」
 ふ、と。目を細めた阿部が、微笑ったような気がして。
「・・・・・あ」
 抱きしめられたのだと気が付いた時、三橋の瞳からポロリと涙が零れた。
「愛してるよ」
 そんな。阿部の口から、酷く甘ったるい囁きが聞ける、なんて。
 現実感がなく、何だかフワフワと身体が浮いているような錯覚。
「三橋はオレのものだ」
 耳朶に響く言葉に、三橋は頷いて目を閉じた。



 あれは。
 あのメモは、どういう意味だったんだろう。
 熱にうかされるような感覚に身を震わせながら、覚束ない口調で聞けば。


「あれは、・・・望みが叶う呪文だったんだよ」

 そんな答えを聞いた気がした。






誰かさんの望み。