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コッコちゃん(その1)
上下エジプト王、両国の主、力の主、アメンの子、アクナムカノン陛下(生命、繁栄、健康あれかし!)の治世十七年収穫期第二月のできごと。
暗黒に閉ざされた地の下で世界を混沌の海に沈めんと画策するのは、臭気漂う鱗だらけの体をぬらぬらとのたうたせる邪悪なる蛇・アポビス。
毎夜繰り返される闇の太守との闘いに、太陽神ラー率いる神の一団は今日も辛くも打ち勝った。
神々を乗せた黄金の船はもうしばらくの後に、テーベを守る東の峰々の狭間からその舳先をのぞかせるであろう。
だがしかし。
ラーの船の光輝があまねくエジプトを照らし出すよりも、先んじること小一時のこと・・・
まだ目覚めぬ王都テーベの闇を一刀両断に切り裂くかのような大音声が、しんと冷たく静まりかえった空気をびりびりと震わせた。
「コッケコッコォォォォォォォーーーー!!」
「・・・・・・う・・・うぅーん・・・」
足元に蹴飛ばしてくしゃくしゃになった掛け布を寝ぼけまなこでたぐり寄せ、それをすっぽりとかぶるのは綺麗に剃髪した頭に刺青を施した若い男。
「・・・ココココ・・・コッツケケコッコー!」
「・・・ううううっ・・・」
さらには丸い頭をふかふかしたクッションにぎゅっと押し当てて、両の耳にしっかとふたをすると、豹の襲撃を受けたアルマジロよろしく体をまん丸くしてみる。
「ココココココココ・・・・コッケコッコォォォーーーー!」
「・・・ダメだあっ!も・・・もうこれ以上ガマンできないーーーっ!」 クッションも毛布も空中にはねのけて飛び起きたシャダは、隣で安らかな寝息をたてている男の豊かな黒髪を力まかせに引っ張った。
「あ痛いたたたあっつっ!!」
おかっぱ頭を押さえながら逞しい半身をのっそり起こした男は、寝ぼけまなこをごしごしこすりながらあたりを見回してみて、部屋の暗さに怪訝な顔。
「ああ?どうしたっていうんだ。まだまっ暗じゃないか」
「どうしたもこうしたもないっ!なんとかしてくれよカリムぅ」とシャダは情けない声を上げた。
「ふわぁあああ?・・・いったい何をだ?」
相手の怒りなぞどこ吹く風、といった風に大あくびをひとつした恋人を、山猫を思わせるアーモンド型の目はぎっとばかりに睨みつける。
「あれが気にならないなんて神経が太いにもほどがある!お前の耳には泥でも詰まってるのか?」
「いや・・・耳掃除は昨夜したところだが」
「そういう話じゃないよっ!あのいまいましい生き物のことだ!」
「・・・・・・生き物・・・?」
生まれ持ってのくっきりしたアイラインに縁取られた緑の瞳でじっと中空を睨んだカリムだったが、一瞬のちにやっと何かに思い当たった様子で目をしばたたいた。
「・・・・・・『コッコちゃん』のことか?」
「そうだっ!その『コッコちゃん』だ!」
シャダは腹立たしさにぎりぎりと奥歯を噛みしめた。
「毎朝律儀に起こしてくれるのはいいが、おかげで僕はひどい睡眠不足だ!」
「俺はさほど気にはならないがな。お前が神経質すぎるんだろ」とカリムは目をこする。
「いや違うっ!」 分かってもらえぬもどかしさに、小さな子供のように地団駄を踏まんばかりのシャダ。
「お前はトリマニアだから腹が立たないだけだろ?!
一体なんなんだあれは?最近では鳴き声に『タメ』まで入ってきてる。僕はあれがもう気になって死にそうなんだ。もうこれ以上は一瞬たりとも耐えられない!」
シャダが声を震わせたその時、二人の耳に届いたのはさらに誇らしげに響き渡る声。
「ココココココココココココココココココココ・・・・・・」
思わず息をころしじっと耳を澄ますカリムとシャダ。
「ココココココココココ・・・・・・コケェェェェーーーーコッコォォーーー!」
「・・・うーむ、確かにタメを会得したようだな」
丸太並みに太い腕を組んで、さも感心したようにカリムはうなずいだ。
「あれは教えようとしてもなかなか覚えちゃくれない技なんだがな。ふーん、なかなかのものじゃないか」
相も変わらず悠然とした様子にすっかり毒気を抜かれたシャダは、やや声の調子を落とながらも不満げに小鼻をふくらませた。
「妙なところに関心しないでくれよ・・・技巧優れた竪琴弾きのタメならぐっとくるけど、トリにタメられても癇にさわるだけだ。何とかしろよ、トリ使い」
だが、カリムは艶やかな黒髪を揺らしながら肩をすくめてかぶりを振るばかり。
「うーむ、そうは言われてもなぁ、啼きたがる鳥の口を縛るわけにもゆかんだろう?それにあの鳥は俺に託されたとはいえまだ王のものだから、好き勝手もできんしな」
睡眠不足の元凶が、ホルスの化身である偉大なるファラオに属するものであることをにわかに思い出したシャダは、がっくりと肩を落とし眉間にしわを寄せて弱々しく呟いた。
「じゃあこれからも、僕はパン焼き職人や聖水係の見習い神官よりずっと早起きしなきゃならないんだな。昨夜もお前が何回もやりたがるせいで睡眠不足なのに・・・このままじゃ体をこわしてしまう・・・」
そう悲しげにうなだれる恋人の細い肩を優しく抱き寄せたカリムは、子供をなだめるように「・・・まあ色々考えてみるから、今はとりあえず眠っとけよ」とだけ言うと、あくびをかみ殺しながら横たわり再び目を閉じるのだった。
三つ数えないうちに聞こえてきた規則正しい寝息に溜息をつきながら、渋々ながら寝台に横たわるシャダ。
けれども、しつこく早朝の空気を震わせるけたたましい鬨(とき)の声が気になってたまらない彼には、寝なおすことなぞ到底無理というもの。
汗とほのかなアーモンド油の香りが入りまじった男の体臭に包まれながら、やたらと激しかった昨夜の情事のことなぞに想いをはせようとしてみたものの、神経質なシャダにはどうしても生意気な鳥のタメが癪にさわって仕方がないのだ。
明日の仕事は辛いだろうけれど、いっそこのまま起きてぶらぶら庭でも散歩する方がずっといいかもしれない・・・
そんな事を考えながら、シャダは固くぶ厚い胸板に顔をうずめたまま何度も深い溜息をつくのだった。
だが、人々の安らかな眠りに容赦ない横やりを入れるこの小さな生き物にふつふつと怒りをたぎらせているのは、なにもこの若い法官ばかりではなかったのである。
流行に敏感なテーベ娘の間でいま引っ張りだこの化粧品。
それは7つの花の香りを絶妙なバランスで調合したクレタ産の香油・「クノッソスのまどろみ」。
これ一本あれば狙った女を落とせると遊び人の間でまことしやかに囁かれるまでに人気のこの香油は、もちろん入荷するや否や即完売。
その結果、意中の相手には媚薬として名高いマンドラゴラを仕込むよりも、人気のブランド物を贈り物にして口説く方がずっとスマートだと考える洒落男や、恋敵に少しでも差をつけたいと願う恋する乙女から、入荷予定についてさえすら血走った視線が注がれていた。
だが、この商品の販売を一手に握っていたのは、もちろんオリエント一の商売上手・シリア商人。
クレタから輸入された商品の販売数をこの上なく巧みに操作する彼らのたゆまぬ経営努力によって、「クノッソスのまどろみ」は王宮においてすら得難い品と化していたのである。
さて、人もうらやむそんな香油を、どっしり大きなアラバスタの香油入れに丸々一瓶所有する幸せ者は、ほかならぬ王宮一の美姫・アイシス。
それは美しき女神官の歓心を買おうとした王宮出入りの若いシリア商人が、姫君恋しさに仲間内の協定を破るという冒険をしてまでこっそりと持ち込んだものであった。
「麗しき貴婦人よ、美神ハトホルの寵愛を受けしアイシス姫よ!」
会うたびにキザったらしい言葉を並べ立て、この才媛を懸命に口説こうとしているのは、満月のようなまん丸顔にちょび髭をはやしたシリア人ベンテシナ。
「おお!果物の詰まりし籠、薫り高き蓮の蕾、葡萄酒で満たされし川よ!貴女の香しきお声を耳にするだけで、私は酒なしに酩酊してしまいそうです・・・」
ベンテシナはこんなふうにキョトキョトとせわしなく動くカエルのような目を輝かせ、てかてかした頬を紅潮させながら一心にアイシスを賞賛するのだ。
とはいえ、当の姫君ときたら少女時代から親が「そんな面食いでは結婚に差し支える」と案ずるほどの美形好き。
ましてや勤務先でうんざりするほど顔をつき合わせている同僚達が、揃いも揃ってエジプト、いやオリエント美形番付の上位を争うほど麗しき男たちときた日には・・・
実に気の毒ながら、小柄・小太りなうえにもうすでに頭が寂しくなりつつあるベンテシナには、ハエの目玉ほどの勝機すらないというもの。
だが高嶺の花に惚れた己を恨みながらも、どうしてもアイシス姫を諦め切れぬちょびヒゲ氏が、燃えさかる恋心に負けてついに禁断の贈り物を手に王宮を訪れたした日。
いつもは不細工の口説き文句を素っ気なく受け流すさしもの美形マニアも、大きな香油瓶一杯の「クノッソスのまどろみ」を差し出された時には・・・
「えっ?!これを私に?あらまぁベンテシナ!ほ、本当にいいのかしら?まぁ!なんて素敵な香りなんでしょう!あたくしが貴方に何を差し上げたわけでもないというのに、なんだか申し訳ないわ・・・」 そう言ったきり感激のあまり唇を閉ざしたアイシスは、思わず薄い頭を抱き締めて口づけの雨を降らせたくなる衝動を押さえるのに懸命であった。
そんなこんなでここはそんな人もうらやむアイシスの部屋。
象牙と黒檀とで洒落た幾何学模様が象眼された小机の上の、クレタ風に魚の取っ手のついた花瓶。そこにいけられたシリア産の真っ赤な薔薇は、もちろんかのちょびヒゲ氏からの贈り物である。
フットボードに透かし彫りのロータスが咲き誇る高級寝台の上には、主手ずからパピルスや小鳥を刺繍したふかふかのピンク色のクッション。 ベッドサイドの小机の上にぎっしり並ぶのはピンクの仔猫やクマやアヒルの人形。そう、できる女アイシスは意外にも少女趣味なのである。
そして部屋中に立ちこめている香りは、ほかならぬ「クノッソスのまどろみ」。
だが・・・この素晴らしい部屋の主はいま、真っ白な漆喰の床に茫然自失へたりこんでいた。
まだ化粧もせぬ両の眼に映っているのは、黒檀の衣装入れの上で毛づくろいするでっぷり太ったトラ猫。
そして無惨な破片と化したアラバスタの香油入れ。
ことの次第はこうである。
毎朝、貴重な睡眠時間を容赦なく削るニワトリの声に、ほとほと辟易した女神官が取った策はいたって原始的。
「音がもれないようにしっかりと耳栓をする」ことであった。
「これでやっと朝寝ができるというものだわ。睡眠不足は美容の大敵ですものね。うふふふ」
同僚のシャダをして「王宮一抜け目のない人間」と言わしめるアイシスは、ほっと安堵の溜息をついた。
だが彼女らしくないことに、昨日メンフィスの実家から引き取ったばかりの齢8才の愛猫のこと、それだけがアイシスの頭からはすっぽりと抜け落ちていたのだ。
「ココココココココココ・・・・・・」
思惑どおりいつもの声が聞こえ初めても、寝返りも打たずに静かな寝息を立てているアイシス。
一方、ピンクのクッションを独り占めしていたトラ猫は、耳慣れぬ音に体を震わせるとぴくぴくと耳を動かしはじめた。
「・・・・・・ココココ・・・・・・・・」
耳慣れぬ音におびえた猫は、誰もいない闇に向かって耳を伏せ尾を膨らませて威嚇する。
だが、たかが猫の屋内からの威嚇が、遠く離れたパピルスの籠の上で誇らしげに胸をそらすオンドリに届くはずもない。
「コケーッツココーココッォオオッーー!」
一瞬の静寂の後、一気に襲ってきた恐ろしい声に猫の本能的恐怖は極限に達し・・・ パニックに陥ったトラ猫は主人の顔に飛び乗った。
「フンギャアアアァアァァアアーーー!」
「ギャアアアアアァアアアアーーッツ!」
眠り込んでいるところを鋭い爪でひっかき回されてはさしもの女傑もたまらない。ガバッと飛び起きたアイシスは、何より大切であったはずの愛猫を力任せにぶん投げた。
そして・・・
くるくるくるっと空中で三回転した猫が着地したのは、運悪く「クノッソスのまどろみ」でいっぱいの香油瓶の上。
恐ろしい音を立てて粉々に砕け散るアラバスタ、恐慌状態で走り回る猫、部屋中にプンプンと匂い立つシリア人からの贈り物・・・
「・・・おお、なんてこと!なんてことなんでしょう!」 アイシスは怒りに震えた。
「ぜったい、ぜったいに許さなくてよ・・・覚悟してらっしゃい!あのいまいましいニワトリ!」
粉々の破片と化したアラバスタの前で、サクメト女神のごとき怒りの面もちで口元を引きつらせたアイシスが、香油を台無しにした元凶を必ずやナイルのワニの餌にしてしまおうと心ひそかに誓ったのは、まさにこの瞬間からであった。
そしてまたこちらにも快適な睡眠を邪魔された者が一人、いや二人。
「父上!ねえ起きてよぉ、父上ってばあ・・・」
寝台の上で高いびきをかいている父の肩をゆさゆさ揺さぶっているのは一人の少年。
豊かな髭や長い髪に最近では白いものが混じり始めたカルナック神殿のヘム・ネチェル・テビ(大司祭)は、息子の泣き声まじりの声が聞こえたとたんにそこらの大工が作った安っぽい仕掛け人形のようにがばっとはね起きた。
「おお!一体どうしたというのだ可愛いセトや?!」
息子をしっかと抱き締めたアクナディンは、柔らかな髪を優しくなでた。
「こんなに早くに起きてきて・・・アメミット(古代エジプトの怪物)に追いかけられる夢でも見たのかい?」
セトと呼ばれた少年は、顔を赤くして鼻をふくらませる。
「こわい夢なんかじゃないよ父上。アメミットなんか魔法でおっぱらってやるもん!」 勝ち気にくるくる動く両の目はヌビアの空のように青い。
「ちがうよ・・・こわい夢じゃないよ」
セトはまるで誰かの盗み聞きを恐れるかのように背後の闇を振り返り、声をひそめると、胸から下げたトルコ石のスカラベ護符を指先でいじくり回しながら続けた。
「父上・・・父上にはあのいやな声が聞こえないの?」
山積する問題が引き起こす心労のせいか、近頃は鶏の声程度では目覚めることもないアクナディンであったが、息子に不安を抱かせてはならぬとばかりにあわてて答えた。
「おお、それはもちろん聞こえてはおるが・・・お前はそんなに嫌いなのかい?あの声が」
「うん・・・きらいだ・・・」
「ただの鳥の声ではないか」
「ううん、ちがうんだ。ほかの鳥の声はあんな嫌なかんじがしないもん。聞いてるうちに頭が痛くなって、手がびりびりして・・・すごく気持ちがわるくなってくるの」
眠い目をしょぼしょぼさせながら懸命に状況を説明する息子の愛らしさに胸をぎゅっと締め付けられた父は、子供らしいぷくぷくと柔らかな体を両腕でしっかと抱き締めた。
「そうかそうか、毎朝こんなに早く目が覚めるようでは勉強にも差し支えるからの。そうだね、お前がぐっすり眠れるようにあの鳥は何とかしようね」
そう言いながらさらさらした褐色の髪に幾度もほおずりするアクナディンであった。
さて、残るはマハード。
テーベの警察長官は鬨の声なんぞに眠りを妨げられはしない。なぜならば彼は雄鳥に負けないくらいに早起きだったから。
王と王の墓陵警護に生き甲斐を感じるマハードは、ラーの船が地平線に姿を現すのをデヘネト峰の上から眺めながら、今日も王のためにすべてを捧げつくす決意を新たにするのが習慣であった。
そして今彼は、手に持った葦の穂を指先でいじりながら東岸から聞こえてくる鬨の声に耳を澄ましている。
なんだかよく知らないが、ニワトリという鳥の声には何かよくない響きがあるものだな・・・マハードは思った。 ニワトリという鳥はそもそもこういうものなのだろうか、それともこの心を掻き乱す声は「コッコちゃん」に限ったものなのかな?
テーベには他のニワトリはいないから本当のところはマハードには分からない。
だが、この青年の犬並に鋭い嗅覚は、あの鳥がかつてエジプトと覇を競ったかつての宿敵・・・
北方の大国・ハッティからの贈り物であるところに、何かこうプンプンと危険な香りを嗅ぎ取っていたのである。
<つづく>
書きかけたはいいがハッティ(ヒッタイト)の資料を集めているうちに今ひとつ乗り切れなくて飽きてしまったブツ。折を見ておいおい書いていこうかと・・・ 和平条約を結んだものの、豊かなナイル河畔の覇権を握る夢を捨てきれないハッティが、エジプトを内から崩そうと画策して贈った魔法のニワトリを巡るダメダメな戦い。
コッコちゃんに催眠術をかけるトリ使い・カリムやら、巨大化したコッコに襲われて情けない悲鳴を上げるシャダやら、生物兵器としてコッコを再利用しようとする師団長ホルエムヘブやら・・・とエジプト人オール脱力系。 ちなみに可愛いヒヨコだったコッコと一緒に寝ていたけれど、すぐに飽きてカリムに飼育を任せたのは他ならぬアテム王子。けれど王子は今やプント産の子ザルに夢中です(笑)
18王朝の頃にはすでにアジア方面からニワトリが入ってきていました。でも食用ではなく愛らしい姿を愛でる観賞用だったようです。
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