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気分をだしてもう一度(後編)
そして闇の訪れ。
人も 犬も猫も鳥も山羊も獅子も、池の魚や庭園の花々さえ眠りについているような夜の真ん中、まとわりついて袖を引く重たい闇をかき分けかき分けシモンは進む。
松明を掲げることなく迷いもせず暗闇を行くこの老人は、昼よりもむしろ夜と親しい。
フクロウのように夜目の効く彼にとって、夜道をゆくにはほんの僅かな月明かりだけで十分なのだ。
ファラオの隣に控えては、謁見に訪れた諸外国からの使者や陳情に来た高官のだのを無言のままじろじろと品定めするシモンの瞳は、なんだか心の奥底に潜ませたものを見透かされるような嫌な感じがする、とある種の人々からはたいそう恐れられていた。
そういう、人の正邪を見通すと噂されるカッと見開かれた赤褐色の大きな瞳を、今夜は純粋に個人的な喜びで満たすべく、シモンが目指すのはもちろん愛弟子の眠る高級神官宿舎。(※1)
彼の懐には長い首を背中に曲げた家鴨(※2)の形をとった、小さな黒檀の軟膏入れが潜んでいるが、そこに満たされているのが苦心惨憺の末得られた例の口紅であることは言うまでもない。
やがてシモンは王宮を取り囲むように建てられた住居の角の一軒で足を止めた。
アカシアの扉の前に立った彼の、ふさふさと豊かな灰色の髭に隠れた唇から洩れ出したのは、扉の鍵に語りかけるかのような何かの呪文。
だが・・・呪文を唱えるまでもなく元から施錠されていなかった扉に肩すかしを食らった老人は、呆れたように片眉を上げた。
あやつめ、また鍵をかけ忘れおって!鍵の意味がないではないか。
心の中で弟子をそう叱咤しながらシモンが一直線に向かったのは他でもない、部屋の主が静かな寝息を立てている奥の寝室である。
獲物を狙う豹のごとく抜き足差し足の老人が、月明かりに照らされた水の底のような奥の間で目にしたのは、猫足の寝台の上白いリンネルをはねのけて、こちらに背中を向けたまま熟睡する全裸のシャダ。
そんな格好でおると腹を冷やしてしまうぞ 。
無防備すぎる姿を目の前にして思わず笑みを漏らした老人は寝台に歩み寄り、そっと掛け布をつまみ上げて弟子の胸まで覆ってやるのだった。
若年の髪房を下げている頃から見知ったシャダの寝姿を目にするのは、もちろんこれが初めてというわけではない。
下エジプト宰相の長男であった少年の才能に目を付けて、次代の六神官候補にと無理矢理テーベに呼び寄せたのは他ならぬシモン自身。
親と離れて寂しがる甘えん坊の世話をなにくれと焼くうちに、まるで少年が自分の息子であるかのような錯覚に陥ることもしばしばであった。
乞われるままに陶片に戦車だの犬だのを描くことや、デルタまで鳥猟に連れて行ってやることもあった。
また、今のように無造作にはねのけられたリンネルを、剥き出しの肩にそっと掛けてやることも。
だが寝室まで足を踏み入れていたのは、シャダがまだほんの少年だった頃のはなし。
数年ぶりに細いなで肩や、頭頂から女のそれのように白いうなじに続く柔らかな曲線に目を凝らしていると、シモンは今まで気付かなかった、いや気付いてはならぬと目を反らしていた弟子の色香に息が詰まる思いであった。
これから自分の欲することをなすことに、躊躇する気持ちがないといえば嘘になる。
それがきっかけで今まで培ってきた弟子との信頼関係が一気に崩れ去りかねない。
記憶に焼き付いた艶姿を今一度目したい、という情熱に突き動かされてここまで忍んで来たはいいものの、シモンはこの期に及んでたいそう迷っていた。
一体何をしようとしているんだ儂は、と今さらながらに爺は呟く。
だが、逡巡するシモンの目がその時捕らえたのは、寝台の横の小机に無造作に置かれた青銅の鏡と雪花石膏の小瓶。
青と緑の色ガラスで象眼されたロータスの持ち手を持つ磨き上げられた楕円の鏡は、あまり男性が手にしないものである。
もちろんその横で蓋が半開きになっている兎型の雪花石膏の容器の中身も。
小机の上の品々に驚いた老人は思わずシャダの寝顔を覗き込み、次の瞬間全身から脱力した。
オーボエ吹きの娘というのは他ならぬお前のことだったか。
紅を引いた跡をうっすらと残したまま眠りこけているシモンの弟子。
そうか、そうだったか。 シモンは苦笑しつつ呟いた。
ならば自分がも少し手を加えたとてそう罰もあたるまいて。
彼は神妙な顔をして懐から特製の口紅と紅筆を取り出すと、筆の先にほんの少し紅を取った。 どれ、もう少しきちんとお化粧してみるかの、シャダ。
変態じみた台詞を吐く自分を心の隅で自嘲しつつも、シモンは胸の震えるような興奮を抑えきれない。
十年前、自分を不能にしてしまった忌々しい傷を追ってからというもの、心の奥底に封印していた・・・この全身が総毛立つような感覚を彼は久々に楽しんでいた。
彼が紅筆を握るのは初めてではあったが、紅も神官文字を記すインクも同じこと。(※3)
達筆で名高いシモンは、眠る弟子の唇に一筆一筆、ゆっくりと赤を塗り重ねる。
そして間もなく、化粧専門の女官の手を借りたのかと思うほどに美しく彩られたシャダの唇を、じっと覗き込んだ爺は満足げな深い溜息を漏らした。
あの夜・・・列席者の心を痺れさせた艶姿を今は自分が独占している!
シモンは気が遠くなるほどの高揚感に酔いしれるのだった。
整った卵型の顔の中心に据えられたのは、目が醒めるほどに鮮やかな血の色。
それはあの日・・・戦友の切り裂かれた喉から吹き出して砂漠の砂を染めた鮮血の赤。
断末魔の痙攣に跳ね上がる敵の胸からとめどなく流れ出していた赤。
嵐と疫病の神サクメトに捧げた生け贄から花崗岩の供物台をつたい、ぽたぽたと音を立ててしたたり落ちていた、あの赤。
遠い記憶に焼き付いた獰猛な色味に全身を痺れさせたシモンは、時の経つのを忘れて・・・無言で何も知らずに眠るシャダをただ凝視するばかりであった。
だが、やがて意を決した彼が灰色の髭に覆われた己の唇を、血の赤をしたシャダのそれにそっと近寄せたその時・・・運の悪いことに、長い睫に縁取られた瞼がうっすらと開く。
「・・・・・・・・・・シモン・・・さま?」
夢うつつで自分に向けられた焦点の合わない紫色の瞳を、赤みを帯びた大きな茶褐色の瞳でじっと見返すと、高鳴る鼓動を懸命に押さえたシモンは、何事もなかったかのように無言で立ちあがり滑るように部屋から出ていった。
後に残されたのは黒檀の家鴨と葦の紅筆。
訳が分からぬままぼんやりと寝台に半身を起こしていたシャダは、無意識に唇に触れた指が赤く染まっていることに一瞬、おびえた表情を浮かべる。
だが、それが紅の赤だと気付いた彼は、仄かな月光に照らされる水の底に沈んだかのような寝室で、小机の上の家鴨を見つめながらじっと・・・なにかを考え込むのだった。
次の朝。
闇との戦いに打ち勝った神々を乗せた船は、今日も東の空に健やかな姿を現した。
昨夜の贈り物の喜びがまだ消え失せぬセシェンは、いま若い男女の間で流行っている歌を上機嫌で口ずさみながら、洗濯物の入ったパピルスの籠を運んでいる。
少し上を向いた可愛らしい彼女の鼻に流れ込んでくるのは、台所でパンを焼く香ばしい匂いや、干した葦を焼く煙の匂い。
アカシアの木立では昨日と同じように、小鳥たちが枝から枝へ飛び移っては楽しげにさえずり、犬舎からは犬係を呼ぶ猟犬の甘えたような吠え声が聞こえてくる。
ああ、何て気持ちのいい朝なんでしょう、ラーよ、今日も私たちをお守り下さい!
だが浮き浮きした気分のセシェンの鼻歌は、深刻な表情を浮かべて背後に佇む若い男の存在によって唐突に中断された。
「おはよう、セシェン」
「あ!おはようございます、シャダ様」
慌てて跪いたセシェンにいつもより弱々しい微笑みを投げかけた主の弟子は、「少し立ち入った話があるからしばらく入ってこないように」と言い残すと、屋敷の中へするりと姿を消した。
白い長衣を翻すシャダの瀟洒な後ろ姿を、不審げな顔で見送った娘の好奇心は、どことなく愁いを湛えた彼の表情とその胸に抱えられていた深紅の布に、かつてなく激しく掻き立てられていた。
いったいどうしたのかしらシャダ様ったら。いつも溌剌とした方なのに今日はなんだかしょぼくれてらした。 それに何なのかしら、あの赤い布は?!
いけないいけない!本当に悪い癖。私の詮索するようなことじゃあないわよね。
セシェンは自分にそう言い聞かせてぶるぶると首を振る。
・・・でも・・・とっても綺麗な布だった、きっとドレスね。金糸で刺繍がされてて・・・あんな細かい手仕事見たことない。
それにあの赤のなんて素敵だったこと!どこかからの輸入品かしら。
それにしても昨日の口紅といい・・・やっぱりシモン様ったら女性への贈り物?
そう考え出すともう居ても立ってもいられない。セシェンは限りないなにげなさを装って、屋敷の裏に足を向けた。
パピルスの籠を地面に置いて、日干し煉瓦の壁に張り付き息をころして耳を澄ますと、やがて室内からは主人とシャダが何やら言い争うような声が漏れ聞こえてきた。
「・・・シモン様・・・どうして・・・」「・・・すまないシャダ」
「わたし・・・お断り・・・」「・・・いや儂は・・・」
「・・・・・・・もう隠すのは・・・」「余り趣味が・・・」
「・・・そんなに見たいなら・・・」「・・・いや・・・」
「儂は・・・お前が・・・」 「・・・馬鹿な・・・」
・・・そんなに見たいなら?わしはおまえが?
いったいどういうことなの??
意味がよく分からないままじっと息を詰めるセシェン。
だが、しばしの静寂の後にシャダの押し殺した喘ぎ声が聞こえてきたとき、彼女は全て・・・とまではいかねども、一連の事情を今はっきりと理解したのだった。
セシェンは思わず握りしめていた手の平ににじんだ汗を、スカートの裾でぬぐいながら神妙な顔で呟く。
確かにそういう目で見ると、お美しいシャダ様にはそれ風なところがないでもないけれども・・・ 高貴な方のなさることはやっぱり下々の者にはわからない。 でも・・・シモン様がいいと思われることはきっとそのままでいいんでしょうから、ここはすべて聞かなかったことにして、さあ、仕事に戻ることにしましょう。
そう自分に言い聞かせたセシェンは、自分の出した結論に満足したように何度も頷くと、パピルスの籠を小脇に抱えてアカシアの小道に消えていった。
※1・・・このお話のシャダ坊はまだ10代なので、まだ自分の屋敷を構えておらず宿舎暮らしという脳内設定です(笑) ※2・・・家鴨の形をした化粧容器は18王朝に頻繁に製作されたものであるが、家鴨には新しい生命、または再生の意味があった。 ※3・・・当時文字を記すインクとして、黒は炭、赤は赤鉄鉱(自然に出来る酸化鉄)を用いた。
家政婦は見た!!(テーベ放送毎週木曜夜9時放映)
すまんシャダ!!(土下座)トランスジェンダー(女装趣味)にしてしもうてすまん! なんか私が書くとシャダ坊がどんどんシャダ子に・・・寝てばっかだしさ。寝る子は育つ(違)
本当はシャダはこんなんじゃなくって、もっとキリッと凛々しい頑張りやさんなの!とは思うのですが、10代のシャダという若い設定で書くと、つい情けなさばかりが先に立つなぁ・・・
でもこれから色々もまれて立派なアバズレに成長するんですよ、カレ。 いやマジで今度こそキリッと格好いいシャダを書かなきゃ。遊戯王古代編派ツルリーナ会の会長であるあたくしがこんな変態の爺とハゲばっか書いてちゃいかん!ホントいかんよ!!
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