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マンドラゴラ(3)
さて、こちらはカリムの自宅。
数千平米の敷地は回りをぐるりと塀に囲まれ、中には白と水色に塗られた美しい邸宅のみならず、サイロや家畜小屋、召使いの家屋やアメン神を奉る祀堂まで備わっているという、テーベ屈指の邸宅である。
そんな立派なお屋敷の手入れの行き届いた庭園で、シャダとカリムはパピルスの植え込みの陰をこそこそと隠れるようにして進んでいた。
「うるさいっ!来んなっ!しっしっ!あっち行けったらぁ!しっ!しっ!」
くるりと巻いた尻尾をちぎれるほどに振りながらまつわりつく小さなバセンジー犬たち(※)に、ハァハァと熱い息を吹きかけられたシャダは、つい大声を出してカリムに睨まれる。
「ボクはどうも犬好きのするタイプみたいだね」
肩をすくめて言い訳するシャダの頭上から、その時野太い声が降ってきた。
「おんやぁ、カリムぼっちゃま!」
びくうっ!と肩をすくめる少年たち。
恐る恐るふり返ると、そこには天秤棒をかついだヌビア人の庭師が、真っ黒な顔に白い歯を輝かせている。
「ぼっちゃまたちが庭でお遊びなさるなんて、こりゃまためんずらしい事もあるもんですなぁ!」と庭師は笑った。
「そ、そうなんだよ、イネニ!あんまり花がきれいだったからね」
あわてて立ちあがったカリムは、照れ隠しのようにつけ加えた。「これもみなお前たちが毎日そうやって水をやってくれるからだ」
主人の大柄な息子と犬たちを従えたやせぽっちの少年とを、ちょっと疑うように見つめていた庭師であったが、すぐに彼の顔にはにまーっ、と満面の笑みが浮かんだ。そのとたん、強い太陽の光に照りかえるのは、見事なまでの出っ歯。
「だどもぼっちゃま、このあたりはパピルスや柳やアカシアの青い葉ばかりで、花はちぃーとも咲いとりませんがな?」
そして回りを伺うように見回すと、彼は声を低くした。
「お目当てのものはもうほとんど実が落ちとりますがな。ほれ、あすこのレタスの下に植えとりますわ」
庭師の指さした方を見た少年たちは、唇を固く結んだままうんうんと激しくうなずいた。
「ただぼっちゃま、子供が食ってええのは一人一個、それっきりでごぜえますだよ」
怖い顔をしてみせた庭師は続ける。
「まぁそのくらいなら夜眠れんようになるくれぇですからな!それに男同士で食ったって別にどうってこたぁごぜえません。
もしこのお友達が娘っこなら、手前も必死でお止めするのでございますがな」。
悪戯っぽい笑みを浮かべた庭師は、「さぁお前ら、おやつをやるでこっちさ来い!」と口笛を吹いて犬たちを呼び寄せると、出っ歯を太陽に輝かせ、天秤棒の先にくくりつけられた水瓶を揺らして去っていくのであった。
※バセンジー犬……アフリカ原産の「吠えない犬」。大きさは柴犬程度で耳はピンと立ち尻尾が固く巻いている。 現代のバセンジーは近代になって改良された犬種と思われるものの、古王国時代の貴族の墓レリーフにはバセンジーそのものの犬の姿が頻繁に見られる。
「ほら、これがお前が知りたがってたやつだ」
カリムが指さした先に咲いていたのは、自邸の庭でも見た、あの青紫の花。
長く青々した葉の陰に隠れるようにして、酸っぱい記憶を呼び覚ます黄色い果実も、四,五個実っている。
「ほほぉ……これが噂のマンドラゴラか?!へえぇ!」感激のあまりシャダは何度も深い溜息をついてしまう。
「で、これを食べたらどうなるの?」
だが、帰ってきた答えは「知らない」の一言。
「アイシスが何か言ってたじゃないか!ケチケチしないで教えてよぉ!」
「そんなもの知らないよ」
「エッチなことと関係あるんでしょ?えへへへ」
「知らないってば」
「ホントは知ってるんだろ?どうしてこんな実がエッチなの?」
「うるさいっ!この『どちて坊や』め!」
質問攻めにされたカリムがついに怒った。
「『どちて坊や』って何だよ?!」
「そういうところが『どちて坊や』なんだよっ!『どうして』って聞く前に自分で食ってみろ!」
まんまと庭園の主の許しを得たシャダは、悪だくみを企てる猫のように瞳をくるくるさせてにんまり笑った。
「なら一緒に食べようよ。だってこの庭はお前の父上の持ち物なんだもの。さぁカリム!さぁ、さあ!」
しかし、渋面をつくった友人のほうは、すっかり腰が引けてしまったようだ。
「うーん、お父様にばれて叩かれるのもイヤだなぁ……ねえ、シャダ、やっぱりやめとかないか?大人が止めるには何か訳があるんだよ、きっと」
だが、流されやすいはずのシャダの意志は、この件に関してだけはいつになく強固であった。
「いいよイケズ!ならボクだけ食べてやる!」
黄色い実を手荒にもぎ取ったシャダは、あんぐり大きく開けた口でかぶりついた。細い顎をつたって透明の汁がぼたぼたと垂れる。
それを見て思わずごくりと喉を鳴らしたカリムは、たまらなくなって尋ねた。「ど、どう?うまい?」
シャダはしばらく口をもぐもぐさせていたが、実を飲み下すと首をひねった。
「……なんか……不思議な味……」
「不思議ってどう不思議なんだよ?」とカリムはあせり顔で友人をのぞき込む。
「どう不思議って……うまく説明できない。お前も食べて見ろよ!」
実を差し出されたカリムは、恐る恐るひとかけ口にして首をかしげた。
「なんて言えばいいのか……よく分からないな」
「そうだろ?美味しくないこともないけど……特に美味しいってこともないよねえ」
「うん。不思議な味だ」
「これがどうしてエッチに関係あるんだろう?」
掌中の実をまじまじ見つめるシャダ。
「うーん……食べながら呪文を唱えるとかするのかもしれないな。」カリムも首をかしげる。
「……ねえ、もっと食べてみたらどうだろう?」
と、その時シャダが提案した。
「そ……そういやそうだな。何でもやってみなきゃ分からないよな」
いつもなら吊り橋を叩いても渡らないカリムも、今日は不自然なほど乗り気だ。
そして少年たちは、「エッチへの期待」に心躍らせながら一つ、そしてまた一つ……と次々に禁断の実に手を伸ばすのであった。
しばらく後……
「なにがエッチなのか全然分からないよね!サギだ!」
シャダはプンプンしている。
「うん、一体何だったんだ?これは」カリムも怪訝な顔。
だが、飽きっぽいシャダが「暑いから部屋で本でも読もうよ」と友達の腕を引っ張った時・・・
少年たちの間に流れたなにかとてつもなく奇妙な空気。
指先で白い腰布のひだをいじっていたシャダは、「やっぱりもうちょっとここに座ってよーっと」、と元気よく叫んでカリムの隣にすとん、と腰を落とすと、落ち着かぬ様子でちらちら友人の横顔を盗み見た。
かたや、カリムの方も必死でそ知らぬふりをしているものの、そのそわそわぶりは隠せない。
やがて、シャダが気まずい沈黙に耐えかねてついに口を開いた。「ねえ、カリム……」
「……な、何だよおっ?!」
声を掛けられたとたん、カリムはびくんっ!と体をこわばらせて怒ったように返事した。
「なんか……変なかんじがしない?」ともじもじするシャダ。
カリムも「……う、うん……暑いな」と目を伏せる。
「暑いっていうか……体が熱くない?」「……そだね……・」
「なんかものすごくもやもやする……これが『エッチなかんじ』なのかなぁ」
「うん……あそこが固くなって……気持ち悪い」
「ボクもだ……」二人は何やらあらぬ所に手を伸ばし、腰布をごそごそやっている。
頭上からはピチュピチュさえずる可愛い小鳥の声。
「……ねぇ、カリム……」
「……えっ?……な、なにっ?」とカリムは飛び上がらんばかり。
そして一瞬の間があって・・・
熱いため息をついたシャダが、思い切ったように切り出した。
「あ、あの……キ……キスってどんなんだと思う?」
「……えっ?」
「……ためしに一回やってみたくない?」
あまりにも唐突な申し出に、飛び上がらんに驚いたカリムは顔を真っ赤にして叫ぶ。
「ば、ば、馬鹿っ!な、な……何言ってんだ?き、気でも狂ったのか?男同士でな、何を言いだすんだっ!」
「気なんか狂ってない」
シャダは小さな猫科の生き物のような瞳で友人をじっと見つめたまま、きっぱり言った。
「ただ……どんな感じがするのか、今ものすごく知りたい気分なんだ」
そのとたん浅黒い少年の顔には、嬉しいような悲しいような、困りはてたような何か決意したような、なんともいえぬ奇妙な表情が浮かぶ。
だがやがてふいっ、と目をそらしたカリムは、青々とした葉を広げるレタスを見つめながら、小さな声で言った。
「……い、一度っきりだけだぞ」
それを聞いて嬉しそうにうなずいたシャダは、紅潮したカリムの頬に手を伸ばした。
そうして大人たちがやっているように汗で張り付いた相手の黒髪を指先で優しくかき分けて・・・二人はそっと口づけた。
庭園では風に枝を揺らした緑の柳の樹が、さらさらと軽やかな音を立てていた。
そして、無限に思える何とも気まずい数分の後。
「ねぇ、カリム」無言のまま花壇のふちに腰かけていたシャダがぽつりと言った。
「エッチってあんまし楽しかないね」
「……ん……」
「大人のいいつけ、守ってればよかったのかなあ・・・」
「……ん……」
地面を行進する蟻をじっと目で追っていたシャダは、己を鼓舞するように勢いよく立ちあがると、艶やかなおかっぱ頭を見おろした。
「カリム、ボク……もう家に帰るよ」
「……ん……」
「じゃあ、あした学校でね!」
カリムはパタパタと庭園を走り去る細っこい友人の後ろ姿を、ただぎゅっと唇を結んで見つめるばかりであった。
耳傾けるは従順なる息子にとりて有益なり。
耳傾けるはなにものにもまさり、
美しき愛を生じせしめる。
神の愛し給うは耳傾ける者にして、
神の憎み給うは耳傾けざる者なり。
息子が父の言葉にしたがうのはなんと美しいことか。
これこそ、その人にとり生命にして繁栄にして力なり。
プタハホテプの箴言 (古代オリエント集・屋形禎亮訳)
あれから一ヶ月の間というもの、何となく気まずくて、顔を合わせてもろくすっぽ口もきかなかったシャダとカリム。
ああ、本当に……息子が父の言葉にしたがうのはなんと美しいことか!
学校で繰り返し書き取りをさせられた口うるさい賢者の教訓が、この時ほど少年たちの胸に染みいったことはなく、また、少年たちが親の言いつけを破ることはもう二度となかったのだ。
そして、二人が真面目くさった顔でふたたび口づけを交わすのは……
これからまだずっとずっと先のこと。
ヤシの枝にさらに7つの刻み目が付けられて、二人が今より少しは大人になった頃の話なのである。(※)
おしまい
※・・・葉をはらったヤシのヒエログリフは年(レンペト)や時、季節(テル)という言葉に使われた。
ローマ時代の神官の書いたヒエログリフ注釈書によると、当時はナツメヤシの枝に一年ごとに刻み目を入れて年を表したためということである。
なお、マンドラゴラとは英国風の呼び名であって、エジプト文献の中ではマンドレークと表記されることが多いようですが、ここでは馴染み深い方の名称を使用しました。
ヨーロッパでは「恋ナス」と呼ばれ、媚薬として名高い植物ですが、エジプト美術の中でもその黄色い実は、セクシュアルなシンボルとして頻繁に登場しています。
ただ、植物史を調べると催淫剤として使用されていたのはヨーロッパと同じく根っこの方のようで、実際に実の方にエッチな力があったのかどうかははなはだ疑問です。
とはいえ「根っこをしがんでチュー」ではどうも絵にならないので、ここでは無理矢理ながら果実の方に登場して頂きました。
加えて実の大きさについても、大きさはアテにならないエジプト美術ではレモン程度に表されているものの、園芸関連サイトを調べるともっと小さいのでは?という疑問も残ります。
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